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2008年03月05日

網走での捕鯨

~オホーツク捕鯨の始まりと紋別での終焉

網走での捕鯨
◆網走支庁拓殖概観/大正6年

 東洋捕鯨會社茲に見る處ありて從業根據地を網走町大字最寄村に設け網走事業場と稱し、捕鯨船二艘を配し客年より之が捕獲に着手せり、中略 〔一年目〕 三十一頭を捕獲し第二年目(大正五年)五月下旬より捕鯨開始し百三十一頭に及び此價格約拾萬圓の巨額に上れり、而して之が需要の方法に就ては地方人士未た食料に供せんとする調理法を知らさると夏季の捕獲に属するを以て其の大半を肥料又は製油と爲し管外に輸出せらる 後略  

 明治32年に下関の岡十郎が「日本遠洋漁業株式会社」を設立し、我国で最初の汽船によるノルウエー式の近代捕鯨を開始して、この後身の「東洋捕鯨(現ニッスイ)」は大正元年に室蘭を拠点に本道へ進出、同4年には網走に事業所を置いてオホーツクでの捕鯨が始まった。紋別へは昭和5年に大東捕鯨㈱が進出したが、このときには数年で撤退してしまった。
 時代が下り、かっては「大洋漁業㈱(現マルハニチロ)」や「極洋捕鯨㈱(現極洋)」などの基地でもあった紋別も昭和51年の水揚げを最後に捕鯨は見られなくなったが、これは200海里規制や反捕鯨運動のためだけではなく、同年7月、違反操業のために小型捕鯨船団が一斉に摘発されたことによる。                                  北海民友新聞   
網走での捕鯨 それは海上での処理が昭和18年には禁止されていたにもかかわらず、長年に渡って慣行されて来たもので、以前は水揚げ時にサイレンが鳴り、子ども達が走り募っては解体作業を見物した紋別の風物詩も、処理施設が無くなり、これを契機に捕鯨は廃止された。
 樺太タライカ湾付近で行われていた大型捕鯨は、それ以前の昭和43年に大洋漁業が2頭を捕獲したのが最後である。
紋別でのクジラの解体風景/昭和35年頃と同40年頃
網走での捕鯨網走での捕鯨 第29回お魚のお話し

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


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Posted by 釣山 史 at 22:50│Comments(0)オホーツクの歴史
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