さぽろぐ

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2017年07月26日

寄鯨伝説と近年の漂着例


紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。知床ウトロの伝説に云う。昔、岩島に住むオロッコ人が、通りかかるアイヌ人に上から投石してホトホト困っていた。岩島高くにいるオロッコ人は手強く、そこでアイヌ方は一計を案じ、夜中に海草でクジラの形を作り、魚を置いた。朝になって群がる鳥を見たオロッコ人たちは、岸に鯨が寄ったと思い、喜び勇んで岩島から下り、駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻め、こうしてオロッコ人は全滅してしまった。同様の話しが枝幸、浦幌ほかにあり、“寄り鯨”に関係する伝説は、全道のあちこちに散見される。鯨は貴重な資源であった。当地にも、紋別空港を横切ってオホーツク海に注ぐ小河川にフンベ(鯨)オマ(居る)ナイ(川)という寄り鯨の川がある(図2)。近年、クジラの漂着が増加していると感じるが、生息数増の兆しなのか?
第420号 寄鯨伝説と近年の漂着例     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月26日

集落名に見る母村

~北海道号線の由来

集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度で、これにより土地の正確な位置や面積が簡単に分かるようになった。アメリカやカナダでは、開拓時代の18世紀後半から19世紀前半にかけて各州ごとに東西南北に基準線を設け、実際の土地測量に基づいた碁盤目状の土地割を行い、それを細分して入殖者に与えるタウンシップ制を取った。さて、北海道の開拓使時代の屯田兵や移民募集への直接保護政策は北海道庁の設置を見てからは誘導保護へと転換され、明治19年には殖民地選定事業が始まり、明治22年からは区画測設によって殖民地区画図を調製した。こうして北米のタウンシップ制に倣い、殖民地ごとに基線を定めてそれに並行する2線、3線…、基線に直行する号線、2号、3号…を設けて、入殖者1戸に基本5町が与えられた。旧開地や網走、紋別など早くから漁業開発が進んだ沿岸地域を除いて、新開地の本格的な開拓が始まったのは、明治30年に北海道国有未開地処分法が定められ、大地籍地の処分が積極的に行われるようになってからで、本州の各地から団体移住者が入殖するようになる。全くの原野を切り開いた内陸地においては、村を立てるにあたって殖民地の区画測設がなされ、まずは官公所や学校地、神社地などが区割りされ、例えば神官なども公募された。新たな集落では、常呂町土佐や訓子府町秋田、釧路市鳥取などのように出身地名が引き継がれ、佐呂間町栃木は、あの足尾鉱毒事件の被害者たちが入殖した土地である。そうして芦別市や沼田町などは、富山県の門徒衆が多く入ったので聖徳太子講が持ち込まれ、越中獅子舞が残っており、また、岩見沢市栗沢町には、郷里の越中礪波郡から分祀された礪波神社がある。また、紋別市の漁民の間では、庄内由来の龍王講が信奉されて120年を越えると云う。 佐呂間町栃木団体の記念碑
第419号 北海道の開拓号線     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:17Comments(0)北海道の歴史郷土の語り