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2008年03月13日

最奥地、網走管内の酪農のはじまり

~ 網走地方における草創期の酪農・畜産

峰村牧場放牧地(能取) 北見之富源/明治45年
最奥地、網走管内の酪農のはじまり 道内初期の牧畜業は馬匹が中心であり、また、畜牛は主に肉牛であった。管内畜牛の記録としては明治16年の湯地根室県令の巡視の際に斜里の水野清次郎が牛の飼育を申し出て下附され、のち同18年には牧場を始めたと云い、いっぽう紋別地方は次の通りで、いずれにしても未だ試験的畜養の段階にあった。


 牧畜の業を行ふものは湧別に德弘正輝氏あり網走に原鐵次郎氏あり二人共に多年の辛酸を經漸く基礎を成立したるものにして其經歴又た頗る觀へきものあり德弘氏は開墾を兼ね牧牛を行ひ原氏は人馬繼立を營みて牛馬を育せり其牧牛の模樣は尚ほ未た盛大に至らす僅々三四千圓の價額に止まれりと雖も增殖の景況は駸々として好成績を呈するか故昨年より二三の有志者は新たに百頭程を南部其他より購入改良繁殖に從事す 後略 北海道通覽/明治26年
 明治十八年山梨縣人山田環氏時の根室縣知事廣田千秋氏に乞ひ牛七頭馬三頭を借受け網走町原鐵次郎氏と共同し網走に牧畜業を經營せり、中略 山田氏は遂に資金の缺乏より止むなく他に財源を需め再興を圖らんと翌十九年一旦網走の地を退去するに方り其後繁殖せる畜牛の半數を共同經營者たる原氏に頌ち他の半數を本村德弘正輝氏に托し遠く釧路方面に赴きたり茲に於て德弘氏は其畜牛若干を湧別原野の叢中に放牧せし 後略 上湧別村誌/大正9年
 前略 高知縣人德弘正輝の如きは東京に於て時の網走郡長大木良房に面し、北海道の拓殖状況を聞きて感激し、北海道移住を決意し、明治十四年春根室を經て、網走に來り、中略 其の後明治二十年春網走に於て山田環及原鐵次郎と共同經營の牧場失敗せるに際し、德弘は山田より所有權の分興を受け、原と分配して牛六、七頭を獲るに至り、字『ナヲザネ』の酋長『ケイタロー』を伴ひ、共に網走に至りて牛を引受け、初めて湧別海岸に放牧したが、其の適地に非ざる事を知り、これに代る放牧地を求めて遂に同年十月草木の成長可良にして清水湧く『ナオザネ』の地に移り、茲に專心牧畜に從事したのである。後略 北海道調査報告/昭和12年

                              田野岡牧場(網走) 網走支庁拓殖概観/大正6年 
最奥地、網走管内の酪農のはじまり また、大正5年「網走支庁拓殖概観」には『牛は明治十九年官に於て根室より十九頭を購入して管内主なる畜産家に貸付けたるを初めとし越て二十四年藤野家に於て國後より七頭を輸入し又斜里村半澤真吉道廰より牡牛三頭の貸付を得て改良蕃殖を圖る等漸次畜牛の増加を示し價格亦高潮して牛の有利なるを認むるに至りたる』ともあるが、これは特に藤野家が自己の所有船での輸送が可能だったことによる。


◆管内酪農の始まりと「豊村牧場」
 さて後の本格的な牧場経営の始まりは明治26年の網走「原牧場」と同じく同年の「藤野牧場」であり、この藤野牧場では当初より牛乳の生産と販売がなされ、同29年の「北見事情」では「藤野牧場」での前年の牛乳販売高を網走で20石6斗9升9合(同年中)、紋別が6石6斗5升(同年8月から)としており、また明治31年「北海道殖民状況報文北見国」に『牛ヲ所有スルモノ數名亦之レヲ藻鼈村ニ送リテ放牧ス藤野ニ乳牛二頭アリ朝夕絞リテ販賣ス』とある。
 後には藤野牧場でバターの製造も行ったと云い、一般的にはこれが管内での乳酪製品の始まりと云われ、同42年10月の高田源蔵日記では『蛟竜丸出帆毎ニ石油缶ニ一、二個ヅツ函館ヘ輸送販売中』、翌年4月には『オショップ牧場ニ付、バタ製造ヲ視ル。原生乳二斗製造結果、三百三十匁精バタヲ得タリ』とあって、また、道庁統計には網走郡での生産を同43年2千7百斤、翌44年は2千3百斤と記録しているが、以後は事業が中止された。しかし、バターの製造については「藤野牧場」での開始以前に渚滑村(現紋別市)の「豊村品蔵」によって製造されていたと云う記録もあるので次に挙げる。


