さぽろぐ

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2012年07月07日

北見地方の昔話し1











































































































































































































































































































































 第303回 オホーツク管内の昔話し1 
北見國のあれこれ ◆香るミントの風、北見ハッカの濫觴 開墾が始まったばかりで、交通不便な奥地においては、収穫物としてのハッカの取卸油は運搬がたやすく、また、北見の気候風土にたいへん良く適したことから、この地方に瞬く間に広まりました。こうして世界の産出の大よそ7割を占めるようになった「北見ハッカ」は、当地の開拓期の先鞭となり、昭和40年代まで大いに興隆を見ました。 北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝され、翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山屯田兵村の山形県人・石山伝右衛門によるもので、ここから湧別村へと「渡部精司」が移植したことから、よって以後の道内のハッカは、ほとんどが山形系になった。 渡部は、明治24年に開拓地の選定のためにオホーツク沿岸を探索中、偶々、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生のハッカを発見し、それを試験的に精油したのが「北見ハッカ」の濫觴で、同26年に北見国の湧別に入って栽培を始めた。 それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、既に明治33・4年頃には導入されていたようで、また、明治37年の日露従軍の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息からハッカの話を聞き、戦後に至って永山村から取り寄せた逸話も残っており、北見地方で栽培が広まったひとつの理由に、日露戦争での屯田兵間の情報交換があった。 昭和8年に「北聯薄荷工場(現北見ハッカ記念館)」が創業する以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが、建設され精製されていたことは余り知られていない。 北聯工場が操業開始の頃 網走支庁管内概況/S9年 田中式薄荷蒸留釜 置戸町立郷土資料館蔵 ◆北限のリンゴ、網走地方の苹果栽培 現在は、わずかに観光農園でしか見られない網走管内のリンゴも、かっては道内を代表する一大産地で、農作業は、豊作祈願祭や感謝祭など、地域のコミュニティの場でもありました。北海道のリンゴの始まりは、明治2年に開設された七重村のガルトネル農園(後の七重官園)と云われ、道内最初期の栽培には、元新選組隊士で近藤勇を狙撃したことで有名な阿部隆明が深く関係しています。隆明は維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所詰となり、のちに自らも札幌に果樹園を開いてリンゴの普及に努めました。品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、「北海道果樹協会」の発足では初代理事となりました。 ・網走管内のリンゴ栽培 農業開発が最も遅れた道東北でも、明治7年には根室に官園が設けられて、三県時代の根室県では同18年に「北海道物産共進会」を開催し、七重から苗木を導入して県下の全戸へ奨励している。 網走管内の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を移植したのに始まって同22年にはリンゴも植栽し、この頃は網走郡役所の官吏や周辺者たちが奨励されて試植をしたが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸の範囲であった。しかし、次第に作物としての有用性が認められると、同42年には4万斤・10万円の産額を示すようになる。こうして病害虫の発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展して行った。 