さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2010年06月05日

網走地方の歴史遺産

~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
 もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
 北海道文化財保護協会
 (Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう


 2泊3日/道内文化財散歩
 《上ノ国、江差》の歴史・文化財めぐり
 日程 平成22年7月16(金)~18(日)


~情報交換会(6月5日総会)資料2/2~魅力いっぱい、オホーツク
 第183号  網走、北見、紋別地方の歴史遺産    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
魅力いっぱい、オホーツク余話・・・わたしの興味、調査研究 網走には「刑務所」と「モヨロ貝塚」、北見には「ハッカ記念館」があり、屯田兵や北光社による開拓や白滝の黒曜石などが良く知られる。それでも道南、道中に比べて歴史的な遺産は少ないというのが、この地方のイメージである。しかし、当地にも魅力的なものはたくさんある!!  戦前・戦中の遺物 戦中に網走は空襲を受け、戦後、紋別もGHQの進駐があったが、各地に築かれたトーチカは、網走だけで8カ所が現存し、旧海軍航空隊司令部が今でも美幌駐屯地の庁舎として使用されて、女満別空港には、幾つもの防空壕が残っている。また、管内では、紋別や遠軽ほかに7棟の奉安殿が確認されている。湧別では、戦時に2個の機雷を民間人に引き回させた挙句に暴発、死者106人、負傷者130人という大惨事となり、このときの破片と慰霊碑が残されている。 浜藻琴のトーチカ 渚滑の奉安殿 アイヌ民族の活動 管内には網走、紋別、美幌にアイヌ協会支部があり、網走や紋別では、イチャルパやカムイチップノミが継続して行われていて、毎年、5月第4日曜日の「美幌峠まつり」では、阿寒の人たちによるアイヌ古式舞踊が披露される。そして平成19年には網走に本格的なチセが復元されて、チセノミが執り行われた。 駅逓終焉の地旧幕時代からこの地あった駅逓は漁場による典型的なもので、明治には中央道路が開削されて12カ所の駅逓を開設したが、これらの経営は、この地方特有のものであった。そして網走管内には、駅逓制度が廃止されたときの最後の7駅のうち、2駅があった駅逓終焉の地でもあり、今でも駅舎3棟と施設1カ所が残っている。 全く知られていない西興部の上藻興部駅逓所 留辺蘂の無華駅逓 紋別地方で活躍したユニークな人物たち ・宮崎簡亮~北海道最初の開拓会社・開進社の中心人物。のち湧別・常呂・佐呂間・渚滑へ入殖した土佐団体を指揮し、その後は実業に転じて湧別村長も務めた。・木村嘉長~渚滑村開祖の人。有名な仁木竹吉を補佐して仁木村をつくりあげが、その頃すでに旧開地と呼ばれていた余市・岩内からの網走管内への再転住は多く、有力な者が多い。・松崎隆一~最新の加工技術に精通していた松崎は、紋別地方で最初の冷蔵庫を設計・建設した。彼は、船内でのカニ缶製造のラインを完成させ、以後の同業の勃興を生んだ立役者であり、自らが着業した蟹工船事業では、「博愛丸事件」を引き起こして「小説・蟹工船」のモデルとなった。・中浜 明~昭和初頭に紋別の山中へ入植して、その時代に奉安殿や軍用機の寄付に反対し、赤レンガのサイロにロシア文字を標した中浜さん。万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒト。 遠軽家庭学校の大正8年建設の礼拝堂、初代校長の息子は終戦直後の北海道庁長官。 秘所中の秘所、網走刑務所の敷地内にある大曲洞窟遺跡。 大正に三馬ゴムを使い人気があった大矢ボッコ、置戸町郷土資料館。 明治2年に、ブラキストンがここを訪れ、記録に残した網走ポンモイの柱状節理。  

Posted by 釣山 史 at 08:00Comments(0)オホーツクの歴史