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2009年07月02日

先進的な紋別の漁業

◆紋別の漁業と水産加工の概要
 戦前紋別の水産加工場
 紋別市は、以前は定置網や沖合底曳、北洋漁業など、大きな資本を要する大型漁業が盛んであって、それに伴い早くから先進的な加工・流通がなされて来た。反面、沿岸漁業は零細な者が多く、仕込みによる商業資本に支配されながら、ホタテやカニなど、繰り返す好不漁に悩まされていた。
 昭和初期に他を先駆けて「漁業者=漁業に従事する者」との漁民運動が起こり、組合員の整理を断行、このことは現在でも「兼業は禁止」として受け継がれている。
 戦前戦後の紋別水産会においては、有力代議士であった松田鉄蔵と最新の加工技術に熟練し、元水産庁の役人でもあった松田隆一の両人が、当地に与えた影響は非常に大きく、また、後のニチロや大洋漁業となる大手資本が早くから進出したことが、今の紋別水産会の基礎を築いたと云える。
 戦後間もなく、全国初の水産モデル地区に指定され、地元水産3組合が合併して組織の強化が図られ、また、重点的に国からの資金と援助を受けると、次々に最新の施設を整備して、昭和30年代前半までには、全国でも稀に見る近代的な水産都市が形成された。
 その後の200海里規制以降の漁業規制の強化は、遠洋・沖合の大型漁業の衰退をもたらし、資源の急激な減少もあって、かっては凡そ40隻はあった大型船が、今ではたった4隻にまで減少、主に加工とされる「スケソウ」などの多獲魚の水揚げが激減し、それは加工業の業態の変化ともなり、今はロシア産の輸入ガニに頼る加工が盛んとなった(3年連続、カニ輸入日本一)。
 不安定であった沿岸漁業は、その後、「ホタテ、さけ・ます」を中心とした増養殖へと転換し、この増養殖が全水揚げの6割強を示すようになって、また、ホタテ漁やさけ定置網の共業化・共同化もあり、漁業経営は安定して来た。
 しかし、近年、慢性的となったホタテ貝毒の発生による生貝の出荷規制や頻発する大型低気圧が原因の漁業災害は、大きな課題であった。
 このことから紋別漁協では平成5年にトンネルフリーザーを導入し、同15年にはさらに増設、ホタテの冷凍加工による消流の促進を図り、また、平成19年から20年にかけては、時化の影響が少ない、さらに沖合へ新たなホタテ漁場を造成した。
 また、この3月には新市場が完成し、消費者が強く望む「食の安心・安全」に応えた衛生と鮮度が高度に管理される「HACCP」対応型により、漁獲物の競争力のアップを図ったところである。
 クジラを牽引しながら引き揚げるマルハ大洋漁船
 いっぽう近年は沖合漁業も非常に不安定で、大型底曳船による漁獲は、主な仕向けが加工場とあって、地場産業に与える影響は大きいが、何よりその老朽船の更新が進まないのが、大きな課題である。
 さてここでは、北海道を代表する一大水産都市となった我らが故郷について、余り知られていない、或いは忘れ去れてしまった紋別水産界の歴史を、年表から読み解くとする。
 ・ホタテ漁はいつから始まったのか?
 ・もんべつマガレイはいつから有名になったのか?
 ・クジラ漁の始まりとその終焉について、
 ・紋別にいた小説「蟹工船」のモデル、
 ・紋別に起こった漁民解放運動、・・・・・・・・・・etc
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◆紋別水産界の歴史
 2009年3月6日改訂























































































































 





第133回 紋別の水産業界の歴史  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 21:26Comments(0)紋別の歴史