網走外三郡農会では、大正9年から網走・野付牛・相内・遠軽・上湧別の5ヶ所に集中指導地を設け、また、昭和8年には、道庁が果樹栽培の奨励地帯を定めて実地指導地を設定、網走管内では上湧別の平野毅が請け負った。 ・呼人のリンゴ 呼人リンゴの発祥は、明治の末、すでに田中牧場の辺りにリンゴ樹があり、その後に植える者も現われて、大正4年には坂野竹次郎が入植して計画的に苗木を植栽した。同6年は早くに植栽していた者たちが苗木の共同購入を行い、こうして同9年には4町5反の呼人リンゴ園が完成した。大正13年には網走果樹栽培実行組合が結成され、呼人に支部が設けられ、昭和5年には坂野果樹園が網走外三郡農会の果樹指導所に指定されて、呼人リンゴが地域の果樹農家の中心となった。 ・上湧別、北限のリンゴ 明治30年に屯田兵が入地したとき、中湧別の先住者・徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これが上湧別のリンゴの濫觴と思われるが、また、土井菊太郎が同27年に入植して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云う。このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、同32年には中隊本部が「倭錦」ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めた。 そして村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化を図り、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになって、気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵村を中心に栽培が広がり、大正後期には上湧別の耕作戸数が全道の約1/4にも及んで、同15年に当地で北海道庁による第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。 この間、大正10年から「湧別名産りんご」のレッテルの使用が始まり、昭和6~9年には道東各所(渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別)でリンゴを駅売りする者も現れた。昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として天皇陛下に品種「祝」を献納し、また、同13年の北海道園芸会主催の第六回園芸作物展覧会では、平野毅が品種「旭」で一等になるなど、本村リンゴの生産は全道で3位に上り最盛期を迎えた。 ・紋別の余市団体 「殖民広報第六十一號/明治44年」では、渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあって、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴの先進地からの再転住者が大量に流入した。 そして土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。 現在の天都山のリンゴ ◆草鹿犀之介氏 昭和2年で、総工費が2万円はかかったというタール黒塗り下見張りの洋館で、いわゆる文化住宅です。洋和室に備えられたペチカなどは、当時の寒冷地対策を良く現していて、1階洋間の変形出窓とそれに連なる屋根は特徴的です。 草鹿犀之介は、明治31年に石川県に生まれる。父は、マルクスを日本国内に始めて紹介した経済学者で、のちに住友家の理事となった草鹿丁卯次郎。実兄は、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの参謀長を務めた草鹿龍之介中将。伯父に判事を経て衆議院議員となった草鹿甲子太郎、従兄に南東方面艦隊司令長官の草鹿任一中将がいる。 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、大正11年に紋別市元紋別に入り、一農民として自ら大規模な農場を経営、昭和7年に当時としては反産運動へと繋がる紋別で最初の産業組合を発足させ、農民の生活の向上に努めた。昭和5年にはフォードソン・トラクターを購入するなど、畜力や機械力を利用した農業の近代化を図り、また、実習生を積極的に受け入れるなど、農業界と地域に大きく貢献した。旧草鹿農場事務所 ◆中浜万次郎と咸臨丸 1841年(天保12年)に出漁して漂流し、捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられた土佐漁師の万次郎は、米国に渡ってジョン・マンを名乗り、そこで西欧の知識を吸収し、世界の潮流を知りました。日本の開国を誓って帰国した万次郎は、武士となり普請役格・軍艦操練所教授方出役、維新後は開成学校教授となり、坂本龍馬や板垣退助、中江兆民、岩崎弥太らに影響を与えたと云われます。