2011年11月23日
南極に渡った北海道人
明治の南極探検 郡司成忠と伴に北方開発に貢献し、北海道庁の官吏でもあった『白瀬矗』が南極に上陸して百年を迎える。研究者の間では、樺太アイヌの二名が最終地点の南緯八〇度五分、西経一五六度三七分に至ったことは良く知られているが、この探検に北海道人の『吉野義忠』がいたことは、ほとんど忘れ去られている。 吉野は、明治二一年九月一七日に香川県丸亀市に生まれる。明治三三年に北海道の増毛町に移住し、大正七年には室蘭へ転籍しており、この間の詳しい動向は、もはや全くの不明である。 日本人の海外進出、特に苦学生を支援するために創設された日本力行会の会員であった若き早大生は、世界を夢見て白瀬南極探検隊の被服係として参加、明治四五年一月一六日に白瀬、武田、三井所、村松、吉野、山辺(樺太アイヌ)、花守(樺太アイヌ)の7名で上陸し、吉野と村松は根拠地隊として南緯七八度三三分、西経一六四度二二分にテントを張って気象観測を行った。 後に渡米して皿洗いからホテル事業を興し、戦後の南極観測再開の時には、ロサンゼルスからエールを送っている。 占守島に於ける白瀬中尉 出典「郡司大尉・S14年 」探検船開南丸は、北方開発で使用された第二報効丸だった。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」 右から二人目が吉野 出典「南極探検・T2年」 明治45年1月28日最終到達点で日章旗を掲げる白瀬隊長 出典「山岳第三十一年第二号・S12年」
第285回 白瀬の南極探検 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
Posted by 釣山 史 at 11:40│Comments(0)
│郷土の語り
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