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2008年03月16日

渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行

~最奥地に見る明治・大正の移住民旅行

 明治維新後の北海道への移住については大きく3つの波があり、その最初は明治30年前後の約6万4千4百人、第2は同41年前後の約8万6百人、そして最後で最大のピークが大正8年の約9万1千人であった。
 その最後の波の大きな要因としては明治30年代後半から数年に渡った奥羽地方の凶作と日露戦争後の戦後不況が重なり、また戦勝により国民意欲が高揚したこと、さらに第一次世界大戦の勃発で経済が混乱し本道の農産物が改めて見直されたこと等によるが、この頃の道内の交通網が一段と整備されたことも要因となり、さらに奥地の道東北へと開発は進んで行った。

旧渚滑村開村の人・木村嘉長の家/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行◆先達者にみる移住民旅行
ア)堀川徳治氏の場合(明治26年渚滑村に入村)※1
 伯父の堀川泰洋(※2)さんは新潟縣の人で、中略 一層の事冒險的に北見に踏込んで開拓事業を起さうと決心して同二十二年十二月下旬、單身未だ工事中の網走旭川の中央道路(※3)を歩き初めをして來たものだそうです。
 私共も泰洋さんが通つたと言ふ其の中央道路を十一月下旬三戸二十六人が簑笠ゴザと言ふ珍装で、小樽から空知太(※4)と言ふ驛まで乗車し其處から徒歩で十八人かの子供を連れて踏出した。巡査に「北見の方に行く道はどこでせう」と聞くと、巡査は目を白黒させて「それや大變な事だ。御前達は其の姿で北見邊に行けると思ふか?峠は峠にはもう雪の五尺もあるに相違ない。略」と眞劍になつてとめるので婦人や子供はメソ〵泣き出すと言ふ始末・・・中略 簑笠ゴザの一行がどし〵歩き出したので、巡査も驚異の眼を睜つたま〃呆然として見送つてゐた。
 かくして永山屯田(※5)に一泊した時に廣漠たる原野の開墾されてゐる樣や、馬鈴薯の南瓜大の奴がゴロ〵無雜作に山と積み上げられてあるのに元氣づき、吾々も北見へ行つたら斯樣に大陸的農業をするのだ。内地の樣に五反や八反の小百姓とは問題が違ふ(※6)と一行の主座たる善六翁は皆に元氣をつけたのである。
 石狩峠今の愛別から白瀧に至る間には白雪五尺、峰より吹きなぐる吹雪は咫尺を辨ずる事も出來ぬので、達者なものは皆子供を背負ひ老人の手を引き連れて、一歩又一歩凍死せんばかりの苦痛を嘗めて明治二十六年十一月二十一日北見紋別即ち泰洋氏の陣屋(※7)へと辿りついた。/昭和8年「北見郷土史話」抜粋

1.泰洋の兄善六の次男。本村会議員、同農会評議員、同農事実行組合長など公職を歴任し威徳寺の開山に尽力した。
2.本村における初期開拓の中心人物。ここに明治22年来紋とあるが同23年の誤り。
3.明治24年に完工した中央道路は旭川を前後に上川道路と北見道路に分けられる。
4.滝川のこと。札幌―滝川間の開通は明治25年。
5.兵の入村は明治24年6月、翌月には戸長役場が置かれた。草原の多い永山は開墾も容易で2年目からは小豆、大豆、馬鈴薯、玉蜀黍等が栽培され、この頃すでに一大農村を形成していた。
6.明治19年に制定された北海道土地払下規則では、1人につき10万坪までの無償貸付がなされ、成墾後は廉価で払下られた。
7.陣屋とは駅逓の旧称。

イ)木本善吉氏の場合(明治30年渚滑原野25線に入殖)
 木本善吉氏は徳島県那賀郡椿村で明治五年に生れ、三十年三月渡道、余市山道村に一年おり、同県人豊村品蔵(※8)の尽力に依り土地貸付出願中の紋別郡上渚滑に転住の目的で、その年の十一月初旬小樽港を出帆の宮古丸に乗船した。
 この航海が江差追分の有名な、「忍路高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」。と唄にも続く航路で、十一月になればいつも波荒くこの航路中も甲板に大波が越す恐ろしい暴風となり、やむを得ず利尻近くより後戻りしてしまった。次は陸に替え、滝川迄汽車に乗った。その当時滝川が終点であったので、滝川より歩くより方法がなかったので旭川より地方道路野上駅逓(※9)を通り、湧別、紋別、上渚滑へと七日間もかかってやっと到着した。(※10)/昭和35年「渚滑川」抜粋