万延元年には遣米使節に参加し、勝海舟・福沢諭吉らと供に咸臨丸に乗船して再び太平洋を渡ります。安政4年に捕鯨指導として箱館奉行所に逗留したことがあり、また、函館戦争の将・榎本武揚の英語の教師でもありました。 咸臨丸は、旧幕軍の軍船として函館戦争に参戦し、維新後の明治2年には開拓使附属の御用船となって、青森~函館間の初めての定期航路船として官公物の輸送に当ったが、同4年9月、入殖を目的とした仙台藩片倉家を乗せて台風のために破砕、木古内町のサラキ岬沖に沈没したのであった。 そして紋別市元紋別には万次郎のお孫さんが入殖し、現在もその一族の方がおられる。中浜明は、明治33年に万次郎の長男、医師の中浜東一郎の三男として東京に生まれた。昭和3年に紋別の山中にある中藻別へ入植し、のち同9年に川下の元紋別へ再転住して酪農を始めた。その故人は京大と東大を卒業したインテリで、戦前、戦中の難しい時代に奉安殿建設の寄付を拒否し、軍用機の献納にも反対して、また、赤レンガのサイロにロシア文字と云ういわゆる左寄りで、特高に目を付けられ部落会長を免職されたりもした。 近所には海軍中将の親族がおり、勿論、仲が良いはずも無く、相主張譲らず、互いに張り合ったとか。しかし、中将の親族が反産運動へ繋がる産業組合を結成し、中浜も加入して牛を飼ったというから面白い。戦後はGHQの命令による奉安殿の取り壊しに異議を唱え、国歌「君が代」にも反対し、万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒトである。 ロシア文字で牧場そして中浜とある ◆帆立貝、あれやこれや 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブがあり、北海道の特産品であるホタテ貝も、すでに幕末には乾貝柱として登場し、明治に入って盛んに中国へ輸出されるようになりました。 蝦夷地を北海道と名付けたことで知られる松浦武四郎は、その頃の寿都のアイヌ人の民話として『たくさんの海扇(ほたて)が、フタを帆にしてやって来た』と記しており、箱館奉行所の栗本鋤雲も、『蝦夷の三絶』のひとつとしてホタテの乾貝柱をあげている。 また、あのペリーが箱館に来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それは後の1857年にJohn.C.Jayによって、学名Patinopecten yessoensisと命名されたが、Yessoensisとは「蝦夷」のことで、“蝦夷の櫛柄の皿のような貝”を意味する。 この皿貝ともいうホタテ貝は、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器として使われ、その最初期の漁は、装飾品など、むしろ貝殻の利用を目的としたもので、戦時中の湧別漁協では、軍の命令により食器の代用品として、大量のホタテ貝殻を発送した。 さて、明治20年代にホタテ漁が盛んになったのは、今のような黄金色の「白乾(乾貝柱のこと)」の精製が広がったからで、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。今のような「白乾」の精製は、明治12年頃の試作にはじまり、同21~22年頃から本格的に製造されるようになったが、自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って「白乾」の製造法を浪花節にして歌い、熱心に指導して回ったことから乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品になった。 そうして最初のホタテ漁は後志と噴火湾が盛んであったが、乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点として道内の各地へ出稼ぎするようになり、そこで新たに有望となったのが猿払や紋別などのオホーツク海であり、この初期のホタテ漁の中心は小樽を拠点にした石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、大正の中頃には既に「紋別八尺」が広く道内に知られており、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪のホタテ専用の漁具は、今もある小樽の「一鉄鉄工所」が開発したものである。 後年、昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが網走地方のホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別では現在の基礎となる実証的な試験が繰り返され、こうしてオホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となって行った。 