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2011年02月27日

ホタテ貝殻の利用法/後篇

②ホタテ廃棄物の利活用

ホタテ貝殻の利用法/後篇 皿貝とも云われるホタテは、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器として使われ、江戸時代からある貝のまま焼いて食べる青森の郷土料理「味噌貝焼き」は有名で、貝の汁がポイントだと云う。また、戦時中の湧別漁協では、食器の代用品として、軍の命令により大量のホタテ貝殻を発送した。

◆貝のエキス
 さて、『ひとつぶ300メートル』のCMで有名な江崎グリコは、キャラメル1ケで300㍍を走れるくらいのグリコーゲン(運動エネルギーの素)があるということ。
 カキの効能、栄養価の高さは古くから知られていて、大正8年に江崎利一がカキエキスからグリコーゲンを抽出し、同10年に『栄養菓子グリコ』として創業を開始した。
 昭和6年の中外商業新報の「増殖状況とその輸出事情」の中で、『蠣は美味であって滋養分が多く、かつ消化し易い食品であるから広く嗜好されまた薬用としてグリコーゲン性薬剤の原料となり、その他乾蠣、水煮蠣、蠣エキスとして需要多く、また殻は貝灰の原料、養鶏の飼料として貴重なものである』と述べられている。同じく2枚貝で多獲されるホタテは、その頃、いったいどうだったのだろうか?
 北海道庁は、昭和10年前後に湧別の北洋水産工業㈱において、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための試験を実施し、薬品会社数社の協力を得ながら濃縮技術の開発を試みた。
 おりしも、この頃にエキス製造用の真空蒸発鍋が開発されたこともあり、間もなくホタテによるグリコーゲンの製剤化が、事業化されたようである。
 紋別においても昭和11年に創業の昭和産業㈱が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売しており、これらの多くは栄養剤とされ、一部は調味料としも用いられた。また、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のおみやげとして、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。
 さて、残念ながら江崎グリコでは、ホタテエキスからのグリコーゲンの抽出を行わなかったが、調味料として利用した「コメッコ〈ホタテ味〉」は良く知られており、最近では、ホタテ風味の「日清オホーツク北見塩やきそば」が話題となった。
 現在、近隣の常呂漁協では、ホタテエキス精製のプラントを直営しており、紋別漁協は、濃縮エキスを商社へ販売し、これは『ホタテガイエキスパウダー』などに加工されて流通し、その需要は年々高まっている。

◆ホタテのウロ(中腸腺)
 最近、道立工業試験場で、ホタテのウロが金、プラチナ、パラジウムの3金属を吸着する性質を確認して、大きな話題となった。稀少な貴金属を含んだ使用済みの電子基板など、いわゆる都市鉱山の発掘に期待が持てる。
 しかし、昔は平気で食べられていたホタテのウロも、漁獲量の増加とともに加工残さとして大量に発生するようになり、それは多くのカドミウムを含むことから、浜で一番の厄介者となったが、1990年代にカドミウムの除去技術が開発されて、紋別市内には、その処理工場があって飼肥料の原材料となっている。
 さて、昭和11年の「紋別漁業協同組合概況」を見ると「海扇ウロ粕」の記載があり、昭和10年で1,196俵、7,128円と相当の出荷があった。肥沃で肥料知らずであった新開地の北見地方も、大正時代には地力の減退が現れ、昭和になって金肥の使用が広がったのである。
 当時、最奥に位置する交通不便な北見地方では、気候風土に合い、精製品の運搬も容易く、高価であったハッカの栽培が盛んとなり、世界市場の7割強を産出するに及んで、地元で産出されるホタテの「ウロ粕」を、特効があるとしてハッカに多用していた。また、出稼ぎの石川県人等も持ち帰って、食用や肥料にしていた。

