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2009年08月14日

北見地方のリンゴ1

北限のリンゴ、北見地方の栽培の始まり
 ~改題・改訂しました


 私の伯母は上湧別の出身で、子どもの頃には寒くなると、よくリンゴを頂いた。今はわずかに観光農園にしか見られない北見地方のリンゴも、昭和40年代前半までは道内を代表する一大産地であった。

◆北見地方のリンゴ栽培
 北見地方の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗を取り寄せたのに始まって、同20年代には盛んにリンゴが奨励されたが、当初の中心はもっぱら網走であり、同43年をピークにブームを迎え、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展して行った。
 網走外三郡農会では、大正9年から網走・野付牛・相内・遠軽・上湧別の5ヶ所に集中指導地を設け、また、昭和8年には、北海道庁が果樹栽培の奨励地帯を定めて実地指導地を設定、網走管内では上湧別の平野毅が請け負った。

天都山の青リンゴ/H21年8月
◆呼人リンゴ
 網走の初期のリンゴ栽培は、台町から潮見にかけてと川向から向陽ケ丘にかけてであったが、後に呼人が盛んとなって現在でも天都山の周辺でリンゴ樹が見られる。
 呼人リンゴの発祥は、明治末年頃には田中牧場の辺りにリンゴ樹が20本位あり、その後に植栽する者も現われて、大正4年には坂野竹次郎が入って計画的に苗木を植え、同6年には早くに植栽していた五十嵐政次郎と外数名が共同して購入し、同9年には4町5反の呼人リンゴ園が完成した。
 大正13年には網走果樹栽培実行組合が結成されが、呼人には支部が設けられ、昭和5年には坂野果樹園が網走外三郡農会の果樹指導所に指定されて、この地方の果樹農家の中心としての呼人リンゴが確立した。

上湧別の早生リンゴ/H21年8月
◆北限の湧別リンゴ
 明治30年に屯田兵が入地したときには中湧別の先住者・徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これが上湧別のリンゴの濫觴と思われるが、また、土井菊太郎が同27年に入植して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云う。
 このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が苗木を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めて、上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、また、同10年からは「湧別名産りんご」のレッテルの使用が始まり、こうして上湧別では屯田兵村を中心に栽培が広がって、大正後期には上湧別の耕作戸数が全道の1/4にも及んで、同15年に当地で北海道庁による第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
 そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として天皇陛下へ献納し、また、同13年の北海道園芸会主催の第六回園芸作物展覧会では、平野毅が品種「旭」を出品して一等となるなど本村リンゴの最盛期を迎えた。


◆新撰組のリンゴ
 さて、この初期のリンゴ栽培には元新撰組隊士が関係する。それは幕末は新撰組に属し、分裂後に近藤勇を狙撃したことで有名な阿部隆明が、維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所へ配属され、明治19年の辞職後に札幌へ果樹園を開いて、苗木の生産と普及に努めたが、品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、北海道果樹協会の発足では中心となり初代理事となった。
 「上湧別村史/大正9年」には『最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して・・・』とあり、寒さに強い「倭錦」はリンゴの初期栽培において重要な品種であった。

 
 第140回 盛んだった網走管内のリンゴ    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 06:56Comments(0)オホーツクの歴史