2008年03月15日
北限のリンゴ
◆上湧別リンゴのはじまり(第10回、第33回の続き)
ここの「移住者成績調査」では湧別地方での最初のリンゴ栽培を明治30年の上野德三郎としているが、また「上湧別村史」では同31年に中野半次郎が札幌より苗木を購入して村内へ転売したとも云う。
戦前の上湧別のリンゴ園 網走支庁管内概況/昭和9年
上野德三郎 略 (明治)三十年には先の貸付地は之を墾成して付與を受けたり又札幌地方より苹樹李、櫻桃、等の苗木を取り寄せ栽植したり之れ同地方に於ける果樹栽培の嚆矢なり 中略 果木は各種を合して百二十本、两三年前より相當の収獲あり 移住者成績調査第一篇/明治39年
苹果は明治三十年末の調査に依れば湧別全村に亘りて僅かに二十一本の栽植を見るに過ぎず苗木も當時は上川地方より移入せしもの〵如く傅へらる〵もその眞偽判明せず随つて種類なども明瞭ならざりしなり、翌年に至り髙知縣人中野半次郎氏札幌方面より俗に四十九號と稱する國光の苗木若干を購入し南兵村三區大川德藏(熊本縣人)外數名に轉賣し植付けたり、これ今日苹果の産地として天下に識らる〵源泉なりしなり、時に此年の成育甚だ佳良なりしを以て其翌三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏、當時屯田兵本部建築監督北村某の歸札するに托し最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せるより漸次園藝の趣味を解し且本村の果樹育成の良好にして栽培の有利なるを測知するもの多かりし 上湧別村史/大正9年
丁度移住した當時に、これは四國の高知縣の方で有ましたが、前住者(徳弘正輝)が一人ありました。この人は屯田有地の眞中の土地を貰つて相當な土地をおこして農耕をやつて居つた。その人が自分の宅地内に林檎の木を植えて、林檎が洵に立派になつて居つた。それで林檎もこの土地に適當するから栽培しなければならぬと云ふので、苗木を中隊本部が斡旋してくれまして、各戸に十本位苗木を植えました。現在の湧別林檎と云ふのはさうした事情で産出するやうになつたのであります。それで林檎も一時は四百五十町歩栽培して居つたことがありますが、大正十二、三年頃林檎に毛虫が非常につきまして、その豫防が出來ず、大部分が駄目になり、現在では百五十町歩を栽培して居ります。それから又小さいもので今植えて居る物が、約百町歩ばかりあります。 北海道調査報告/昭和12年
しかし、明治30年に屯田兵が入地したときに先住者の徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これがこの地方のリンゴの濫觴と思われ、また、土井菊太郎が同27年に転入して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云い、同30年末には村内に21本のリンゴ樹があった。
このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が倭錦ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めたが、北海道庁では大正8年の果樹奨励協議会において、道内各地に適地を選定して集中指導を行うこととし、翌年には余市で第一回栽培地実地指導講演会を開いて、また同年、果樹組合準則を制定し、地方組合の結成と苗木の無償配布を奨励した。
いっぽう上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、
こうして気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵を中心に栽培が広って、大正後期には上湧別の栽培戸数が全道の四分の一にも及び、同15年に当地で第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
この間、大正10年からは「湧別名産りんご」のレッテル使用が始まり、昭和6~9年には相羽誠が道東各所の渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別でリンゴの駅売りを行い湧別リンゴの普及に努めたと云い、昭和4年には上湧別苹果研究同士会が結成されて同7年に上湧別苹果協会へと発展、同9年は上湧別産業組合に統一された。そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として御下賜果物謹製の下命を受け、品種「祝」を献納して本村リンゴの最盛期を迎えた。
先にも述べたが新開地の道東では当初の入植者に限りがあって、また士族授産の観点からも士族が多い官吏や屯田兵へと重点的な果樹の奨励がなされ、德弘も郡役所の元官吏ではあったが、上湧別のリンゴ栽培が中隊指導のもと兵村へ定着し、もっぱら自発的に発展した薄荷栽培と異なるのはそのためである。 第35回リンゴのはなし3
現在のリンゴ園
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
