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2013年08月22日

ホタテ漁業と加工




























































































































































§ホタテのあれこれ~もんべつから ペリー買物の図・亜墨利加一条写 ◆ホタテの名前~海扇、帆立、秋田貝、車渠(イタヤガイ)北海道を代表とする北海道らしい魚介類としては、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブなどがあり、北海道の特産品であるホタテも、すでに幕末には乾貝柱として登場し、箱館奉行所の栗本鋤雲も、『蝦夷の三絶』のひとつとしてホタテの乾貝柱をあげており、明治に入って盛んに中国へ輸出されるようになって現在に至っている。松浦武四郎が残したアイヌ人の民話に『たくさんのホタテが、フタを帆に立てやって来た』というお話があり、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」でも、『口を開いて、殻の一方は船、他方が帆のように風に乗って走ることから帆立貝』とも、その形から「海扇貝」とも云われ、また、秋田の佐竹藩の家紋に似ているので「秋田貝」とも呼ばれる。 蒔絵ホタテ貝皿/室蘭市民俗資料館 1854年に、ペリーが箱館へ来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それはJohn.C.Jayによって、『Patinopecten yessoensis蝦夷の櫛皿』と名付けられたが、現在は、Mizuhopecten yessoensisと云い、一般名称はJapanese scallopである。皿貝とも云われるホタテは、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器や装飾品として使われ、明治初期の着業が間もない頃は、むしろ貝殻の利用を目的に漁獲されていたもので、戦時中の湧別漁協では、軍の命令により食器の代用品として大量のホタテ貝殻を発送した。 昭和11年の天覧活動写真/紋別 ◆紋別のホタテ漁業 明治に入り、ホタテ漁は後志と噴火湾を中心に盛んとなったが、乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点として道内の各地へ出稼ぎするようになり、そこで新たに有望となったのがオホーツク海の猿払や紋別で、また、遅れて根室では潜水漁が始まった。さて、一説に紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云い、これはナマコ漁での、混獲によるものと思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、この初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、別の記録では『明治26年、青森県人・握味久之助が高島から「八尺」を持てってきて漁を始めた』ともある。こうしてホタテ漁は北見地方を代表する一大漁業となって、大正の中頃には、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪の「紋別八尺」が全道的に知られるようになり、また、当地での昭和10年の水揚げ15,691 ㌧は、長い間、日本記録であったが、当初から乱獲などで、好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は、同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが管内のホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別において現在の基礎となる実証的な試験が繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは「4年毎の輪採制」として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定して来た。 ◆オホーツク名産の乾貝柱 昔のホタテガイ(イタヤガイ)の漁労を歌った鳥取県気高郡の“民謡・貝殻節“は有名で、「白乾」と云われる今のような貝柱のみを精製したホタテの乾貝柱は、文政年間に同郡の山田与五郎が開発したと云う。一説に北海道では、明治12年頃には試作されたというが、その技術が青森を経由して道内に導入され、同21~22年頃から本格的に製造されたが、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。 大正末期頃のホタテ乾燥の景/紋別 自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って「白乾」の製造法を熱心に指導したことから、乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品となり、その後の漁獲規制や地まきによる増養殖事業の定着もあって、オホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となった。昭和3年に道庁が発行した「北海道の商品」を見ると、白乾百斤の相場は、紋別が130~84円、宗谷は125円~80円、根室が105円~82円であり、その頃から当地の乾貝柱がより上等品であったことが分かる。昭和7年に沿岸漁民の商業資本からの脱仕込みと乾貝柱の価格向上を図るため、紋別を中心に網走管内漁協連が発足して乾貝柱の共販を始めたが、このときは失敗に終わってしまい、あらためて同9年に紋別・沙留・雄武によるホタテ貝柱出荷組合が組織されて好成績を収め、こうして各地に共販組合が発足した。 敗戦後、主要な中国市場は失われたが、香港を通じて再開され、昭和29年には漁連系統による大洋漁業への一括販売となり、現在は、漁連の直販となったが、従前同様にマルハニチロ(旧大洋漁業)との結びつきは強い。 ホタテ煮汁エキス/紋別漁協 ◆ホタテ煮汁の濃縮エキス 北海道庁は、昭和9年~11年にかけて、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための試験を実施し、薬品会社数社の協力を得ながら濃縮技術の開発を試みた。昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、真空蒸留濃縮法の実証試験を行い、間もなくホタテによるグリコーゲンの製剤化が、実用化されたようである。