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2011年03月09日

川崎船とホタテ船



































































































































 興味深い「貝殻引き」 鳥取県民謡 貝殻節 何の因果で 貝殻こぎなろうたカワイヤノー カワイヤノー 色は黒なる 身はやせるヤサホーエイヤー ホーエヤエーエ ヨイヤサノサッサ ヤンサノエーエ 浜村沖から 貝殻が招く カワイヤノー カワイヤノー 嬶(かか)よ飯炊け 出にゃならぬ ヤサホーエイヤーホーエヤエーエ ヨイヤサノサッサヤンサノエーエ 鳥取県では、貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云う らしい。 昔の帆立貝(イタヤガイ)の漁労を歌った、鳥取県は浜村温泉の“民謡・貝殻節“は、余りにも有名である。あと、古くからのイタヤガイ漁で知られるのが石川県であり、今のような精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、近代的なトロール漁業の先進地でもあり、石川県では古くから「カレイ引き」が行われていて、また、現在のオホーツク海での「ホタテ桁網漁業」の基礎を作ったのは、石川県人だとも云う。 さて、明治に入って、貝引き船を巧みに操った石川県人は、北海道各地に出稼し、特殊な技能集団を形成していたもので、非常に興味深いものがあるが、しかし、ニシン漁労のような、この分野での研究は、余りなされてはいない。 ホタテ漁の漁業集団としての考察 和人から見た蝦夷地の開発は、まずは海産物を中心としたアイヌ人との交換交易によるものだったが、当初は対等であったものが、次第に和人の収奪的、アイヌ人の従属的なものとなり、大商人による場所請負制度が確立すると、昆布漁やサケマス漁などへの労力として使役され、非常に過酷なものとなってしまった。そして、いわゆる「俵もの」と呼ばれた重要な輸出品の多くが蝦夷地より、北前船によって送られたものだった。 江戸時代の後期には、「ニシン漁」が盛んになり、「江差の春は江戸にもない」と歌われて、明治・大正のニシン御殿にも見られるような華やかな文化が花咲いたが、これら内地からの地縁・血縁による出稼ぎ集団は、母村からの文化と風習を道内に呼び込んだ。 いっぽう、ホタテ漁を代表とするオホーツク海の「桁網漁業」は、明治に入って石川県人などの北陸衆たち技能集団によって開発されたが、この分野における研究は余りなされていない。 ◆ホタテ漁業の発祥は? 鳥取県では、貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云うらしい。 昔の帆立貝(イタヤガイ)の漁労を歌った、鳥取県は浜村温泉の“民謡・貝殻節“は、余りにも有名で、毎年8月には「貝殻節祭り」が行われている。 今のように精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、また、若狭湾では、古くから「カレイ引き」が行われていて、イタヤガイ漁も盛んだった。 そして現在のオホーツク海での「ホタテ漁」の基礎を作ったのは、この石川県人等であり、明治に入って川崎船による桁引船を巧みに操った石川県人は、北海道各地に出稼し、特殊な技能集団を形成していたのだった。 出稼ぎするときには、船一艘に男が5人、女は4人くらいが乗り、作業用のニシン釜ほか道具や身の回り品を船に積んで、乾貝柱の煮炊き用の燃料は現地で調達した。 ◆小樽船団の千歳川下りと川崎船 当初の帆立漁の中心は後志であったが、乱獲から明治20年代後半には、早くも小樽を基点として全道に回航するようになった。大正6年のお話として、祝津15艘、高島7艘の船団が日高まで出漁し、「紋別八尺」を使って大漁したと云い、終漁後は、勇払川をさかのぼり、千歳川・石狩川を下って小樽へ帰ったという逸話が残っている。このように余りに小樽衆が巧みに操船するので、猿払などでは、資源の枯渇を心配して入漁を拒否するようになってしまった。船は、小さいので、こぎ手2人に船頭が1人、普通は、こぎ手が4人と船頭1人の5人組だった。 この走行性に優れた「川崎船」を巧みに操った漁業集団を「川崎衆」と云い、それは河口に住み『川の先』で漁を行うからとも云う。その発祥には諸説があり、有力なのは新潟県、あるいは福井県などが考えられる。 道内において明治20年代に広まった「川崎船」は、当時の道庁の記録によると『越前、越後、庄内、津軽の種々があるが大同小異、その中で若干、勝っているのが越前の川崎船である』としており、道庁では同22年に、それら各地の得失を勘案した「改良・川崎船」3隻を建造した。 小樽や釧路などに新潟県人が多いせいか、北海道では、川崎船はオラガ新潟と良く言われるが、明治末期から大正期には、補助を受けた「改良・川崎船」が、たくさん新造されるようになって、全国各地の得失を取り入れた北海道型が多く見られるようになった。 ◆最後に 北海道へ移住した漁民の出身地は、青森、秋田、新潟の順に多い。明治に入ってニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、先にも述べたが、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立つ。しかし、割合は大きくなくても、北陸人が北海道の漁業へ与えたものは大きく、実際、明治中期までは、北陸人の比率が高かった。 また、お気づきのとおり、ホタテ漁業者を共通するひとつの集団と考えるとき、①曳き船の得意な集団、②川崎船団としての集団のふたつの括りが見えて来る。このうち「川崎衆」は、ホタテ漁、小手繰漁、そして蟹工船事業に関係する重要なファクターであっても、その川崎船の発祥自体が未だナゾとされ、これらの関係性の解明が待たれる。 躍進北見 人物と事業/昭和15年から 昭和初年頃の湧別浜? 明治22年の調査 北海道水産予察調査報告/明治25年 明治時代の漁民の入殖者と小樽高島船団の出稼ぎ 小樽ホタテ船団(川崎船)の活躍範囲(明治37年~昭和16年) 新高島町史/昭和61年 北海道移民史/昭和9年
第230回 最初期のホタテ漁        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 08:04Comments(0)北海道の歴史