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2014年04月29日

上藻別駅逓保存会結成10周年記念


鴻之舞100年、上藻別駅逓保存会結成10周年記念講演(予告) とこき:6月28日(土)午後1時30分 ところ:紋別市立博物館 講演者:北海道大学名誉教授、NPO法人れきけん代表理事 角 幸博 酪農学園大学教授、北海道産業考古学会会長 山田大隆 北海道建築士会北広島支部長、北海道北方博物館交流協会理事 関川修司 その他:駅逓、鴻之舞金山ほか現地見学会あり ~詳細は追ってご案内します。 以前から駅逓跡を活用した地域活動をという動き・計画はあった。しかし、屋根が朽ち、床が抜けるという惨状に行き詰りをみせたとき、この土地にゆかりのヒトたちが参集した。平成16年秋に有志5人が立ち上がり、『上藻別駅逓保存会』を結成、手弁当に自己資金を集い、こうして半年に渡る手作業による修復の後、平成17年春に蘇った。 バスに乗ったお年寄りの団体がやって来る。古道具に触れて興味津々の子ども達がいる。手作りのトロッコとツリーハウスに親子が歓声をあげる。旧駅逓所は、この地域の出身者の心の拠所であり、子どもらの学習の場ともなって、博物館の原点、全くの民間人の手による「体験型の活きた資料館」として根付いている。 ~鴻之舞金山の始まり 鴻之舞金山は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ6線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正5年には元山大露頭が発見されて、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。鴻之舞とは、アイヌ語の「ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処」の意に将来の発展を祈念して「鳥王・コウノトリが舞うが如し」と当て字したものである。 大正6年に金山が住友へ買山されて本格的に事業展開されると翌7年には製錬所の操業が始まり、同8年には上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。 ~鴻之舞の交通と上モベツ駅逓所 住友の飛躍をもたらした鴻之舞金山は、かっては東洋一と云はれた大金山で、その玄関口に位置するのが『旧上藻別駅逓所』である。住友へ売山されて開発が進捗し出すと遠軽に出張所が設けられ、資材を運搬するために社名淵からの道なき原始林を切り開いた。そして大正3年に開設された遠軽家庭学校が集落を形成したことで上藻別原野道路が開通しても鴻之舞の主要な交通は遠軽側で、同14年には上社名淵へ駅逓所が開設された。しかし、大正10年に名寄線が開通すると次第に輸送の主力は紋別側へと切り替わって行った。 『上藻ベツ駅逓所』の高地昇は大正15年2月に受命して5月に現地へ入り、7月には開業したが(告示では同年6月1日開設)、「驛逓協會々報第一號」によると前年には開設予定であったことが分かる。宿泊料は、一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。部落の開発と整備が進み、昭和4年からは紋別間の乗合自動車が始まり、さらに同15年にバスの運行が開始して、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が着工すると、駅逓所は同年をもって廃止された。 その後、同24年まで旅館として利用された家屋は、「駅逓所建築標準」を残す貴重なもので、開設当初部は伝統的な入母屋式に下見板を用い、昭和9年に道庁から5割補助を受けた増築部分は、和洋折衷の寄木造りじ額縁の上げ下げ窓で駅舎全体には北海道特有の半紙ガラスが多用されている。























第353回 鴻之舞100年      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 05:08Comments(0)紋別の歴史