10枚組20銭で売られた蒔絵ホタテ貝皿 室蘭市民俗資料館蔵/明治初期 紋別前浜の改良川崎船/大正絵はがき  ◆ひと群れの里・遠軽家庭学校 同志神学校を卒業した留岡幸助は教会牧師を経て空知集治監の教誨師となります。このとき非行少年の感化事業の必要性を深く感じて渡米留学すると、帰国後は巣鴨監獄の教誨師、のち警察学校の教授となって、明治32年には巣鴨に「少年救護院東京家庭学校」を創設し、後に遠軽と茅ヶ崎にも分校を設けました。 大正3年に設立された遠軽の「社名淵分校」は、大自然での労働を通じて感化を図ろうとするもので、同年に社名淵と同5年には白滝に計約1千町歩の売払地を得て、キリスト教に独自の報徳思想を取り入れた農場として、理想郷の建設を目指した。 その温情と誠意にあふれた農場は、大正9年迄に小作数が社名淵で50戸、白滝が25戸となり、昭和5年には社名淵産業組合が結成されて、同14年に社名淵が同16年には白滝の全小作約80戸500人を開放したが、後も日曜学校や夏季保育園、冬季学校など、常に地域の中心にあった。 ところで幸助の長男の幸男は内務官僚で、東条内閣では警視総監としてゾルゲ事件に対応し、戦後の昭和21年には北海道長官となったが、どさくさの中でたびたび道職員と衝突し、何も出来ずにたった3ヶ月で辞めてしまい、その後は家庭学校の校長のほか社会事業に尽力した。また、次男の清男は北大教授や北星女短の学長を勤めた。 大正8年に建堂の礼拝堂 ◆湧別屯田兵村と日清戦争 北見地方の屯田兵による開拓の始りは、明治30年に設置された湧別兵村です。「武州丸」で来航した第一次の移民者らは途中、暴風雨に遭遇し、また、湧別に到着後も荒天のため艀付けができないまま、ようやく上陸できたのは3日間後の明治30年5月27日でした。 日露戦争の開戦は、この兵村が解体されて間もない、明治37年2月で、かっては対露・北辺の防人であった屯田兵370余名にも、いよいよ同年8月13日に召集がなされた。 旭川第七師団の満州軍に所属した湧別屯田兵は、もっとも激戦であった二〇三高地の攻防に参戦し、戦死者は従軍の約一割の32名にも及んでいる。そしてロシア極東艦隊との制海権を争ったことで名高い旅順港の閉塞作戦では、屯田兵を運んだ「武州丸」や「武揚丸」が爆破沈設された。 終戦後の明治39年3月12日に旭川で解散・復員した屯田兵たちは天北峠と北見峠に分かれて帰路についたが、このとき二〇三高地を生き抜いた帰還兵たちに悲劇が起こった。それは雪深い北見峠を進む彼らを激しいにわか雨が襲い、ぬかるみに進退極まり遭難、1名が帰らぬ人となった。 さて、遠軽家庭学校には、敵将ステッセルから乃木将軍へ送られたと云う伝説のピアノがある。 明治36年3月の湧別兵村解隊式/湧別兵村誌/T10年 ◆紋別、蟹工船のモデル 今から何十年も昔に見られた風物詩に「カニ拾い」があります。流氷が行ったり来たりの早春の頃、毛ガニがうじゃうじゃと砂浜に上がって、1斗ガンガンでひとつ2つと獲れました。かっては林兼(現マルハ・ニチロ)など、当地でもカニ缶製造が盛んでしたが、戦前・戦後の北洋漁業の一翼をなし、重要な輸出品として外貨獲得に大きく貢献したカニ缶詰は、その大分が洋上で加工され、労働環境は極めて苛酷なものであり、それを描いた小林多喜二の小説『蟹工船』は余りにも有名です。 この頃の蟹工船は、制度上は漁船でなく、工場でもないという曖昧なもので規制が難しく、確かにリンチはあったし、衛生管理や栄養の不足、長時間の労働などから死亡、傷病者を多数出したが、当時の日本社会には人権などという考えは無く、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、この蟹工船が特に特異・突出したものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者たちが虐待とも云える労働搾取にあっていた。 小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかと思われがちだが、そのモデルになった『博愛丸』は日露戦争の時に病院船だったことで広く知られており、たまたま、多喜二が住んでいた小樽へ来航したとき、火災を発生させて大きな話題となっていた。そして悪玉の親分とされる人物は、この船上での蟹缶詰の製造ラインを完成させた蟹工船事業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる非人道的な事件の多くは、他の蟹工船であったことがモチーフとされ、事実にもとづきながらも、特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張して作られた“あくまでプロレタリア作品”である。 さて、「蟹工船・博愛丸」の船主として、そのモデルになった人物が紋別にいた。彼は大正8年に、それまで試行が繰り返されていた船内でのカニ缶の製造ラインを完成させ、以後の同業の勃興を生んだ立役者であり、自らも同12年に蟹工船事業に着手したもので、博愛丸事件が起こったのは同15年である。