8.同郷の品蔵は各地を視察し渚滑原野を選定した。明治30年制定の北海道国有未開地処分法によると1人最大で耕地が150万坪、牧場250万坪が無償で貸付され、成墾後は無償で付与された。品蔵はこの地方の酪農開祖の人。
9.中央道路六号駅逓のこと。初代取扱人の笛田茂作は初期紋別村の功労者。市史では紋別最初の醸造を明治26年の千葉利吉としているが、同22年頃より酒造を行った茂作の誤り。
10.同士に後に管内を代表する実力者となった飯田嘉吉がいる。
                                                            渚滑原野の畑作/網走支庁拓殖概観(大正6年)渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行
ウ)粟田又吉氏の場合(明治35年渚滑原野10線の岩田農場小作として入殖)
 徳島県板野郡堀江村より粟田与三吉、母モト、長男又吉(十七才)は、三十五年四月二十日故郷を出て徳島中須港より乗船、神戸で日本郵船(※11)の山口丸三千屯に乗替、横浜萩の浜函館を経て小樽に入航、それより北見丸七百屯に乗替えた。航海中暴風に遭い利尻の島陰で二日間停泊、ようやく紋別港に入航したのは五月八日であった。/昭和35年「渚滑川」抜粋

11.この頃は道庁命令航路、道庁補助航路等があって内地と本道、道内各地を結んでいた。日本郵船はその代表的な受命者。

エ)大内直太郎氏の場合(明治35年宇津々7線に入殖)
 徳島県三馬郡茂清村出身の大内直太郎氏は三十五年春三月渡道し、枝幸郡歌登村幌別六線の湧地農場に入地して荒地を一町程開墾し、中略 ここでは見込みが無いと思っている所を、雄武の森田村長に勧められ渚滑村宇津々に来る事になった。道中は直太郎さんが布団と世帯道具とを天びん棒でかつぎ、父与三郎が三才の小共と、片荷物は柳ごおりを棒でかつぎ、妻は小共を背負い二十八里の山道を四泊五日がかりで歩んで中宇津々に到着した。(※12)/昭和35年「渚滑川」抜粋

12.札幌―網走間の中央道路に比べ、整備の遅れた北海岸道路の旅行はいっそう困難であった。

オ)藤田正行氏の場合(明治41年滝上原野8線に入殖)
 私は明治三十年八月十七日富山県東礪波郡中野村(礪波町)で生まれ、明治四十一年に父は滝上に富山団体として入植しました。中略 父は明治四十一年三月三十一日富山県団体二八戸と中野村から伏木港へ出て同年四月一日出帆、小樽へ着き小樽から名寄まで鉄道で来ました(※13)。名寄では滝上へ行く団体の清原権右エ門外六、七人が名寄のアイヌ地(コタン)にいた(ここに今井浅次郎、山崎伊三郎等が家族と共に一、二年先に来ていました)のでそこを清原庄次郎外数人の者が頼って行きました。
 また、村上辰次郎は下川の二十三線にいる弟の村上要蔵の処へ行き、父と残余の二十人余りの人は内地で父の知り合いの村上という人が上名寄二十九線(現下川町)におるのでこの人のところに身を寄せ、一ノ橋(当時の然別)(※14)で雪が深いため国境を越せる日を待ったが、井上権次郎さん外二、三人の人は、かろうじて興部まで行くことができました。
 興部では前の年に富山団体が許可になり三線~十二線に入地した人々がいたので、四月十五日まで厄介になっていました。この四月十五日までの間に下川のアイヌ地にいた人々もみんな興部に集まり滝上へ出発しました。
 渚滑へ来たら春の増水で川が渡れないので、堀川泰洋という人の空家で一晩過ごし翌日七条前(※15)という人に船で渡してもらい、滝上まで来ることができました。/昭和51年「滝上町史」抜粋
 
13. 旭川―名寄間の鉄道開通は明治36年、同37年には里道名寄―興部間が全通。
14. 天北峠の下川一の橋に駅逓があった。
15. 徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで、同総代人ほか同農会評議員、網走外三郡農会議員、同産牛馬組合議員などを歴任。

