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2014年08月10日

缶詰の話し2


②カムチャッカ漁業の勃興 ~邦人のカムチャッカ進出 カムチャッカ操業は、それ以前からロシア人やアメリカ人らによって試みられてはいたが、明治28年にロシアのコチク社が日本人を使って操業し、この時は失敗に終わった。同社は、明治29年にデンビー(初代デンビーの妻は日本人だった)と提携し、邦人漁夫46名を雇入れて出漁すると日本式塩蔵サケ・マス7千尾を函館に輸入した。これがカムチャッカにおける経済操業の初見であり、翌年には、汽船大洋丸、攝陽丸、愛国丸と漁夫132名が出漁した。このように漁労はもっぱら日本人に頼ったので、明治32年からはロシア人と直接提携する邦人も現れ、同33年には、出漁46隻、漁獲3万6千石にも達して驚いたロシア政府は、邦人を規制して、以後、共同あるいは買魚が名目となった。明治32年にデンビーと共同の「セメノフ商会」が函館に設立され、翌年には、カムチャッカのアワチヤ湾に缶詰工場を建設した。セメノフ商会が焼失したので、同40年にあらためて函館にデンビー商会を興し、同41年にウスカムへ進出すると同42年にはカムチャッカ河上流に缶詰工場を建設し、翌43年に最新式のドイツ製半動式缶詰機を導入してサケ・マス缶詰を量産した。このようにカムチャッカにおいてはライバルとなる堤商会(後の日魯漁業㈱)が現れるまでは、デンビー商会を中心としたグループのほぼ独壇場にあったが、この間で注目したいのは、明治34年に平塚常次郎(後の日魯漁業㈱社長)がヤイナへ出漁し、同36年に建設されたカムチャッカ河畔のシールスキン社工場では、竹村糾太郎(ホタテ缶詰の製造販売を始めて手がけたと思われる人物)ほかの邦人が缶詰製造に従事したと云う。日露戦勝を経て明治40年に日露漁業協約が調印されて日本権益が確立した。北洋漁業は加熱して小群割拠し、このときの露領漁区競落額(落札175漁区のうちカムチャッカは63漁区)は高騰し、加えて協約締結後も邦人への圧迫が見えたので、翌41年に露領沿海州水産組合を設立して対抗した。こうして着業者は次第に集約され、企業合併も相次いで、大正12年には租借229漁区のうち67漁区を日魯漁業㈱が占るようになり、また、一時代を築いたデンビー商会もロシア革命によって衰退し、北洋漁業㈱を経て日魯漁業㈱に吸収された。 あけぼの印のカムチャッカ工場 昭和10年頃の北海製缶小樽工場 大正末年頃の日魯漁業㈱の拠点 新潟港からカムチャッカへ向けて寶壽丸を出港させた。
第362回 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


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