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2014年08月24日

缶詰の話し4

2.カニ缶詰 ①カニ缶詰の企業化 第四回(明治廿八年)内国勧業博覧会審査報告 福井縣ノ出品は蟹最多ク、就中大戸輿三兵衛ノ出品ハ寒冷紗ヲ以テ包装充塡シ、其製法宜シキヲ得、色味甚圭良ナリ明治一八年ノ創業ニシテ爾來諸種ノ罐詰ヲ製造シ其製額二萬五千餘罐ニ及ビ布哇(ハワイ諸島のこと)及清国ニ輸出ス カニ

缶詰の黒変とは カニやエビ、ホタテなどの魚介類の缶詰は、内容物に黒変と云う黒い斑点が出来ることがあり、それはカニ肉などの蛋白質中の硫黄分が容器の鉄分と反応して硫化鉄が生成されるためで、カニ缶詰の製造において最大の課題が、この黒変の克服にあった。これを防止するためには硫酸紙(パーチメント紙)でカニ肉を包み、あるいは缶内面をエナメルで塗装して缶と内容物が触れないようにする。 ~陸上カニ缶詰のおこり 本邦でカニ缶詰を最初に作ったのは、明治14年に開拓使別海缶詰所から厚岸牡蠣缶詰所に出張した松村文四郎に始まると云い、このときは試作に終わった。カニ缶詰が経済操業に至ったのは、ズワイガニが特産の福井県であり、乾物商の大戸輿三兵衛は明治17年にズワイ缶詰を試作し、翌18年には酢を添加することで黒変を抑制することに成功して販売を開始した。これを契機に北陸では着業する者が相次いでカニ缶詰生産では一時代を築いたが、また、この間の北海道では、明治20年に小樽高島の海産弘舎において平田孝造が、厚岸では元厚岸牡蠣缶詰所長の長谷川源之助が、タラバ缶詰を試作し、小樽の西川貞二郎は、明治22~23年前後からタラバ缶詰の製造販売を始めて、同30年のイギリスのクロムウエル博覧会に高島西川缶詰製造所製のカニ缶詰が出品されている。のち西川缶詰製造所は使用人の松吉直兵衛に引き継がれ、明治35年からは硫酸紙を用いて黒変防止に努めたりしたが、結局、大成しなかった。 ~IZUMIブランドとUSUIブランド 日本カニ缶詰の最大の功労者は、黒変を克服して量産化を図り、広く国内外へカニ缶詰を普及させて海外販売を軌道に乗せた根室の和泉庄蔵と碓氷勝三郎である。和泉庄蔵は、サケ・マス漁を営みながら小規模な缶詰製造を始めて、明治31~32年頃にはカニ缶詰を試作したらしい。明治37年に北海道庁の官吏が国後を巡視した際、大量に投棄されるタラバガニを見とめて缶詰製造を勧められ、同年は試験的に製造し、翌年には古釜布に新工場を設けて大規模なカニ缶詰製造を始めた。しかし、黒変は解消できずに一定の製品化を見たのは明治40年で、アメリカでの試販では好評を得た。折しも同年に水産講習所が内面塗装缶を開発し、明治41年に試用してみたところ好結果だったので、ドイツからラッカードブリキと硫酸紙を輸入してカニ缶詰を量産し、アメリカへ本格的な輸出を開始した。同じく碓氷勝三郎は、明治27年に別海西別にサケ・マス缶詰工場を開き、のち国後泊でエビの缶詰製造を始めて同33年には硫酸紙によって黒変を抑制することに成功した。これを知見に和泉庄蔵と前後して明治38年には古釜布に本格的なカニ缶詰工場を開設し、以後、各地に事業を拡大してUSUIブランドを築き上げ、同42年からはアメリカへ盛んに輸出した。(現在、根室市の造酒屋・碓氷勝三郎商店として残る) 明治22・23年頃の西川缶詰所の宣伝チラシ 日本初の蟹工船・雲鷹丸 明治42年5月に進水した水産講習所練習船・雲鷹丸450㌧は、300馬力の補助機関を備えた鋼製3本マスト二層重甲板のバーク型帆船で、捕鯨艇を搭載した米国式捕鯨船をモデルとした。

第365回 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:30Comments(0)北海道の歴史