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2009年04月16日

鴻之舞金山の発見

◆鴻之舞の真の発見者は?

 住友鴻之舞鉱業所事業案内/昭和10年

 枝幸ウソタンナイとペイチャンに始まったゴールドラッシュは東洋のクロンダイクと呼ばれ、それは紋別八十士の砂金鉱と鴻之舞金山の発見へとつながって行く。



 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル/北海道鐄業誌/大正13年
   

 一般に伝えられるところでは、知識があった今堀喜三郎は上モベツが有望とみて、同士の沖野永蔵に探鉱をゆだね、これが大正3年の六線沢での金鉱の発見となったが、このときは品位が低く操業に至らなかった(のちの三王鉱山)。
 大正4年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金が見られるという話を聞き、友人の羽柴義鎌とで探索を続け、翌5年には地元の地理に詳しい鳴沢弥吉の協力を得て、ついに「元山大露頭」を発見したと云う。


 さて、そもそも沖野へ話をしたのはいったい誰か?

 丸瀬布町史によると、明治27年頃に上川の近文コタンから渡ってきたアイヌ人の「布施イタキレ」は丸瀬布金山や遠軽瀬戸瀬に住したが、探鉱に長じており、金山橋鉱(金湧橋)は彼の発見によるものであった。
 その後、上湧別屯田に世話になっていたとき、ある鉱山師に上モベツの沢で米粒大の砂金が採れると教えたところ、共同でやろうということから案内をしたが、自分を除いた共同経営となり、後に住友へ売山されて、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。


 はてさて、金山の操業までの鉱区の出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か・・・。 


第121回 鴻之舞の本当の発見者    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

Posted by 釣山 史 at 21:20Comments(0)紋別の歴史