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2016年04月10日

厚田・当別の文人


◆厚田と当別の文人3人 ○河合裸石と子母澤寛 アウトドア・ライターで紀行作家の河合裸石は新潟に生まれた。岩見沢を経て厚田へ渡り、高等小学校を卒業後に代用教員となり、教え子に子母澤寛がいる。後に小樽新聞社、さらに北海タイムスへと移り、後半生は山岳スキー家として良く知られる。共著にバチュラーの「アイヌの炉辺物語」、著作に「蝦夷地は歌ふ」などがある。戦前の教科書にもなった「スキー夜話」では、『スキーが日本へ最初に持ち込まれる以前の明治26年頃 カムチャッカの出稼者が、ストー(先住民の歩くスキー)を持ち帰ってきて、僕はそれで遊んだ』と云っている。大正10年には「薩哈嗹新地図」を調製している。 子母澤寛は、明治25年2月1日に北海道石狩郡厚田に生まれ、祖父母に育てられた。祖父は彰義隊として箱館戦争で戦った生き残りで、異父弟には三岸好太郎がいる。読売新聞社会部に入った頃から手当たり次第に維新史料をあさるようになり、新選組や遊俠徒の調査研究に力を注ぐ。のちに東京日日新聞社(現毎日新聞)に移籍。股旅物の第一人者と云われて、「新撰組始末記」や「国定忠治」などが有名である。樺戸集治監で監守をしていた牧田重勝は、真心影流の達人であり、厚田神社の門前に直心館という道場を建てて、新選組幹部であった永倉新八が、この道場で教えたことがあり、幼少の子母澤寛も通っていたという。 ○我が一族ゆかりの弁華別小学校と本庄陸男 我が一族は、当別村の茂平沢に入いって神社を建設し、土巧組合を設立、公設渡船場を経営して部落長ほか公職は多数で、「移住者成績調査」にも紹介された当別村を代表する開拓成功者であった。しかし、第一次大戦後の農業不況と農民解放運動の盛り上がりに小作(子)たちが結託して仕込料や小作料を支払わず、親が差し押さえを喰らって大正13年には現在の紋別市上渚滑へと転出してしまった。大正・昭和と我が一族が教員をしていた昭和12年建築の弁華別小学校舎は、道内を代表する大規模木造校舎で美しく、このままいつまでも残っていて欲しい。校庭の二宮尊徳像は、戦時供出後に陶製となって再建されたものだと云う。 いっぽう本庄陸男家も営農をしながら小間物店を営み、地区部長など地域で活躍したが、大正2年の本道大凶作で売掛金が回収出来なく経営に行き詰り、同じく上渚滑へと転出した。陸男は、東京で教師となったが、プロレタリア活動に傾倒して、教師を免職されてしまい、後の小説「石狩川、1939年刊」では、当別村へ入って開墾に苦闘した伊達主従をモデルにを著わし、一躍脚光を浴びたが35才で早世した。 陸男の兄と私のオジはいっしょに働き、父が甥と知り合いで、私も同族と同じ職場で働いたことがあり、また、陸男の初期の作品「開墾地」は筆者一族が入殖した茂平沢を描いたものであろう。
第393号   厚田・当別の文人    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 11:13Comments(2)読書と北海道文学