さぽろぐ

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2009年02月28日

危険だった北洋漁業

「丸高丸」の遭難
~非常に危険だった昔の北洋操業


 その頃の出漁風景
 戦後に日本の遠洋漁業が解禁されたのは昭和27年で、紋別では同30年、31年には北洋カムチャッカ海域のサケ・マス漁業船団の中継基地となり、また、同じく同30年からは「日米水産」と「極洋捕鯨」のタラ延縄漁船の根拠地ともなった。そして旧ソ連のベーリング海域などでの底曳試験操業が開始されたのが昭和32年である。
 この頃の本道では機関故障ほか、毎年、800件前後の海難事故があり、特に昭和30年代の前半には、当紋別が関係する大型事故が連続した。
 当時、弁天町にあった松田水産所属の『丸高丸・177㌧、17人乗り』は、昭和34年3月6日、午後6時30分頃に「カムチャッカ東側南端で操業を終えて港航中」との連絡の後、続いて同日9時頃、漁場より80マイルほど南下した付近で僚船へ『天気すこぶる晴朗で波静か、順調な航行を続けている』との通信を最後に消息を絶った。
 最初は拿捕あるいは故障による漂流とも考えられたが、その後に遺留品などの手がかりも全くないまま、行方不明から四十九日が経ち、4月26日に松田水産常務の松田祐二氏ほかの関係者が報恩寺へ参集して、小笠原俊英船長、高橋亮一漁労長ほか乗組員の合同慰霊祭がしめやかに執り行われた。
 この前月の2月26日には大洋漁業の「第十七明石丸・73㌧、15人乗り、鍋谷精司船長」がカムチャッカ南端のブレスブ沖で沈没したばかり。
 「丸高丸」は前年に進水したばかりの新造の北洋底曳試験船で、皮肉にも前年の2月28日に同じくカムチャッカ沖で遭難したタラ延縄漁船「第十二大黒丸・132㌧、18人乗り、阿部喜一船長」の最後の無線を受けた僚船であり、また、この昭和34年に当地へ巡視船「そらち」が配備されたのであった。


第114回 危険だった北洋操業    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:57Comments(0)紋別の歴史