ここの「移住者成績調査」では湧別地方での最初のリンゴ栽培を明治30年の上野德三郎としているが、また「上湧別村史」では同31年に中野半次郎が札幌より苗木を購入して村内へ転売したとも云う。
戦前の上湧別のリンゴ園 網走支庁管内概況/昭和9年
上野德三郎 略 (明治)三十年には先の貸付地は之を墾成して付與を受けたり又札幌地方より苹樹李、櫻桃、等の苗木を取り寄せ栽植したり之れ同地方に於ける果樹栽培の嚆矢なり 中略 果木は各種を合して百二十本、两三年前より相當の収獲あり 移住者成績調査第一篇/明治39年
苹果は明治三十年末の調査に依れば湧別全村に亘りて僅かに二十一本の栽植を見るに過ぎず苗木も當時は上川地方より移入せしもの〵如く傅へらる〵もその眞偽判明せず随つて種類なども明瞭ならざりしなり、翌年に至り髙知縣人中野半次郎氏札幌方面より俗に四十九號と稱する國光の苗木若干を購入し南兵村三區大川德藏(熊本縣人)外數名に轉賣し植付けたり、これ今日苹果の産地として天下に識らる〵源泉なりしなり、時に此年の成育甚だ佳良なりしを以て其翌三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏、當時屯田兵本部建築監督北村某の歸札するに托し最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せるより漸次園藝の趣味を解し且本村の果樹育成の良好にして栽培の有利なるを測知するもの多かりし 上湧別村史/大正9年
丁度移住した當時に、これは四國の高知縣の方で有ましたが、前住者(徳弘正輝)が一人ありました。この人は屯田有地の眞中の土地を貰つて相當な土地をおこして農耕をやつて居つた。その人が自分の宅地内に林檎の木を植えて、林檎が洵に立派になつて居つた。それで林檎もこの土地に適當するから栽培しなければならぬと云ふので、苗木を中隊本部が斡旋してくれまして、各戸に十本位苗木を植えました。現在の湧別林檎と云ふのはさうした事情で産出するやうになつたのであります。それで林檎も一時は四百五十町歩栽培して居つたことがありますが、大正十二、三年頃林檎に毛虫が非常につきまして、その豫防が出來ず、大部分が駄目になり、現在では百五十町歩を栽培して居ります。それから又小さいもので今植えて居る物が、約百町歩ばかりあります。 北海道調査報告/昭和12年
しかし、明治30年に屯田兵が入地したときに先住者の徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これがこの地方のリンゴの濫觴と思われ、また、土井菊太郎が同27年に転入して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云い、同30年末には村内に21本のリンゴ樹があった。
このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が倭錦ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めたが、北海道庁では大正8年の果樹奨励協議会において、道内各地に適地を選定して集中指導を行うこととし、翌年には余市で第一回栽培地実地指導講演会を開いて、また同年、果樹組合準則を制定し、地方組合の結成と苗木の無償配布を奨励した。
いっぽう上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、
こうして気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵を中心に栽培が広って、大正後期には上湧別の栽培戸数が全道の四分の一にも及び、同15年に当地で第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
この間、大正10年からは「湧別名産りんご」のレッテル使用が始まり、昭和6~9年には相羽誠が道東各所の渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別でリンゴの駅売りを行い湧別リンゴの普及に努めたと云い、昭和4年には上湧別苹果研究同士会が結成されて同7年に上湧別苹果協会へと発展、同9年は上湧別産業組合に統一された。そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として御下賜果物謹製の下命を受け、品種「祝」を献納して本村リンゴの最盛期を迎えた。
先にも述べたが新開地の道東では当初の入植者に限りがあって、また士族授産の観点からも士族が多い官吏や屯田兵へと重点的な果樹の奨励がなされ、德弘も郡役所の元官吏ではあったが、上湧別のリンゴ栽培が中隊指導のもと兵村へ定着し、もっぱら自発的に発展した薄荷栽培と異なるのはそのためである。 第35回リンゴのはなし3
現在のリンゴ園
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
Posted by 釣山 史 at 08:29│Comments(0)
│オホーツクの歴史