カ)朝倉義衛氏の場合(明治41年滝上サクルー3線)
 明治四十一年四月二十日、高知県長岡郡元東豊永村の人たちの見送りをうけ、一三人が北辺の国へと旅立ちをしたのである。もちろん陸路徒歩の出発である。高知市に一夜を明かし、浦戸港を出帆して神戸に上陸、これより汽車で名古屋に至り一泊、翌日は東京上野を経て仙台泊。ここから青森に向かい(※16)、船で室蘭港へ。それからは一路夕張線(※17)を経由、岩見沢、美唄をすぎて砂川に一泊した。翌日砂川を発し鉄道の終着駅名寄に着いて石川旅館(※18)に一泊した。浦戸港出発から七日目、四月二十九日であった。
 石川旅館で、それから先の道中の案内を詳細にきき、布とん一組、二尺五寸の鋸一丁、鍬一丁、鍬は北海道形(※19)と高知製を布とんにくるみ荷造りをして背負った。五貫目はあったと思う。子供連れの家族は荷物を陸路に頼み、子を背負って何れも徒歩であった。はじめのうち荷物の重さは大したことはないと思っていたが次第に重さを感じて閉口してしまった。この第一日は下川町一の橋の駅逓泊り、第二日は一の橋から中興部岩越駅逓に着いた。疲労甚だしいので小笠原豊治と私とで馬を借り荷物をつけて興部駅逓(※20)まで運んだ。家族連れは少々おくれたが、興部では全員共に苦しかった話をしあい、何となく前途の希望に花を咲かせるのであった。
 第三日目は目的地渚滑長野家(基重、私の叔父)に到着できるのだと早朝興部菊池駅逓を出発した。目的地は近いと聞きながら、歩いてみるとなかなか遠く、やっと辿りついたのは日暮れの五時頃であった。荷物をおろして久しぶりの挨拶を交わした時は、本当に百貫の荷をおろした感で大きな息をした。五月二日であった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

16.上野-青森間が鉄道で結ばれたのは明治24年。
17.明治25年に岩見沢-室蘭間が開通。
18.この当時の名寄には13軒の旅館があり、このうち石川旅館と水島旅館が有名。宿泊料は一泊上が80銭、中60銭、下50銭で昼食代が別に20~35銭であった。
19.洋式農機具だけでは無く、鍬などにも北海道独特のものがあった。
20.明治25年、澤木に設置された菊地駅逓は同37年に興部へ移転した。
移住者の上陸/網走支庁概観(大正5年)
渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行キ)篠原久次郎氏の場合(明治42年オシラネップ北線に入殖)
 富山県西礪波郡福岡町を四十二年四月十日旅立ち、名寄町まで来て先居住の越中団体の神代三五郎方へ一応落付き、中略 北海道移住民協会(※21)川口慶造の紹介で、渚滑濁川オシラネップ北線に十八戸分の予定地の払下を受けた。神代氏の所で十日程滞在後、愈々目的地に向けて、荷物は馬車で人は歩行で出発した。初日の晩は然別駅逓泊、翌日は国境を越えて岩越駅逓泊、三日目は興部泊、四日目の晩は紋別島竹旅館泊り、五日目朝早く出発五十二線泊りであった(※22)。
 春の雪融水は日増に増水して渚滑川は益々急流となり、ながらく川向に渡れなく西森宅(※23)に滞在しなければならなかった。十日程してようやく荷物を渡して貰う事が出来た、1回1円の丸木舟には2個しか積めない、16回で32個の大荷物を川向に渡し、岸の高い所に山積にした/昭和35年「渚滑川」抜粋。

21.この頃には種々の団体が結成され、官民あげての移住民保護がなされた。
22.然別は一の橋、岩越は中興部駅逓所のこと。
23.明治38年に中渚滑から再移転した高知県人の西森亦吾は52線で商店と渡船場を経営していた。

