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2008年04月19日

谷地頭・勝田温泉にちなんだお話し

~カール・レイモンと晩成社から箱館銭まで

明治元年・箱館眞景
谷地頭・勝田温泉にちなんだお話し○海外への窓・函館の西洋料理
 函館山のすそ野の市営谷地頭温泉の近くに、かっては勝田温泉と云う明治15年創業の老舗旅館があったが、なつかしい方も多いだろう。そこの娘さんはハム・ソーセージ作りで「胃袋の宣教師」と称されたカール・レイモンの妻である。
 ハムづくりの修行を終えたドイツ出身のレイモンが来日したのは大正8年、偶々、東洋缶詰会社(今のマルちゃん)の重役の知遇を得て、翌年には日魯漁業(現ニチロ)に転じて函館にやってきた。そこで勝田コウと大恋愛の果てにドイツへ駈落ち、大正14年に再来日すると函館駅前でお店を始めた。その頃にはハム・ソーセージへの理解はなく、たいへん苦労したと云う。
 さて、依田勉三の日記の明治27年6月7日に「勝田温泉に入浴して昼食をとった」とある。あまり知られてはいないが、十勝の晩成社が明治26年12月に東浜町の桟橋前に「丸成牛肉店」を開店し、近郊へも牧場と農場を開設した。しかし、その営業はかんばしくなく、わずか5年後の同31年には閉店してしまった。
 この時のユニホームの半纏には右胸「丸成」、左に「十勝牛」、背中に「牛肉」と記されていたと云い、「丸成」とは晩成社の屋号であり、今は六花亭のバターサンドのパッケージに使用されている。
裏面は安政の「安」・箱館通寶
谷地頭・勝田温泉にちなんだお話し○箱館通宝と古武井熔鉱炉
 幕末には、その勝田温泉のところに銭座があり、蝦夷地のみ通用の鉄銭「箱館通宝」が鋳造されていた。それは箱館開港後の貨幣不足により、物資の流通から日常の生活に不便が生じたためで、安政3年、ときの箱館奉行が幕府に願い出て翌年には鋳造が開始され、この新銭の両替・流通を御用達の伊達林右衛門、栖原六右衛門らに命じた。銭座敷地内では当時から温泉が湧いていたと云う。
 この新銭の鋳造には近隣で産出される砂鉄を用いる予定で、蘭学者武田斐三郎が古武井に築造する反射炉を当て込んだものであったが、安政3年の建造の開始直後に中止となり、溶鉱炉へと計画が変更されて安政4年末には完成したが火入れに失敗。この間、並行した小規模の熔鉱炉も3年ほど製鉄を行ったがおもわしくなく休止となった。それ以前の古武井では安政元年頃に、すでに松右衛門によるタタラ製鉄が行われていた。
 その後の文久元年に熔鉱炉は再開されたが一時的なもので、文久3年の暴風雨で大破するとそのまま放棄されてしまった。
 この様なことから、当初予定していた近隣からの鉄の供給は難しくなり、また、鋳銭も粗悪であったことから人気がなく、「箱館通宝」の鋳造は安政5年までに終わり、また、明治6年には廃貨となって短命に終わった。

第45回函館のお話し

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 10:28│Comments(0)北海道の歴史
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