2012年03月22日
北洋操業と霧笛のお話し(改)
◆遠洋・沖底が華やかな頃のお話し
~非常に危険だった昔の北洋操業
戦後に日本の遠洋漁業が解禁されたのは昭和27年で、紋別では同30年、31年には北洋カムチャッカ海域のサケ・マス漁業船団の中継基地となり、また、同じく同30年からは「日米水産」と「極洋捕鯨」のタラ延縄漁船の根拠地ともなった。そして旧ソ連のベーリング海域などでの底曳試験操業が開始されたのが昭和32年である。
遠洋・沖底漁業が華やかしい頃、濃霧などで視界が利かないときに「ぼー、ぼうー」と鳴った港町の風物詩は何処へ行ったか?
悲願であった紋別築港が竣工したのが昭和6年、これに併せて北防波堤に紅白色の灯台が設けられた。築港以前には、今の造船所のあたりには岩礁と浅瀬があり、そこには一本松が建てられて、松印と呼ばれて航行の目印となっていたと云う。
昭和29年には北防波堤灯台が改修されて赤色灯の通称赤灯台となり、翌30年10月1日には、紋別市によってモーターサイレン式5馬力の霧笛が、灯台に付設され、さらに翌年には海上保安部へと移管された。
さて、当時、弁天町にあった松田水産所属の『丸高丸・177㌧、17人乗り』は、昭和34年3月6日9時頃、僚船へ『天気すこぶる晴朗で波静か、順調な航行を続けている』との通信を最後に消息を絶った。「丸高丸」は前年に進水したばかりの新造の北洋底曳試験船だった。
その後に遺留品などの手がかりも全くなく、行方不明から四十九日が経った4月26日には報恩寺において小笠原俊英船長、高橋亮一漁労長ほか乗組員の合同慰霊祭がしめやかに執り行われた。
この前月には大洋漁業の「第十七明石丸・73㌧、15人乗り、鍋谷精司船長」がカムチャッカ南端のブレスブ沖で沈没しており、「丸高丸」は皮肉にも1年前にはカムチャッカ沖で遭難したタラ延縄漁船「第十二大黒丸・132㌧、18人乗り、阿部喜一船長」の最後の無線を受け取った僚船であり、また、この昭和34年には当地へ巡視船「そらち」が配備されたのであった。
第298回 遠洋漁業、沖合底曳漁業が再開した頃 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
Posted by 釣山 史 at 00:00│Comments(0)
│紋別の歴史
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。