2009年04月02日
渚滑村のりんご
余市からの転住者が多かった渚滑村
以前は「北限のリンゴ」として名を馳せた上湧別や「呼人リンゴ」として広く知られた網走も、今はわずかに観光農園でしか見られなくなった。
網走管内での果樹の栽培は、最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を取り寄せたのに始まって、同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
これらの果樹栽培の奨励では明治24年に網走郡外三郡へリンゴ外450本が下付され、翌25年にもリンゴ200本との記録があり、同20年代には移植が盛んに試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹30本を植えて盛んに苗木の生産と配布を行い、また、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したとも云い、特徴的なものとして網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生であった。
こうして明治33年には紋別郡でも産出されるようになったが、初期の栽培の中心はもっぱら網走であり、同42年に4万斤・10万円の産額を示して産出量が同43年をピークにブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少したが、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
「殖民広報第六十一號/明治44年」では渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあり、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴ栽培の先進地から再転住者が大量に流入した。
この頃には同じくリンゴの栽培に熱心だった中湧別から種苗業者が渚滑村に入り、リンゴ、ナシ、ウメ、サクランボなどの苗木を商ったといい、植栽した苗が明治30年代末頃から結実するようになると、土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、上湧別町穴田資料に見られるように大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。
第118回 もんべつでも栽培していたリンゴ 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
以前は「北限のリンゴ」として名を馳せた上湧別や「呼人リンゴ」として広く知られた網走も、今はわずかに観光農園でしか見られなくなった。
網走管内での果樹の栽培は、最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を取り寄せたのに始まって、同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
これらの果樹栽培の奨励では明治24年に網走郡外三郡へリンゴ外450本が下付され、翌25年にもリンゴ200本との記録があり、同20年代には移植が盛んに試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹30本を植えて盛んに苗木の生産と配布を行い、また、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したとも云い、特徴的なものとして網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生であった。
こうして明治33年には紋別郡でも産出されるようになったが、初期の栽培の中心はもっぱら網走であり、同42年に4万斤・10万円の産額を示して産出量が同43年をピークにブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少したが、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
「殖民広報第六十一號/明治44年」では渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあり、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴ栽培の先進地から再転住者が大量に流入した。
この頃には同じくリンゴの栽培に熱心だった中湧別から種苗業者が渚滑村に入り、リンゴ、ナシ、ウメ、サクランボなどの苗木を商ったといい、植栽した苗が明治30年代末頃から結実するようになると、土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、上湧別町穴田資料に見られるように大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。
第118回 もんべつでも栽培していたリンゴ 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
Posted by 釣山 史 at 23:37│Comments(0)
│紋別の歴史
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