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2010年03月02日

オホーツクのカレイ漁の歴史

§ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
                             北海道文化財保護協会々員 釣山 史

 それでは最初に皆様へ、お断りを申し上げます。
 このお話しの中で、特に「○○年」については、元資料によって差異があり、この場合は、当時に近いより古い資料を引用し、または、水産試験場などの公的文書を優先するように心がけましたが、ハッキリしないものもあり、ただし、紋別関連については地元の市史に従いました。
 また、『沖合い底びき網漁』については「沖手繰」「小手繰」「小型底びき網」など、その時代と地域で区分・区別は難しく、解説中では併用していますので、ご容赦ねがいます。


 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
 江戸時代のオヒョウ漁から近代機船漁業の勃興、昔の加工と流通について

―と云うことですが、

 さて、皆さんはカレイの王様は、何ガレイだと思いますか?
 かっては、このオホーツク海でもたくさん捕れた「幻のマツカワ」が道南で復活し、今では「王鰈」としてブランドとなって商標登録がなされていますが、ある意味、やはり私は「オヒョウ」がカレイの中での鰈だと思っています。
 なんせあのデカサと云ったら…、私が子どもの頃には、タタミ大のものもあって、たった2~3匹で小型のトラックがいっぱいになったのを記憶しています。
 本旨の「マガレイ」ではありませんが、まずは「オヒョウ漁」についてお話しをしたいと思います。

◆江戸時代から有名だった紋別のカレイ漁
―それでは江戸時代の図2を見て頂きたい。
 多少のニュアンスは違いますが、現代的に意訳すると『オホーツクの紋別・斜里ではオヒョウを獲るが、2メートル近いものもあって、この辺りの一番の食料である。富山のタコや滋賀のナマズに勝る名産かも知れない』と蝦夷地を北海道と名づけたことで知られる松浦武四郎さんが云っています。そして図3では「紋別」の欄に「オヒョウ」が描かれていて、この「蝦夷土産道中寿五六」は、贈答用とされ、包装紙としても用いられたもので、たくさん市中に出回ったと考えられます。
 明治に入ると後に紋別に定住した「岩田宗晴」が、同25年に網走と斜里の沖合でオヒョウを大漁して大儲けしたと云い、その時の道庁の実地調査でも好結果となり、紋別も含めたオホーツクで、オヒョウ漁が一大ブームとなります。また、明治末期には沙留の「大多喜長蔵」が道庁の補助を得て、冷蔵船と冷蔵倉庫での試験操業を行い、一定の成果を上げました。
―このように昔から紋別地方の「お化けガレイ」はたいへん有名だったのです。
 そうして※2にあるように三漁(サケ・マス・ニシン)につづいて、紋別ではカレイがたくさん獲れていたようで、また、多獲されたオヒョウは冷凍技術が発達するまでは、食膳用にスキ身やソボロ、カマボコなどに加工され、根室などでは缶詰として輸出されたりもしました。

◆動力船の進出とカレイ漁~たくさん獲れて、始末に困ったマガレイ
 資料1から3に見られますように、道庁では大正9年、10年、同12年、14年と繰り返して北見地方の漁場の探査を行い、有望な新開場として、紋別地方への「底びき網機船」の入会を積極的に誘導しました。それは大正中期に一気に勃興した機船漁業を、日本海ほかの夏枯れに対応した通年操業とするためで、紋別地方は他の地域が薄漁の季節でもたくさんマガレイが獲れたからです。
 地元では明治の末期頃から川崎船による小手繰漁が行われていましたが、鮮魚での消費には限りがあり、大正9年には、網走管内で最初の動力漁船となる「高嶋春松の大正丸」がマガレイ漁を始めましたが、無動力と合わせた手繰船の着業者は数人程度と、今ひとつ振るわないものでした。
 それが度重なる道庁の調査に触発されて、大正12年に小樽から「松田鉄蔵の第三寅丸」が廻航し(大正期の資料3に寅丸の記述が見られます)、マガレイを大漁すると、翌年には地元の新造2隻をはじめ、道内各地から底びき網機船が入会し、にわかに活況を見るに至りました。しかし、保存設備が未熟な当時にあっては、鮮魚での出荷には限界があり多くは〆粕とされて、食膳用としては、カマボコに加工される程度でした。

◆保存と流通技術の進歩
 この「第三寅丸」が当地で着業した時には、既に名寄線が開通しており、冷蔵車両(冷蔵車、図6を参照して下さい)もあって、※7のとおり、当初は水揚げしたマガレイの全てを旭川へ出荷していましたが、大正9年には伴田貯氷庫が建設されていて、そのほか川氷などを使った氷蔵が建てられ(表3と4です)、また、昭和5年には松田によって本格的な冷蔵庫が建設されて(※8の設計者は蟹工船のモデルとなった松崎隆一です)、底びき網機船の船主たちは共同出荷のための組合を結成して限りある冷蔵車両を共用し、遠くは東京までへ出荷するようになりましたが、施氷されただけの多くの鮮魚は『うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損と云う有り様』でした。
 このように季節的に一時に大漁されるマガレイの価格は非常に不安定であり、流通過程での痛みを少しでも軽減しようと、マガレイを箱に縦詰めしたり工夫を重ねましたが、紋別では昭和4年頃から「トロ函」を使用するようになり、品質の向上に努めたので、操業は次第に安定するようになります。
 この動力船による漁獲のピークは昭和4・5年頃ですが、その後は漸次減少しても、それでも表2の「昭和11年北海道漁業現勢」によりますと、全道の中で紋別の底びき網漁でのマガレイの漁獲はダントツの1位でした。
 さて、※9にありますとおり、ちょうどその頃の昭和10年には「東京市場(今の築地です)」が新しくなり、この時に市場に国鉄の駅が設けられて、「鮮魚特急」と呼ばれる生鮮品の速達化が図られたのですが、表5のとおり、当地でも戦前には4軒の魚介冷凍工場があり、また、地元では昭和12年から盛んに「焼カレイ」が作られるようになります。

◆小手繰船からの転換、カレイ刺し網漁へ
 のちの戦中戦後の混乱期は、食料の増産の必要もあって、漁業制度が崩壊し、動力船のほか小型船ももっぱら漁獲効率の高い小手繰漁を行ったので、戦後に至って漁業資源は急激に減少してしまい、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなって、これらから特に沿岸漁業での新たな展開が必要となりました。
 そうして昭和33年からは「カレイ刺し網漁」が行われるようになり、これによって漁獲されたカレイが、より丁寧に選別されることになります。

◆まとめ
 ①オヒョウ漁など、紋別のカレイ漁は古くから有名だった。
 ②道庁が紋別海域へ底引き船を誘導し入会させたので、それがいっそうの宣伝となった。
 ③実際、他地域が薄漁の季節でもたくさん獲れた。
 ④当地でのマガレイ漁の勃興期が、流通の発達期と一致した。
 ⑤早くから品質の向上に努めていた。

―このようにして、「もんべつマガレイ」は広く知られるようになったと考えられます。

   
   第168回 もんべつマガレイの歴史    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

資料・図以下、











































































































































































































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