さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

ログインヘルプ


2010年04月19日

紋別市内の奉安殿

戦前・戦中の風景/もんべつの奉安殿
  ~紋別に残る4つの御真影奉安殿


 「奉安殿」とは戦前に、「教育に関する勅語(教育勅語)」や天皇・皇后両陛下の「御真影(肖像写真)」などを保管した施設のことで、一般に『御真影奉安殿』とも云われたように、当初は陛下の肖像写真の奉置(保管)を目的としたもので、奉置所、奉安所、奉安庫などとも呼んだ。
 はじめて御真影(天皇としての正式な肖像写真)が撮影されたのは明治5年のことと云い、最初は官公署に下賜配置されたが、明治15年からは東京師範学校ほかの官立(国立)学校へも下賜されるようになる。そして皇民化を強く目指した森有礼が、初代の文部大臣になると、同20年からは、沖縄県尋常師範学校を皮切りに、地方の学校や私学へも下賜され出す。
 そして明治23年に教育勅語が発布され、勅語謄本が御真影とともに広く全国へ下賜されるようになると、北海道では、同年にはじめて御真影が、松前の松城小学校に下賜されて、北海道庁は翌24年に訓令を発令して奉置について規定し、保管の責任者を学校長とした。続いて明治27年には厳粛・厳重に取り扱うよう、あらためて再訓令されたことから、災害などによる破損、滅失を防ぐため、学校敷地内に別棟としての奉安殿が建造されるようになる。
 明治33年には三大節(新年節、紀元節、天長節と後に明治節を加えた四大節)において、学校長が搬出して生徒の御真影への拝礼と教育勅語の奉読が義務付けられ、戦前は天皇の神格化として皇国日本の教育上のシンボルとされたが、こうして御大礼(即位礼)のあった昭和3年以降、特に戦時色が強まる同10年頃から昭和天皇の御真影が田舎の小規模校にも下賜されるようになり、全国で地域の住民の寄付などによって、特に同15年の「皇紀二千六百年」を記念して数多くの奉安殿が建設された。この御真影には、2つのパターンがあったようだ。
 紋別では、明治25年10月に創立の「紋別小学校」が、他地域に比べても早い、同26年7月に教育勅語を奉戴し、翌27年5月には御真影が下賜された。
 敗戦後には、これらの全てが否定されてしまい、昭和20年12月には緊急通知によって、生徒の御真影への拝礼が廃止され、直後の翌21年の元日には『天皇の人間宣言』がなされて、その1月中に御真影の全てが奉還(返納)されてしまい、主を失った奉安殿は、GHQの司令によって、北海道では昭和21年7月23日に学校敷地から撤去するように通達された(取り壊しではなく撤去であった)。そして教育勅語は、衆参議院の議決を経へ昭和23年6月19日に廃止されたが、後処理は不徹底であったのか、北海道内には開拓記念館ほかに数点が現存している。
 さて、平成21年から本格的に探索を開始した現存する「奉安殿」調査であったが、紋別市内に残るは鴻之舞、和訓辺と宇津々の3カ所と思われていたが、

①渚滑市街の雑木林にある住友林業の書庫と聞いていた古い蔵様のものが、あらたに奉安殿であることが確認された。それは水盤や灯篭の跡から戦後はお社として利用され、内部に残されたものからは、やはり書庫としても活用されていたことが分かった。

②同じく旧渚滑村の宇津々集落に残るものは、学校近くの八幡宮の敷地へ移転されて、今もお社として利用されており、保存状況は非常に良い。

③和訓辺では、学校跡の直近に残っているもので、それでも土壇(台)がないので移設されたと考えるが、総トタン張りは珍しく、集落は消滅して管理者がないまま、雑木林に復してしまい、外表面の傷みは著しいが、内部は意外としっかりしている。

④旧鴻之舞の奉安殿は、昭和初期のコンクリート建築を示すモダンなもので、廃鉱から大よそ40年、道路は付け替えられ、雑木林となって、まったく顧みられないまま、もはや崩壊寸前である。さて、戦後、深刻な食糧不足に陥った鴻之舞では、不敬にも、移転後の奉安殿をヤミ米の保管庫として利用したと云い、頑丈なうえ、畏れおおくも畏くも、保管食料に手を掛けた者はいなかったと云う。


第173回 御真影と奉安殿    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/