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2008年03月11日

網走地方のリンゴ

~網走管内のリンゴ栽培(第10回のつづき)

戦前のリンゴ作業の様子 : 検査要覧/昭和12年 網走地方のリンゴ 農業開発が最も遅れた道東でも、明治7年には根室に官園が設けられ、このとき他と同様に果樹の配布があったと思われるが、三県時代の根室県では同18年に「農業談話会」と「北海道物産共進会」が開催されて、同年七重村から導入した苗木を県下全戸へ奨励している。
 網走管内の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗を各3、4本取り寄せたのに始まって同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には郡書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸の程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
 これらの奨励は明治24年に網走郡外三郡へリンゴほか450本が、翌25年にもリンゴ200本が下付され、同20年代には盛んに移植が試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹を植え、盛んに苗木の生産と配布を行い、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したと云い、また網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生で、また仁木村から再転住した木村嘉長は「北見之富源/明治45年」に『家屋の附近には李苹果を栽植して年々幾分の収獲を得』とあるように、渚滑村でも苹果を植えて同40年代には結実を見ている。

 半澤眞吉 略 明治二十五年小清水に三十本の林檎を植栽し爾來年々移植又は希望者に配布したる數數百本に及ひ又字シマトカリに於て落葉松2千本を植栽し且つ一般に配布し 後略 殖民公報第六十八號/大正元年
 前略 駅逓藤島福治ノ如キハ、漁ハ固ヨリ本業ナレトモ、頗ル農牧ノ業ヲ楽ミ、「ホロナイ」川左岸ニ於テ八万七千七百坪ノ牧場を有シ現今専ラ牧馬スレトモ、将来牧牛、牧豚ノ望ヲ懐キ、且ツ屋後ノ高原ニ明治二十七年千株ノ林檎ヲ植エ(現今五六百株生存)、家屋ノ周囲ニ穀菽蔬菜ヲ栽培シ、又当年米ヲ試作シ頗ル熱心ナリ 北海道庁第十一回拓殖年報/明治30年
 高田吉藏 略 (明治)二十八年秋始めて農業に志し大曲に於て耕地四町歩餘を二百八十圓にて買受け之に野菜を自作し監獄署及ひ工場等に賣却して太に利益を得たり又苹果の將來有望なるを思ひ同町大字最寄に於て耕地四町歩餘を買入れ之に札幌地方より苗木を取り寄せて栽植し 中略 現住地に移りて以來熱心諸種の事業に勉勵せし結果目下の所有畑地十三町歩、之を一反歩平均一圓の小作料にて貸付し果園の苹果六百本は既に成木して盛に登實せり 移住者成績調査第一篇/明治39年
 網走付近ノ林檎ハ年々其数ヲ増シ、目下同地方ノ林檎ハ三万九三三〇ノ多キニ至リ、品質小樽・余市付近ヨリ産スルモノト比較セバ稍ヤ劣ルモ 其成績見ルベキモノアリ、一ヶ年ノ収獲高ハ一万八千貫目、之ヲ時価ニセバ九千円ナリト云ウ 網走市街付近林檎園ノ景/明治39年


 こうして網走管内では明治33年に紋別郡でも産出するようになったが、その中心はもっぱら網走であり、同42年に4万円・10万斤の産額を示してブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
第33回リンゴの話し2

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 20:14│Comments(0)オホーツクの歴史
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