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2008年03月30日

ニシン角網のはじまり

~資料に見る鰊角網の濫觴 (抜粋)

境内の金平翁の碑(紋別町史/昭和19年)
ニシン角網のはじまり
 私の自宅近くにある報恩寺には明治31年建立の「北見角網元祖 金平吉五郎塔」と云うものがあり、しかし一般的には「鰊角網」の発祥は積丹とするのが定説で、私は以前より疑問を持って来た。

◆「鰊角網」の概要
 ア)「鰊建網」の変遷/大きな来群がだんだんと現われ無くなり、鰊漁が停滞するようになると、はじめは「行成網」であった魚網も次第に鮭鱒漁から転じた「角網」へとなり、後に「角網」と云うと「鰊角網」を示すようになって、明治後期には「行成網」がほとんど見られ無くなったが、これは「角網」は「行成網」に比べて魚の入りに劣っても、一度入った魚は逃れずらいという特性から手堅い漁獲を得たためであった。
 そして沖へ長い「行成網」に比べて「角網」は横に広く、漁場の隣接した旧開地での開設には漁網の統廃合を要したのに対し、紋別郡以東から根室にかけては、有力漁業者の建網のみであったため、「角網」への切り替えがいち早く進んだ。


 漁網の構造 從來鰊建網と云へは殆と行成網のみにて角網の如きは指を屈するにも足らさる程なりしか僅々十數年の今日に至りては全然其位置を轉倒し行成網の如きは之を見ること稀なるまてに著しき變革を來したり角網は行成網に比すれは構造複雜にして漁夫を要すること多きの失あれとも一旦網中に入りたる鰊の容易に脱出せさると潮流の抵抗を受くること少きとの點に於て遙に優るものあるか故に斯く世の歡迎を受くるに至れり然るに漁場密接の結果互に収支の償はさるより二三の漁場を休業し其間に特殊の漁網を設置するの利を思ひ近頃之に關する試驗を爲さんとするを設置するもの之あるに至る是れ亦必然の勢なるへし(殖民公報第二十三號/明治37年)

岩内の鰊漁場(北海道拓殖の進歩/明治45年)
ニシン角網のはじまり イ)鰊角網の濫觴とその論拠/当時からの「鰊角網」の濫觴説は「北海道拓殖功勞者旌彰録・大正7年」に見ることができ、それは道庁の推薦による「第二回水産博覧会賞状・明治30年」に『鰊布袋形建網・鰊角網 北海道庁 積丹郡出岬村 斉藤彦三郎 夙ニ意ヲ漁具ノ改良ニ注キ各種ノ漁業ヲ試ミ遂ニ鰊布袋形建網ヲ創製スルニ至ル又鰊角網ノ如キハ其構造装置共ニ宜シキニ適シ常ニ漁利ノ多キヲ至ス』とあって、これが現在も積丹濫觴説の論拠となっているものである。

 明治十三年以來鋭意漁網の改良を企圖し各種の漁網に就き其の得失を考究して遂に十八年に至りて角網と稱する漁網を肇造せるも其の製造方法未た完からす爲に他の嘲笑を被ること甚たしかりしも更に顧みす益奮つて其の成功を期し二十三年漸く官准を經て角網の公設を見る 中略 其の作製並ひに使用方法等一も私する所なく專ら之を公示して指導に努め以つて一般漁業者に裨益を興へたること極めて台なり爲に全道に於て角網を使用せさるもの殆と稀にして 後略(北海道拓殖功勞者旌彰録/大正7年)

