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2011年03月28日

福島県の興復社に学べ

◆相次ぐ飢きんの窮乏から復活した十勝の「興復社」

 二宮尊徳の教えを実践し成功させた豊頃町の二宮地区の農民は、この大震災で被災した福島県の岩城、相馬からの団体移住者の後裔である。

 「二宮尊徳」の弟子であった相馬中村藩の「富田高慶」は、天明・天保の飢きんで疲弊した藩領を立ち直させるために、尊徳の「報徳仕法(御仕法)」の導入を提言、勤労・分度・推譲を基本理念に、経済の復興と安定を図った。
 報徳仕法とは、各自に見合った支出の範囲・限度を定め、その余剰を将来に向け、他人のために拠出すること。誠実な心を持って勤勉、質素倹約し、凶作・災害に備えたのである。
 この御仕法の実践は、
 ・勤勉者を表彰するなどして労働意欲を向上させる。
 ・お金や農具を与えるなど困窮者を救済する。
 ・堤防や用水路の新修築を行う。
 というものであったが、明治4年の廃藩置県で廃止され、それは富田高慶が社長となった「興復社」による磐前県内(のちの福島県)の開墾事業として引き継がれたが、維新の改編期の混乱もあり、開墾料の返納金(報徳金)の未納によって資金難となり、同20年には事業の一切を中止せざる得なかった。
 二代目の社長となった尊徳の孫の「二宮尊親」は、県下の困窮民の活路を、新天地の北海道に求めて自作農を行おうと、明治29年に北海道各地を視察・探検し、開墾地を十勝の牛首別原野(現豊頃町)に選定した。翌年には自ら15戸を率いて入殖し、10年後には、移住戸数160戸958人、開墾地844町歩の一大農場を形成した。十勝の先住者の依田勉三や関寛斎とも交流があった。


豊頃町二宮地区にある二宮尊親の墓碑と胸像
福島県の興復社に学べ福島県の興復社に学べ





















供出から戦後に再建された豊頃小学校の二宮金次郎像
福島県の興復社に学べ



















第232回 復興に向け、ガンバレ東北        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
 

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Posted by 釣山 史 at 06:09│Comments(0)北海道の歴史
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