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2009年11月22日

万次郎の子孫、ここにあり(改訂)

万次郎の子孫、ここにあり(改訂)
去る平成18年8月24日に「湧別町文化センターさざ波」にて劇団四季ファミリー・ミュージカル『ジョン万次郎の夢』が公演され満員好評の幕であった。あらすじは土佐の漁師万次郎が漂流し助けられた捕鯨船で渡米、そこで西欧の知識を吸収して世界の潮流を知った万次郎は、鎖国日本の開国を誓って帰国、万延元年には遣米使節として勝海舟・福沢諭吉らと供に咸臨丸に乗船して再び太平洋を渡るのであった。ところでこのお話し、その後の北海道の開拓に深く関係していることを知る者は少ない。まずは万次郎について、実は湧別町に隣接する紋別市元紋別には万次郎のお孫さんが入殖し、現在もその一族がおられる。その故人は京大と東大を卒業したインテリで、戦前、戦中の難しい時代に奉安殿建設の寄付を拒否し、軍用機の献納にも反対して、また、赤レンガのサイロにロシア文字と云ういわゆる左寄りで、特高に目を付けられ部落会長を免職されたりもした。近所には海軍中将さんの親族がおり(同じく今も一族がおられる)、勿論、仲が良いはずも無く、相主張譲らず、互いに張り紙をし合ったとかしないとか。しかし、中将さんの親族が反産運動へ繋がる産業組合を結成し、中浜さんも加入して牛を飼ったというから面白い。また、幕末の安政4年には、万次郎自身も北方開発のための捕鯨指導として箱館奉行所に逗留したことがあり、そして函館戦争の将・榎本武揚の英語の教師でもあった。続いて咸臨丸のお話し。函館戦争では旧幕軍の軍船として参戦し、維新後の明治2年には開拓使附属の御用船となって、青森・函館間の初めての定期航路として官公物の輸送に当ったが、同4年9月、入殖を目的とした仙台藩片倉家を乗せて台風のため破砕、木古内町のサラキ岬沖合に沈没したのであった。これらについて上演の前後に多少の紹介でも・・・と期待もしたが、知ってか知らずか、その話は無くチョッと残念、地域の文化情報の発信の大切さを改めて認識したのであった。明治33年にジョン万次郎の長男、医師の中浜東一郎の三男として東京に生まれた中浜明さんは、昭和3年に紋別の山奥にある中藻別へ入植しました。昭和7年には産業組合(農協の前身)が組織されたことから、同9年に川下の元紋別へ再転住し、組合に加入して酪農を始めましたが、当時は生乳ではなく、手回しのセパレータでクリームとして酪連工場へ納品しました。戦前は「奉安殿」の建設に反対し、戦後はGHQの命令による、その取り壊しに異議をとなえて、国歌「君が代」にも反対した中浜さん、万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒトです。



 第160回 万次郎の子孫     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 00:17│Comments(0)紋別の歴史
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