◆積丹濫觴説のゆらぎ
 ア)河野資料に見る濫觴説/さて河野常吉の「北海道殖民状況報文後志国天地(未定稿)」には『現今各地ニ於テ鰊漁ニ用ユル角網ハ斉藤彦三郎ノ創製ニ係レリ同人ハ夙ニ魚網ノ改良ニ意ヲ注キ数年間ノ講究試験ヲ累ネテ明治二十五年ニ至リ始メテ今ノ角網ヲ創製セシ』とあって「鰊角網」の完成を明治25年としているが、また「水産調査報告第十五冊・大正15年(明治43年~大正9年調査)」にも『其始メ明治二十年頃ハ金折網ニ角網ヲ折衷シタルモノ美國方面ニ於テ試ミラレタルモ構造不完全ナリシ爲メ好結果ヲ得ズ、二十四、五年頃積丹入舸方面ニ於テ各地ニ行ハルル鱒角網ヲ模倣シ、之レヲ試用シ好結果ヲ擧ゲ、其構造稍々理想ニ近キ故ニ各地競ヒテ之レニ倣ヒ其數大ニ増加セリ』とあって、ただし斉藤は多年に渡り漁網の開発と試用を繰り返しており、これをもって明治25年の創出と言い切れない。
 また、先の「北海道拓殖功勞者旌彰録」の稿本・河野執筆の「北海道人名字彙」においては『斎藤彦三郎 角網の発明者なり。中略 彦三郎明治十三年以降専ら魚網の改善に努め、諸種の魚網に就きて利害得失を攻究し、十八年遂に角網を発明せり。或は云ふ。角網発明者他に一人あり。藤野四郎兵衛の雇船頭兼(金)平吉五郎にして明治十三年北見の紋別に使用したりと。尚ほ考ふべし』ともあって河野自身も結論には至っていない。
 これについては明治44年の別の河野記録に『西海岸に於て斉藤彦三郎 中略 北見ニ於てハ藤野の雇人金平吉五郎なるものニ依り明治十二年紋別に於て使用たるを嚆矢とす(元藤野家差配人京谷勇次郎談)』とある。
 イ)北水協会・村尾元長/「村尾元長」は北水協会に属して多くの水産書を著わしたが、そのひとつの「北海道漁業志稿・昭和10年」に『明治十二年雇人金平吉五郎が會て利尻島に出稼し同地使用の「フクベ」網を改良するの説を容れ、試に製造使用するに頗る便益を覺ふ。由て漸次之を増製し建網を減ず。所謂角網是なり。』とあるのは明治22年の調査(同21年末)によるもので、翌23年の「北水協会報告第五拾八號」において既に広く紹介されていたが、それによると藤野家所有の漁網の内訳に『鰊角網 十五統』としている。
 そして「北海道漁業志要・明治30年」でも『枝幸北東に於ては角網及び建網の二種を用ひ宗谷に於ては建網のみを用ひ其構造増毛地方と異なることなし 中略 枝幸に於ては建網及ひ角網を用ふ其構造南海岸茅部、上磯地方のものと大差なし 中略 紋別、網走地方は即ち北海岸に於て始めて角網を用ひたる處なるを以て最も之れを貴重し建網を用ふるもの殆んど稀なり』としている。
 さて、河野が積丹濫觴説を唱えつつも同時に北見説を挙げているのに対し、村尾は当初からいち早く北海岸に「角網」が広まっていたと伝えており、特に「北海道漁業志要」の編纂では紋別戸長も勤めた藤野家支配人「龍田治三郎」が参加していることに注目したい。


◆北見の伝承 
 父は其の當時又十藤野の漁方支配人として居たのです。略 あの報恩寺にある石塔ですか。あれは父の爲に立てられたもので父は明治廿六年に當地で死にまして五年後の卅一年に當時漁方支配人であつた、盛喜衛門さんを初め濱田德太郎、吉田重藤、鈴木三之助、金澤岩松氏等外漁方一同の建立であるが、是れは角網の元祖として漁業に功をなしたと言ふ所からです。其れは其頃年々漁が減つて行くのをどうしたらよいだろうと漁方の者はそれ〃考案する事に勉めましたが、仲々特別よい事も出来ない樣でありました。それ迄は大抵行成網と言ふのを用ひてゐたのですが、コシタ網やキンチャク網等と言ふのも用ひて見ましたが思はしくはない所から、角網を使て見た所大變よい成績でした。此の事は北海道中の評判だつたとの事です。これは明治十九年の頃と思ひます。二十年の年には根室の又十支配が添書を付けて父の處に角網使用法の傳授に漁方の者が來たり、又北見地方の又十支配下の漁方のものが今ならまァ見學に來ると言ふ有樣でした。又十でも忽ち此の角網使用にきめてしまつた樣な有樣で、其れからと言ふものは大漁續きであつたとの事です。父の名は其爲一同に知られる樣になつたのです。(北見郷土史話/昭和8年)