当地においても昭和11年に創業の昭和産業が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売しており、これらの多くは栄養剤とされ、一部は調味料としも用いられた。また、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のおみやげとして、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。このホタテ煮汁エキスは、現在も重要な天然添加物として大手商社を通じ流通している。 ◆貝殻石灰 「貝灰(かいばい)」は、石灰(いしばい)の漆喰に比べてゆっくり固まり、亀裂が生じにくく、白度も高いので、仕上げに使うと良いとされる。北海道では、開拓初期の明治12年、同13年に「コレラ」が大流行して、小樽の佐藤賢次郎は消毒用の「貝灰」の製造を始めたが、次第に建築、土木での石灰(せっかい)需要も高まったので煉瓦製直立窯での本格的な事業を開始した。以後、新たな参入者も現れて消費は札幌、旭川、樺太までに及んだが、大正に入って小樽周辺でのホタテ漁が不振となり、原料の貝殻が高騰すると北見方面からも仕入れざるを得なくなった。 戦前の貝灰工場/紋別町史 こうして小樽の近藤馬太郎は、大正2年に湧別へ移転して貝灰製造を始め、以後、盛業を見たが、戦後、ホタテの漁獲が激減して昭和36年には廃業してしまった。この地方ではほかに昭和4年の「紋別町勢一班」に貝灰工場2とあり、同5年の「北海道商工名録」には紋別に米田一郎が見られる。また、猿払には、大正時代に創業した瀬川貝灰製造所と金井貝灰工場があり、浜佐呂間では、漁業者が共同で貝灰事業を行っていた。戦後の記録では、昭和27年の「紋別町勢要覧」に貝灰52㌧、524,400円の記録が見られるが、小規模なものを含めると紋別には数軒の工場があったらしく、しかし、当地でもホタテ漁の不振から数年おきに禁漁となると、需要環境の変化などもあって、昭和40年代までには、全てが廃業してしまった。 ◆ホタテウロ粕 昔は煮つけなどで平気で食べられ、出稼ぎ漁業者の土産品ともなっていたホタテのウロも、漁獲量の増加とともに加工残さとして大量に発生するようになり、多くのカドミウムを含むことが分かったことで、浜一番の厄介者となってしまったが、紋別市内には、その処理工場があって飼肥料の原材料となっている。昭和11年の「紋別漁業協同組合概況」を見ると「海扇ウロ粕」の記載があり、昭和10年には1,196俵、7,128円と相当の出荷があった。肥沃で肥料知らずであった新開地の北見地方も、大正時代には地力の減退が現れ、昭和になって金肥の使用が広がったのである。当時、気候風土に合い、精製品の運搬も容易く、高価であったハッカの栽培が盛んとなり、世界市場の7割強を産出するに及んで、地元で産出されるホタテの「ウロ粕」を、特効があるとしてハッカに多用していた。 昭和10年頃のホタテ缶詰 開拓使工場の流れをくむ藤野缶詰所 ◆玉冷(冷凍貝柱)とその他の加工 加工・流通が未発達な時代は、ほとんどが中国向けの「乾貝柱」であったが、明治29年に小樽で本格的な缶詰製造が始まり(ただし、明治23年の北海立志図録の広告に室蘭港の帆立鑵詰類が見られる)、当地でも大正11年頃から盛んに生産され出したが(一説に明治37年)、中国では缶詰が嫌われたことから、北米などへの輸出が大きくなったのは、昭和に入ってからであり、その中心地は根室、つづいて北見地方であった。そして冷凍品も昭和3年の根室の試験に始り、のちに根室と紋別に加工場が建設されて、同じく主に北米へと輸出された。昭和40年代には、噴火湾での養殖事業が軌道に乗り、サロマ湖での増養殖が脚光を浴びるようになる。こうしたホタテの増産とともに同代後半にはボイル加工が盛んとなり、同50年代にはオホーツク海での地まき増殖が定着して玉冷加工が急増した。そして昭和53年の噴火湾での貝毒による生鮮出荷の停止を最初に、平成に入るとオホーツク海でも頻発するようになり、ウロを取り除いた「玉冷」は、ますます重要なものとなる。このようにホタテ事業は、むしろその加工に特徴があると云え、玉冷は、漁協工場だけで、全流通の1割強はあると思われ、他の市内一般工場も含めると相当量に上り、また、海外では紋別漁協のニセブランド品が出回るほどである。当地のホタテ年表 西暦 年号 記事 1880明治13年この頃、ナマコ漁で、たくさんホタテを混獲したという 1892明治25年本格的なホタテ漁が始まる 1894明治27年密漁防止のため、ホタテ船の標旗を明確化する 1896明治29年早くもホタテ資源が枯渇し、紋別郡では3区分の輪採とする 1922大正11年この頃からホタテ缶詰が本格的に生産されるようになる 大正中期の頃、小樽高島の「鉄製・紋別八尺」が、道内に普及する 大正期、ホタテ船に改良・川崎船が現れる 1927昭和2年紋別漁業組合長に古屋正気が就任し、脱仕込みの組合員整理を断行 1928昭和3年ホタテの標識放流による貝移動調査(~4年) 1930 昭和5年紋別郡水産会、製品検査を主たる事業として設立 1932昭和7年 紋別を中心に管内漁協連が発足し、乾貝柱の共販を始めるも、このときは失敗に終わる 1934昭和9年紋別漁業組合が中心となり、沙留・雄武とホタテ貝柱出荷組合を発足し、好成績となる サロマ湖でホタテ種苗試験始まる 1935昭和10年ホタテ15,691t水揚げ、戦後長く日本記録となる 水試が北海道漁業缶詰㈱紋別工場でホタテ煮汁の濃縮試験を行い、精製技術が確立 1936昭和11年サロマ湖産ホタテ稚貝の移植地蒔き開始 1937昭和12年ホタテの漁場適地調査 1943昭和18年ホタテの年令組成調査 1951昭和26年ホタテの潜水と桁網による生態調査 1954昭和29年ホタテ乾貝柱が漁連を通じた大洋漁業(マルハ)への一括販売となる 1955昭和30年ホタテ漁が「手捲き式」から「動力式」とし、操業160隻から46隻に整理 移植事業の成績調査 1963昭和38年北大の潜水艇くろしお号が、当地でホタテ潜水調査を行う 1965昭和40年ホタテ漁が全組合員にる共同経営方式となる 1968昭和43年ホタテ乾貝柱が大洋漁業(マルハ)への一括販売から、漁連系統の直販となる 1974昭和49年 ホタテ稚貝放流が本格的に取り組まれる(この年1億2千万粒放流) ホタテ漁禁漁(~50年) 1976昭和51年ホタテ漁、4年輪採制として再開 1878昭和53年 渚滑沖でホタテラーバ採捕(618万粒)、中間育成、越冬飼育(75万粒)に成功 1980昭和55年 紋別漁業協同組合にホタテ養殖部会を設置 2003平成15年全道的にホタテ豊漁、価格が大暴落する




第364回 ホタテの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:02Comments(0)北海道の歴史