ホタテ貝殻の利用法/後篇◆“貝灰・かいばい”とは
 貝灰による漆喰は、テコのすべりが良く、石灰(いしばい)に比べてゆっくり固まり、亀裂が生じにくて白度も高いので、仕上げには貝灰を使うと良いとされる。
 石灰(せっかい)の使用は、まずは貝灰がつかわれるようになり、のちに火山灰が、そして本格的に焼成が行われるようになったのは、桃山時代頃からと思われる。
 焼失する前の江戸城は、白亜の大天守閣であったもので、世界文化遺産で国宝の姫路城では、現在、行われている大修理の壁塗りに、すべて貝灰を用いている。貝灰の主な原料としては、カキ、ハマグリ、シジミ、アカガイなどがある。
 さて、最近、テレビでよく見かける防除と消毒のために石灰で真っ白になった畜舎や鶏舎だが、北海道でも昭和40年代までは、集団赤痢の発生などで見られていた。北海道の開拓初期の明治12年には「コレラ」が大流行して、消毒用の石灰が必要となっても、同5年に開拓使が始めた石灰事業は、数年後には頓挫してしまっていた。
 明治13年に再びコレラが発生したので、小樽の佐藤賢次郎は「貝灰」の製造を始めたが、この頃は疫病が頻発し、また、次第に建築、土木での石灰需要も高まったので、同22年には、労費を使って海中に投棄されていたホタテの貝殻を利用し、煉瓦製直立窯での本格的な事業を開始した。
 それは焼いて出来た生石灰に水を加えて粉末として消石灰を製造したもので、薬剤や消毒薬、建築用材、肥料として使用され、明治39年の産額は四斗入りで1万俵、5千円があった。
 この頃のホタテ漁の中心であった小樽高島の貝殻は全てが貝灰とされ、のちに近藤馬太郎、佐藤虎吉、松田某らと札幌に1業者が参入し、消費は札幌、旭川、樺太までに及んだが、大正に入って小樽方面でのホタテ漁が不振となり、原料の貝殻が不足して高騰すると、北見方面からも仕入れるに至って事業を休止する者も現れた。
 このうち近藤は、大正2年に湧別での貝灰を始め、大正6年に新たな工場を建設して、昭和10年には製造821㌧の盛業を見たが、戦後、ホタテの漁獲量が激減し、昭和36年には廃業してしまった。そのほか昭和4年の「紋別町勢一班」には貝灰工場2とあり、昭和5年の「北海道商工名録」には紋別に米田一郎が見られる。また、猿払には、大正時代に創業した瀬川貝灰製造所と金井貝灰工場があり、浜佐呂間では、漁業者が共同で貝灰事業を行っていた。
 戦後の記録では、昭和27年の「紋別町勢要覧」に、貝灰52㌧、524,400円の記録が見られるが、小規模なものを含めると市内には数軒の工場があったらしく、しかし、当地もホタテ漁の不振から数年おきに禁漁となると、需要環境の変化などもあって、昭和40年代までには、全てが廃業してしまった。
 貝灰が最盛期であった戦前・戦中を用途別に記すと、
 ●上等の建築用(特灰)
 ●壁材に用いる(上灰、中灰)
 ●土間・道路用、肥溜めの製造など(三番粉)
 ●酒類の清透用、歯磨粉用、コンニャク製造用、煎豆用など(飛粉)
があった。

◇まとめ
 最近、盛んに叫ばれる資源のリサイクル、特に水産系の廃棄物も、昔は貝殻などが当り前に再利用されていたもので、今に始まったものではなく、ちょっと昔までは、全国のいたるところで、庭や路地などに砕かれた貝殻が撒かれていたし、「貝灰」などは、戦前の教科書で紹介されて、むしろポピュラーなものだった。
 昔の道内のホタテの漁獲量は、1~2万トンから多くて数万トン程度であったので、貝灰事業が盛んな時代は、貝殻の多くが石灰にされ、あとは海浜地に埋却したり、海に投棄したりして、元の海へと還元されていた。近年、ホタテは、砂礫で出来たバラス場が理想であり、ホタテの貝殻を散布した漁場では、成長率が良いことが確認されている。
 今、『エコだ、リサイクルだ』と、廃棄物としてのホタテの新たな利用法が見い出されたかのように見えても、結局のところ、昔も今も余り変わってはいない。一番有望な貝灰化も、もともと国内の石灰資源が豊富で、需要も減少しており、ホタテの利点・特色を生かしながらの全く新たな発想で、素材としての利活用の創造が望まれる。


  第227回 昔からのホタテの利用2        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 06:45│Comments(0)北海道の歴史
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