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2017年04月22日

教育勅語


§教育勅語の成立過程 ①伝統的な日本的儒学 江戸時代の学問は儒学が中心にあり、その後に続く日本的儒学は藤原惺窩の「朱子学」に始まった。惺窩に推挙されて徳川家康の侍講になった林羅山は、仏教は虚学であり、朱子学を実学とした。代々林家が大学頭となった昌平坂学問所(昌平黌)は最高学府であり、朱子学が正学として諸藩校の模範となった。「教育ニ関スル勅語」の草案作成に中心的な役割を果たした元田永孚は、明治4年に宮中に召され、以後、20年に渡り天皇の近くに仕えて啓沃に当たり、君徳を醸成し、帝王学を教授した。永孚の考える立憲君主制下の教学は、朱子学を基礎とし、皇国思想に仁義忠孝を基本とし、行き過ぎた欧化教育を批判したが、西欧文化の長所の享受を否定するものでは無かった。永孚の考える教学は、勅令によって編纂された「幼学綱要」に見ることが出来る。「幼学綱要」は、孝行、忠節、和順、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、敏智、剛勇、公平、度量、識断、勉識を20の徳目に掲げ、孝経・五経・四書で解し、それを和漢の道徳的事跡を例に説明したもので、国民の守るべき道徳として明治天皇自らも宮中で講義された。 ②教育勅語渙発までの経緯 近代的な中央集権国家の建設を急いだ明治政府は学制を公布し、教科書の出版を急いだ。欧米文化が尊ばれた時代に福沢諭吉の「西洋事情」などの啓蒙書や米国のウィルソン・リーダーなどの輸入教科書が多用され、日本には馴染まない内容も多かった。明治11年に明治天皇は東山北陸東海の各校を御叡覧し、洋風化を競う学風に憂慮され、元田永孚をして教学の方針を示した(聖旨教学大旨)。また、政府も自由民権運動の激化にそれまでの欧化主義を改めようと考えた。こうして翌12年には教育令が公布され、仁義忠孝に基づく儒教的皇国思想へと教育方針が変更され、明治15年には天皇の勅命によって国民が守るべき道徳を説いた「幼学綱要」が編集された。初代文部大臣の森有礼は、万世一系の国体と忠君愛国の精神に基づく教育改革に取り組んだが、途中で死去してしまう。天皇は明治19年10月に東京帝大へ御臨幸した際、大学は人材を育てるところであるから修身を拡充するよう喩旨され(聖喩記)、また、同20年5月に所管内を視察した北垣国道京都府知事は、宮中へ徳育に問題があって国民教育の根本として最も重大であると復命した。この頃、地方長官の間でも行き過ぎた西欧思想教育を見直そうとする機運が高まり、帝国憲法の公布を前に石井省一郎岩手県知事ほか有志たちは、日本的な国民道徳・徳育の方針を文教の立場で確立すべきとの運動を展開した。そうして明治23年2月の地方長官会議において『徳育涵養ノ義ニ付建議』が決議され、山県有朋内閣へ提出されて、御前会議で“教育上の箴言”を編纂せよと天皇が沙汰したことで消極的な榎本武揚文相は更迭され、芳川顕正が就任した。こうして山県、芳川、元田に井上毅法制局長官が加わり、井上案を基本に元田が中心となって草案が煉られた。明治23年10月30日にいよいよ山県総理と芳川文相が宮中へ召されて天皇の御言葉としての『教育ニ関スル勅語』が下賜され、それは政治的宗教的な要素を避けつつ、哲学論ともならないように熟考されたものであった。 【教育勅語の十二の徳目】 孝行、友愛、夫婦ノの和、朋友ノの信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇 ベースボールを扱った「ウィルソン・リーダー」の意訳本、「万国奇談」では、旧約聖書のアダムとイブやノアの洪水などが紹介されている。
第405号  教育勅語の成立過程      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/