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2011年02月26日

ホタテ貝殻の利用法/前篇

①ホタテ加工の概歴
 古くからのホタテ(イタヤガイ)漁撈を歌った鳥取県の“貝殻節”は有名で、白乾(乾貝柱)の発祥も鳥取県だと云う。
 明治初期の北海道において、着業が間もない頃のホタテ漁は、食器や装飾品として、むしろ貝殻の利用を目的に漁獲されていたもので、のちに専業的にホタテ漁が盛んとなったのは、今のような白乾の精製が広がったことによる。










 ◆オホーツク名産の乾貝柱
 北海道で別名「白乾」と云われる今のような貝柱のみを精製したホタテの乾貝柱は、明治12年頃には試作されて、同21~22年頃から本格的に製造されたが、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。
 自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って、「白乾」の製造法を熱心に指導して回ったことから、乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品となり、その後の漁獲規制や地まきによる増養殖事業の定着もあって、オホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となった。
 昭和3年に道庁が発行した「北海道の商品」を見ると、白乾百斤の相場は、紋別が130~84円、宗谷は125円~80円、根室が105円~82円であり、その頃から当地の乾貝柱がより上等品であったことが分かる。
 現在の紋別で漁獲されるホタテのうち、乾貝柱用の仕向けは、大よそ7千㌧強である。


◆玉冷(冷凍貝柱)とその他の加工
 加工・流通が未発達な時代は、ほとんどが中国向けの「乾貝柱」であったが、明治29年に小樽で本格的な缶詰製造が始まったと云われ(ただし、明治23年の北海立志図録の広告に室蘭港・竹村糾太郎、帆立鑵詰類、帆立うに漬などが見られる)、紋別でも大正11年から試作が行われたりもしたが(一説に明治37年)、中国では缶詰が嫌われたことから、北米などへの輸出が盛んとなったのは、昭和に入ってからであり、その中心地は根室、つづいて北見地方であった。そして冷凍品も昭和3年の根室の試験に始り、のちに根室と紋別に加工場が建設されて、同じく主に北米へと輸出された。
 昭和40年代には、噴火湾での養殖事業が軌道に乗り、サロマ湖での増養殖が脚光を浴びるようになる。こうしてホタテ生産の急増とともに同代後半にはボイル加工が盛んとなって、同50年代にはオホーツク海での地まき養殖が定着し、玉冷加工が急増した。
 そして昭和53年の噴火湾での貝毒による生鮮出荷の停止を最初に、平成に入るとオホーツク海でも頻発するようになり、ウロを取り除いた「玉冷」は、ますます重要なものとなった。


  第226回 昔からのホタテの利用1        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 18:12Comments(0)北海道の歴史