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2014年11月26日

戦前の鮮魚流通【再】






§カレイ漁に見る戦前の鮮魚流通 オホーツクの紋別と斜里では、夏にひがな一日釣りをしてオヒョウを捕る。約1.8㍍もの大きいものもいて、この辺りの土地のヒトの一番の食糧である。富山名産のタコ、滋賀のナマズに勝るかもしれない。 蝦夷訓蒙図彙 蝦夷土産道中寿五六 紋別で産出されるカレイ類は広く市場で知られ、特にマガレイは早くから「もんべつガレイ」と呼ばれて珍重されて来た。いったい、いつ頃からどのようにして有名になったのか? その歴史的背景に戦前の鮮魚流通を見る。 ①江戸時代から知られた巨大魚~オヒョウ 昔は畳大もあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六」に紹介されている。アイヌ人にトバや塩乾として食べられていた。。明治一八年に国後から網走に移住したサラビヤなるアイヌ人が、沖合三里の延縄漁でオヒョウを多獲し、この地方が非常に好漁場であることが分かった。 ○明治二五年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オホーツク海のオヒョウ漁が一大ブームとなった。 ○明治四一~四五年にかけては、沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵庫による操業も試みられて動力船の使用も検討された。 ②動力船の進出~たくさん獲れて困ったカレイ 一説に我が国の機船底びき網漁業は、明治四二年の室蘭での試験に始まると云い、実際に道内で経済操業に至ったのは大正中頃の小樽や函館であり、大正九年の小型底びき網機船の登録は、小樽一〇〇、岩内一〇、函館四、室蘭三三、釧路五二、根室三、宗谷一、留萌一二の計二一五隻であったが、うち操業船は百隻程度で、道庁では、にわかに勃興した小型底びき網機船を夏枯れに対応した通年操業とするため、新開の北見漁場へと誘導した。 『漁況及漁場 紋別~枝幸間 今回調査ノ結果ニ依レバ、此区間ハ有数ノ真鰈漁場トス。即チ枝幸正東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬付近海深五十尋(尋=約一、八㍍)内外一帯ハ清浄ナル細砂底ニシテ、当今夏期ニ於テハ真鰈ノ密集地帯ニシテ、巾三浬内外・長三十浬以上ニ亘ル此ノ地帯内ニアリテハ、一網真鰈五六箱及至十四五箱ノ漁獲アリ、其ノ区域ノ広汎ニシテ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ。略 鮮魚トシテ処理シ得バ、二三十隻ノ発動機船ヲ操業セシムルモ敢テ過多ナルヲ覚エザランモ、現在ハ勿論将来交通輸送ノ便完整セラルルモ其大量ノ鮮魚輸送覚束ナク、内地輸送モ亦不可能事ニシテ 後略』/北見沿岸手繰網漁場探検報告/T9年 『無尽の魚族・宝の海 略 三洋丸は二百十七噸、小型の汽船であるが無線電信、電力の装置もあって六月から十月一ぱい北見沿岸一帯の漁場調査の為めトロール試験をなしつ〵ある。 略 紋別沖合にては真鰈一網十箱以上の大収穫で蟹の繁殖著しく油鮫の棲息も夥しい。四、五十艘の発動機船で幾十年漁獲しても無尽であるといって好い。紋別の斯の大漁場に距離の最近を占め沿岸の最中央に位し、鉄道は稚内網走に比較して中央市場に近く鮮魚輸送の利便あり、経済物資も都合よろしく、漁業の根拠地として絶好の所である。漁港完成の一日も速かならん事は海田開発漁業振興の為め緊急である。漁具修繕の鍛冶屋無き事と魚類の保管輸送に使用する製氷工場冷蔵庫の設備の欠乏せるは遺憾である 略 明年は十二、三艘の発動機が来紋活動し、愈々北海漁業勃興の好機に入るであろう 後略』/北海タイムス/T12年9月15日 枝幸紋別間 略 今回調査ノ結果ニ依レバ枝幸北東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬附近海深五六十尋内外一帯ハ細砂底ニシテ夏季ニ於テハ眞鰈ノ密集地帯ニシテ幅二、三浬内外長三十浬以上ニ亘ル廣汎ナル面積ヲ有セリ殊ニ枝幸、紋別ノ中間ニ於ケル雄武沖ヲ中心トシテ密集セリ一時間曳網十箱(トロール箱)内外ノ漁獲アリ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ今夏紋別根據トシテ小樽ヨリ廻航シ來リタル手繰漁船寅丸(十五噸)ノ出漁シ居ルヲ見レバ出漁毎ニ曳網二回ニシテ眞鰈ヲ滿船シ歸港スルノ狀態ナリ 後略』/大正十四年度施行 南オコツク海海底漁場調査報告/昭和2年 ○紋別では、明治三十六年頃から川崎船によるカレイ小手繰漁(小型底びき網船)が行われて、大正年間には二~三隻が操業していたと云われる。 ○北見東部四郡の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正三年春に本州で建造した「紋別丸五㌧一〇馬力のホタテ監視船だったが故障が多く、これを高嶋春松が譲り受けて、紋別~湧別間の輸送を行いながら大正九年にはマガレイ漁を始めたと云う。 ○大正一二年には松田鉄蔵(後の代議士)が機船「第三寅丸一五㌧一五馬力」を廻航させ、また、地元では同年に伴田惣十郎が機船二隻を建造して(紋別丸一九㌧三〇馬力)、翌年から操業を始めた。道庁による漁場調査の際、その接遇に当たったのが伴田組合理事であった。 ○これ以降、夏枯れ対策として小樽・室蘭・留萌から多くの動力船が廻航し、紋別を拠点に常時一五~一六隻以上が、主に雄武から興部沖の浅い所で水深三五~五〇㍍、深いところで六〇~八〇㍍の範囲でマガレイを大漁した。 ○昭和一一年の千島も含めた全漁獲高では、紋別が全道の市町村中第五位にあり、そのうちカレイ漁は三位で、底びき網でのカレイ漁は断トツであった。 ③鮮度保持と流通技術の進歩~流通販売の努力 『其の他漁獲物は大鮃九、六三〇貫、鮊一二九三〇貫、カレイ単価は延縄の一円に対し沖曳は三〇銭の安値なり。』/大正一五年紋別町農林統計 『從來搾粕本位なりしも近來輸送機關の發展に伴ひ冬期は遠く相州小田原及東京の市場に搬出し蒲鉾原料及日用食膳に供せらる〵に至れり』/北海道水産一覧/大正七年 当時は、既に地元仲買人はいたが(大正四年に紋別魚市場が開設)、大きな取引は主に小樽の問屋衆で占められていて、季節的に大漁されるマガレイは、価格が非常に不安定であり、底びき船主が直接、東京へ送ったり、粕に炊いたりしていた。 小樽などの先進地では、大正中期にカレイなどの内地出荷が始まっていたが、生鮮食品を生産段階から途切れることなく低温保持し流通させるコールドチェーンの本格的な試みは、大正九年に森町に大型冷凍冷蔵施設を開業した「葛原商会(のちの葛原冷蔵㈱)」に始まった。 ○紋別では多獲されるマガレイをトロ箱(トロール箱)の代わりにビールの大箱を使って出荷していたが傷みやすく、昭和四年に現在のような魚函に改良して品質維持に努めた。 ○当時は、一尺(三三㌢)以上の大きなマガレイを鮮魚とし、ほかは魚肥や蒲鉾に加工して、ソウハチなどは廃棄していた。 ○紋別では、多獲される鮮魚の保存と輸送が大きな課題であり、網走では、明治の末期頃から冷蔵船の回航も見られたが、生鮮の輸送と販売には限りがあり、大正一〇年に名寄線が、昭和七年には石北線が開通したことで鉄路での輸送は容易となったが、その前提となる製氷・冷蔵庫が無いことは、依然として大きな問題であった。 ○松田と伴田は、機船底びき網漁業に着業間もなく製氷池を造成して昭和六年の調査では紋別に製氷池が六経営体一四箇所、貯氷庫も二一棟あり、また、同年、日本冷凍協会誌で紹介された当時としては最新式の松田冷蔵庫が稼動し、戦前には既に五つの冷凍工場を有する一地方では稀に見る生産基地となった。 『本港の盛衰は漁業の消長如何に依つて決せらるべきは言を俟たざる所なり、然るに當水産会は未だ舊態を脱せずして、魚價の調節機關に何等見るべきものなきを痛感し、玆業の振興を促進すべく紋別港灣の完成と相俟つて冷藏庫を建設し、以て市價維持に均衡鮮魚の輸出をなすの外、漁不漁の均等、調節を計り、北見沿海一帶の海産物を集め本港の發達を期すると同時に、聊かたりとも本道水産界に貢献せんとするものなり。』/日本冷凍協会誌/昭和6年 『鉄道省は来る十月一日を期して全線にわたり旅客列車のスピードアップを実行することになったが、これに伴い、貨物列車の速力をもまた全線的に短縮することになり本省の貨物課と配車課及び運転課との間で研究を重ねていたがこの程漸くその決定を見たので十月一日から貨物の超特急列車を運転実施することになった 略 この鮮魚列車は北海道紋別から下関までを改正時間で連絡輸送すると、実に従来より丸一昼夜早くなるもので、荷主にとっては貨物輸送上の一大革命である、この外各線の貨物列車とも何れも長距離では十六時間以上を最大に短距離の最少のところでも三十分位宛は時間を短縮され、更らに最近甚だしく増加した戸口から戸口まで鉄道の手で運ぶ特別小口扱いが案外の好成績であるに鑑みこの需要の最も多い大宮と青森間に一五九特別小口扱貨物列車を一本新設運転することになった 後略』/中外商業新報/昭和5年 ○「第三寅丸」が紋別で操業を始めた時、既に冷蔵貨車はあったが、台数は限られており、のちに機船組合を結成して協定を結んで大量に施氷し、室蘭までは鉄道を、そこから船を利用して遠くは東京市場へも出荷したが、うまく届けば大儲け、途中で腐ると丸損という有様であった。 ○国内での冷蔵貨車の最初は明治四一年で、大正三年に青函航路での車両輸送が開始し、道内では同一一年で三〇輛の冷蔵貨車があり、同一四年からは青函連絡船による貨車航送が開始されて内地への鮮魚輸送は急増した。昭和四年には、道内に三一四輛の冷蔵貨車があった。また、昭和一〇年に現在の築地市場が開設されたとき、同時に「東京市場駅」が設けられて“鮮魚特急”と呼ばれる速達化が図られた。 ○地元では昭和一二年から漁業者による「焼きガレイ」の加工が始まり、戦時の食糧不足に対応するため、翌年にはこれを目的に「紋別加工組合」を発足して「焼きガレイ」は広く流通した。 ○戦後の昭和二六年には、入会も含めて機船底びき網漁船が六一隻にもなり、先駆的な漁業の近代化と冷凍・冷蔵技術の導入や箱詰めの工夫など、このような漁獲の安定、鮮魚流通に向けた努力は、旭川や札幌のほか東京・小田原などへの積極的な地方出荷となり、後の「もんべつガレイ」の産地ブランド化へと繋がって行った。 紋別の動力漁船、戦前 戦前のビール箱 サッポロビール博物館蔵 開業当時の松田冷蔵庫機械室 昭和3年頃の冷蔵貨車

第369号 鮮魚特急      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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