 また、これら地元資料のほか「開拓指鍼北海道通覧・明治26年」にも『紋別網走地方は即ち北海岸に於て始めて角網を用ひたる處なるを以て最も此を網貴重し建網を用ふる者殆んど稀なり 中略 鮭建網は彼の有名なる金平吉五郎氏か紋別郡に於て發見せる角網を用ひ延て鰊漁にも亦た角網を用ふ西海岸一帯に用ふる「イキナリ網」と趣向を異にすること世人の知る所なり』とあるが、著者の久松義典は北海道毎日新聞社の記者であって当時の各地の事情に通じていた。

                           水産館の模型(北海道博覧会写真帖/大正7年)ニシン角網のはじまり
◆ま と め
 ここで注意したいのは金平が藤野漁場の雇人のひとりとして明治26年に死亡し、その藤野漁場も同44年には事業を休止してしまったのに対し、漁場主の斉藤は同40年まで生存し、その後の一族も有力実業家へとなった背景がある。
 さて、ほかの代表的水産書「北海道水産豫察調査報告・明治25年」には『角網ハ今ヲ距ル大約三十年前始メテ龜田地方ニ用ヒラレタルモノニシテ建網中最モ進歩シタルモノナリ然レモ今日用ヒラル〃ハ唯鱒、鮭、鰮及ヒ雜漁用ニシテ鰊漁業二用フルハ北見及函館地方ヲ除クノ外至テ稀ナリ』とあって、これは先の「北水協会報告第五拾八號」と同じ調査によるもので、つまりこの時点で「北見の鰊角網」は認知されていたもので、「北水協會報告號外・明治24年」に『本年よりは角網を用ひ數年來の薄漁を防ぐを得たり』、「北水協會報告七拾貮號・明治25年」では『角網(鱒、鮭、鰊を捕るに用ひます)エキナリ網(専ら鰊を捕るに用ゆ)』とあって、このときには既に広く知られていたことを示し、また、先にも述べたように同21年には藤野家での所有が認められていて、「鮭鱒角網」の使用やその転用試験も勘案するとむしろ藤野漁場が先ではないかと推測される。
 それは「鮭鱒聚菀・昭和17年」にも『鮭鱒落網 落網は北海道に於て早くから著しい發達するを遂げたものであるが、角網から工夫されたのであろう。鮭鱒角網は、慶應の頃から使用せられたらしく明治七、八年頃根室に於て藤野四郎兵衛氏等角網を使用したと云う』とあるように、「鮭鱒角網」からの転用はむしろこちらが自然であって、「北海道水産雜誌第八號・明治27年(水産諮問会)」においても『從來鰊漁業には根室北見地方に於ては重もに角網を用ひ西海岸各地に於ては皆建網(行成網)を以てせり然るに近年此建網を角網に變更するもの漸く多し』とあるからである。
 このように「鰊角網」の完成の前後が積丹・北見のいずれかはともかく、少なくともほぼ同時期に別々の系統をたどって発祥したことは間違いないところで、「北海道漁業史」ほかの一方的な「鰊角網」の積丹濫觴説は誤りと云える。


詳しくは「北海道の文化80号」/北海道文化財保護協会をご覧下さい。
~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!

第41回ニシン漁のはなし

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 18:31│Comments(0)北海道の歴史
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