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2010年07月20日

道南・文化財散歩から1

2010年文化財散歩

 北海道文化財保護協会では、この7月16日から2泊3日の日程で、江差・上国ほかを巡見する文化財散歩を開催し、私は、これを記念して「姥神大神宮」と「戊申の役」を題材とした記念絵葉書を製作して、参加者大凡30名に配布しながら、ちょっとした解説をさせて頂きました。
頼三樹三郎と松浦武四郎の親交
 「日本外史」で有名な頼山陽の三男に生まれた三樹三郎は、父譲りの俊才さと激しい気性を受け継いだ。父の死後、各地の私塾に学び、昌平黌へ入学したが、尊王に傾倒する余りに反抗し、上野寛永寺の葵紋の石燈をなぎ倒して退学となる。
 その後、奥州を経て蝦夷地に遊び、偶々、江差で松浦武四郎と出会うと弘化3年(1846年)の冬至の日に、「一日百印・百詩」の雅会を開いた。
 これは観覧者から出された「題」をもとに、三樹三郎が詩を詠んで紙面に記し、それに武四郎が題名を刻印して、押印するというものであった。
 こうして三樹三郎は江差で越年し、1年余りを逗留すると文人達との交流を深め、翌弘化4年には、文人仲間と江差の佳景八勝を詠み、七言絶句の「江差八勝」として姥神大神宮に奉納掲額した。
 そうして各地を遊歴し、嘉永2年(1849年)に京都へ戻ると積極的に尊王の志士達と交わり、将軍家の継嗣問題では一橋派として激しく幕政を批判した。
 これによって井伊大老による安政の大獄で捕えられ、安政6年(1859年)10月、小塚原の露と消えた。享年35歳。
 この「鴨厓頼先生一日百詩」は、後の元治元年(1864年)に三樹三郎を憶い、武四郎が発刊したもので、これには押印がないが、明治44年に孫の孫太が「百印百詩」として復刊し、それには武四郎の彫った印がある。

                          2010年7月、文化財散歩
                           江差において、釣山 史 


松前藩舘砦奮戦之図 血のクーデターの末に実権を掌握した尊王派の正義隊は、明治元(1868年)年9月に突如として舘村への築城を開始し、翌10月には一応の完成を見て藩主徳広を迎えたが、11月15日には旧幕軍の襲撃を受け、たった1日で落城、徳広は青森へ逃れた。館城(舘砦)は、幕末維新に築城された最後の和様城郭である。



























第193回 文化財巡り2010     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 18:58Comments(0)北海道文化財保護協会