 渚滑原野の近況 略 豊村品藏の牧場は三十六年貸付せる九十五萬三千餘坪にして牛馬及ひ豚を飼育せるか牛最も多く本年「バタ」の製造を始めしに成績良好なりと云ふ 殖民公報第38号/明治40年
 豊村品蔵 略 一層其の事業を擴張せんと欲し三十六年自己及ひ同志の名義を以て附近未開地三百餘萬坪の貸付許可を受け初め改良農具を用ひて大農法を採らんとせしも後器械資本及ひ勞力費の節約上牧畜經營の一層有利なるを認め之を變更し前の懇成地は之を小作人に托し獨力を以て新貸付地の經營を始めたり 中略 牧畜業なるも産馬事業は多くの資本を要し且つ危險多く稍もすれは失敗に陥り易けれは産牛事業の資本比較的小額にして足り且つ生産物消流の途安全なるに若かすと乃ち牛を飼育せり 中略 勞働者を雇役し新墾犁を用ひて草原地を開き牧草を播種すること三十餘町歩、之れ北見地方稀に見る所たり 中略 三十九年又牛乳生産品利用の途を講せんか爲インパイア、クリーム、セペレーター其の他牛酪製造器機を購入し四十年五月より牛酪製造を開始せり 後略 移住者成績調査第二篇/明治41年


 ここにあるとおり豊村の牧畜は当初より飼料の生産と牧養の分業を図りながら産牛から牛乳の加工販売までを行った現在にも通じる斬新なもので、また製酪の開始を明治40年としており、実に「藤野牧場」に先立つものであった。

◆道内牧場の荒廃
 しかし、この先進模範的な豊村牧場も明治38年「北海道庁勧業統計」に『豊村牧場 牧場面積九五三、一五〇坪 牛一二 馬二〇』とあっても、大正2年「村統計綴」や同5年「網走支庁拓殖概観」には記載がなく、これについて河野常吉の「北見東部四郡」大正5年5月調では『牧畜家ハ大抵失敗セリ 豊村品藏モ然リ』とある。


 豊村品藏君 略 現在の位置即ち二十線に居宅並に倉庫厩舎等數棟を建築し、専心牧畜經營に努力したり 中略 一方畜牛よりは、搾乳して賣却し傍ら牛酪を製造し又蕃殖牛年々十二三頭を賣却して漸次多大の収入を得つ〵ありしが、不幸にして牛價非常に暴落し到底豫期の収入を見ること能はざる 後略 北見之富源/明治45年

 その背景としてはこの頃に殖民地の成功検査が進み、取得後の牧場の転用あるいは一時利益のための畜牛の処分が急増して、明治31年頃から40年前後をピークに牛価格が急落し、同41年には成牛1斤24円50銭であったものが同44年には13円にまでなってしまい、特に遠隔地であったこの地方への影響は顕著であった。
 また、大正5年「網走支庁拓殖概観」でも『當時は其の飼畜の方法稍々放漫に流れ一時の奇利を博せんとしたる嫌なきにあらざりしなり』とある通り、以後、専業的な大農場は暫らくの間は停滞するに至り、豊村による一大牧場も暫時縮小廃止されたようである。この当時の経緯と状況については次に詳しい。


 前略 北見ノ土地ガ牧塲ニ適セルハ勿論ナルモ地味肥ヘタルガ故ニ寧ロ農耕地トスル方利益大ナルヨリ事業家ハ未開地處分法ノ規定ニ基キ成功検査ヲ受クル迄ハ牧塲トシテ經營スルモ爾後ハ漸次農塲ニ變更スル傾向アリ貸付又ハ賣拂ノ條件ニ基ク官廰ノ簿冊ニ見レバ牧草萌ユル野ニ牛馬ノ群眠レル筈ノ箇所ガ良圃トナリテ 中略 殊ニ明治四十四年以後食用牛ノ價額低落シ全道ヲ通ジテ牧塲飼牛ノ減少ヲ來シタルガ北見ハ需要少クシテ交通不便ナル為メ其ノ影響ヲ被ル事甚シク同年以後著シク畜牛ノ減少ヲ見ルニ至レリ 網走築港調査書/大正3年
   
 実際には牧場用地内の林木の切り出しのみを目的としたものや取得後の用地の転売をねらった投機的なものも多く、広大な牧場にごく簡易な牧柵と数頭の牛馬、さらには借りた牛馬を放牧して検査をやり過ごすなど非常に悪質なものもあって、それが畜牛の乱売に拍車をかけて一時的な牧場の荒廃へとつながった。

第34回牛飼いのはなし

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 22:44│Comments(0)オホーツクの歴史
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