ク)岡村文四郎氏の場合(明治44年上古丹に入殖)※24
 わたくしは南国は土佐、高知県の生まれであるが、いまでは、すっかり北海道の農民になってしまった。わたくしは明治四十三年(※25)に現役兵で入営した。中略 内地に帰って来てみると、郷里では、はからずも北海道へ行って開拓に当たろうという話が持ち上がっていた。
 わたくしの父は作次というが、父の友達で、明治二十八年に北海道へ行った人が、たまたま土佐に帰って来て、「北海道に行かないか、北海道はええところだよ」という。「よし行こう」と相談がまとまっていたのである(※26)。以下略。
 わたくしは明治四十四年冬除隊したが、そしてホッとする間もなくその年の十二月中旬郷里土佐をたって、海をわたり北海道に出かけたわけだ。中略 わたくしは北海道の事情は全く知らなかった。当時汽車が函館から名寄まで通っていた。名寄から、上渚滑の入植地までは大体三十五里くらいある。それをとぼとぼ一人で歩いて行った。
 その時わたくしはいまの様に便利な洋服なんというものじゃない和服を厚着して尻ぱしょりで、村田銃をかついででかけた。開拓地では熊が出るというのが通説である。中略 軍隊靴のうえにゴム靴をはいた。しかし北海道の凍った雪の上では、ゴム靴は滑ってダメ。すべったり、転んだりして汗をふきふき歩いて、大分来たなと思ったところで、路傍の辻にソバ屋があったので、そこによった。「名寄からここまでどれ程来たことにになりますか」と訊いてみると、「まあ一里半だ」といわれて、もうがっかりして、ヘタヘタとソバ屋の店先きへ腰を降ろしてしまった。ソバ屋のお婆さんがわたくしのその姿をみて「そんな格好じゃ歩けない、ツマゴを履きなさい」という。ツマゴというのは藁でつくった半長靴の様なものである。略。
 その日は八里ばかり歩いて一泊、つぎの日は十二里も歩いて一泊。泊まるところは駅逓といって官営の宿屋の様なものだ。その駅逓と駅逓をつないで、馬ソリが往復し、人や荷物を運ぶ。…」中略。名寄を歩き出してから三日目、やっと目ざす上渚滑についた。(※27)/昭和39年「わが生涯」抜粋

24.当村会議員、上渚滑信用販売購買利用組合長、北海道農業会長、全国共済農業組合連合会長ほか公職を歴任し、参議院議員を3期務めるが現職で病没。
25.明治37年日露開戦、翌年ポーツマス条約により関東州の租借を獲得。同39年韓国統監府を設置して同43年には韓国を併合。岡村氏は満州守備隊に入営した。
26.いわゆる呼び寄せと考えるが、明治28年に湧別村と常呂村へ60戸の土佐団体が入殖し、その内数戸が渚滑村へ再転住していることから、これと何らか関係があるかもしれない。
27.一泊目は一ノ橋、二泊目を興部と考えると里程が合わない。冬の旅を考えるともう一泊はかかる距離であるが、途中迎えの馬車に拾われている。
滝上村・宮地駅逓所/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行ケ)村上七五三八氏の場合(大正2年滝上19線へ入地)
 大正二年の元旦に着く前夜、市街の吉田旅館に泊り翌朝内地から履いてきたアサウラゾーリを地下足袋(高丈)に履きかえ、十五線の長谷川さんへ来たところ、丁度お昼で元旦だからとイナキビの入った麦飯を食わされて、これでもご馳走の分だと言われたときはがっかりした。略。
 ここへ来るとき名寄で汽車を降りて馬そりを頼んだところ二四円とられたが沙留まできたら大吹雪になり、これから先は行けないといわれ、二四円の約束だったが12円位で帰った。(興部の酒井という人であった)。
 興部で一晩泊まり、渚滑では三木旅館(※28)に泊まり(一泊七、八〇銭)、翌日間違って紋別の方へ行き引返して来たのでおそくなってしまった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

28.経営者の三木槇五郎は徳島県出身。明治29年に本村最初の団体移住して初年は岩田製軸所で働き、翌年からは小作として開墾に従事した。のち5線市街で旅館を経営したが、大正13年3月4日、鉱山夫が持ち込んだ火薬が爆発して炎上、妻とともに焼死した。

コ)棚橋与一氏の場合(大正4年中渚滑に転入)
 兄、田村八百蔵一家と渡道することになり一家四人の家族と同道。当時は、下生田原(安国)が鉄道の終点であった。帯広、池田、野付牛を経て一週間目に同駅に着いた(※29)。ここで一泊、翌朝支度を整え、徒歩で出発、子供二人に荷物を携えており、加えて悪路に下駄ばきと言う仕度で、夕方漸く上湧別市街に辿り着いた。
 ここで一泊、朝早く出発したものの、歩速は捗らない。丁度、沼の上あたりで安太郎兄が馬車で迎えに来られているのに出会った。実に嬉しかった。「地獄に仏」とはこのことだと思った。北海道が初めての田村兄一族は相当落胆した。悪路馬車に揺られ〃中渚滑の原野に点在するランプの光が見えたときは、本当に蘇生の思いをした。/棚橋与一氏自叙伝(中渚滑八十周年記念誌)抜粋

29.明治44年に池田―北見間が全通、翌大正元年には網走―野付牛間が開通した。

第36回先人の移住旅行

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


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Posted by 釣山 史 at 22:32│Comments(0)紋別の歴史
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