その後、水産局の役人となっていたが、要請を受けて道内でも2番目という、紋別地方で初めての冷蔵庫の建設に尽力、また、当時、盛んであった海外向けの缶詰製造を当地で手掛けるなど、道内各地の水産業に残した業績は大きく、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云えよう。 病院船時代の博愛丸/出典不明(明治切抜?) ◆オタスの杜とゲンダーヌ この「オタスの杜」とはロシア革命後の北樺太からの日本軍の撤兵に伴い、そこにあった先住民の移転を目的として、昭和元年に幌内川の三角州に建設され、主に「ウイルタ人(オロッコ)」と「ニヴフ人(ギリヤーク)」が暮らしていましたが、また、北樺太からの亡命者「トナカイ王」と呼ばれたヤクート人の有力一族がいました。ここ樺太での「教育所」とは、明治42年に先住民の教育を目的とし、当初はアイヌ人のために開設されましたが、昭和8年にはアイヌ人も戸籍が日本人と同様になり、よって以降はその他の民族が対象となりました。「敷香土人教育所(のち敷香教育所)」の開設は同5年9月で、教師の名前は「川村秀弥」と云います。 ・オタスの杜に暮らす この幌内川の三角州にある集落には電気が無く、春はトッカリを獲り、夏と秋はマスとサケ、冬になると猟に出てトナカイやテンを狩った。女たちはトナカイ皮の財布や敷物を作り、集落内の土産店(半澤写真館)で販売しては現金収入を得ていた。家々にはカラフト犬が何匹もいて、冬はソリを引かして運搬に当てていた。イヌは大切な家族であり、子ども達の良い友達でもある。 幌内川では冬にスケートやソリ、穴釣りでキュウリやカンカイを釣る。いつでも学校が地域の中心であり、お盆や小学校の運動会ではお祭りとして「熊祭」や「丸木舟競争」が行われ、お正月には餅をついたり、宝引をしたりした。時折り町へ出かけては活動写真を見たり、カフェへ行ったりもする。昔は唐風の服装をしていたが、この頃の女たちはまるで洋装のようなロシア風で、また、ニクブンの娘の間では日本様が流行り、白いご飯を食べるなど、ずいぶん日本風となっていた。 ここオタスの学校は、校舎の半分が教室で、残りは住宅となっていて、校長先生の一家が暮らしていた。校長先生は厳しいが、その教育は純粋なもので、住民たちから篤い信頼を受けており、奥さんの女先生はやさしく、女の子に裁縫を教えていた。ランプ生活で自分たちの一生をオタスの為に尽くしてくれた。 ・ウイルタ人・ゲンダーヌ この「オタスの杜」へは汽船おたす丸が通い、そこの住民たちは無料で利用した。夏にはそれに乗って観光客が訪れたりもしていた。ゲンダーヌの日本名は北川源太郎と云い、川村先生の推薦で敷香支庁の職員となり、のち、おたす丸の船長をしていたことがある。 ふつう教育所を卒業すると「敷香土人事務所」の斡旋で、漁場や山仕事などの出稼ぎに出るのが一般的で、官公所へ勤めることは異例であって、ゲンダーヌ自身も誇らしく、また、職場の皆も可愛がってくれた。この頃が平穏で一番幸せだったかも知れない。 昭和17年の夏、彼のもとへ「召集令状」が届いた。『日本人になれる』、強く日本人になりたいと望んでいたゲンダーヌは、ひどく興奮した。戸籍がなく、日本人ではない彼らが、徴兵されるはずもないのに。これによって諜報活動に携わったゲンダーヌは、戦後、日本のスパイとしてソビエトに抑留され、約8年間の重い労役が課された。 ・日本へ、北川源太郎として ゲンダーヌは、昭和30年の春に日本へ引き揚げることになった。接岸しようとする引揚船から見る「日の丸」に感激する一方、帰るべきはここではないという思いが募った。本拠を網走に選んだのは、流氷漂うオホーツク海が故郷の風景に似ているから。網走の大曲はまるでオタスの三角州のようだ。網走に来て、日本国籍を取得した。三十有余年にして日本人・北川源太郎となったが、日本国籍を得るに当たってウイルタであることは伏せた。それが後々になって心のオモシとなった。 土木現業所の臨時雇いとして網走管内を転々とした。紋別の上渚滑で知り合った久保さんが『源ちゃん、源ちゃん』と良く面倒を見てくれて、お盆やお正月に遊びに行ったが、ウイルタであることは話していない。その後、遂に土現には本採用となれず、日雇いの苦しい生活が続いた。軍人恩給もとうとう支給されなかった。先住民は日本兵でないとの見解だった。 昭和50年の秋、養父のゴルゴロが「北海道文化財保護功労者」を受賞した。はじめてウイルタ民族の文化が評価されて、うれしかった。そしてオロッコ会館(ジャッカ・ドフニ)の建設計画が持ち上がる。日本人になろうとし、ウイルタであることを隠しつづけてきた源太郎は、ウイルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌとして生きることを決意するのだった。 地域通信員(幹事) 釣山史 ウイルタの集落/樺太郷土寫真帖/S12年 女先生の授業風景/寫眞週報/S17年 右がおたす丸/戦前絵はがき


  

Posted by 釣山 史 at 04:50Comments(0)オホーツクの歴史