さぽろぐ

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2009年01月30日

最奥の駅逓(第8回)

   取扱人命令書/書き換えられた看板
 ◆建築標準「武華」と「上モベツ」
 さて、中央道路の沿線には全く同じ造作の駅舎が見られるが、これは明治28年の取扱規定に「建物ハ第一號書ノ標準ニ依ル但土地ノ状況ニ依リ其設計ヲ伸縮スルコトヲ得」とあるように「駅逓所建築標準」なるものがあった。しかし、これは4室しかなく、次第に往来者が増加して利用者が多くなると、実際には与えられた駅舎を増改築したりして、「上モベツ駅逓所」も後に増築され、 また、近隣にはよく似た形式・意匠の駅逓所が現存する。
  駅逓所建築標準/上モベツ駅逓所の改築後の配置図
 開設当初の「上モベツ駅逓所」は伝統的な入母屋型式に渡廊下で外観は下見板を用い、地元の小間場組が請け負って棟梁は吉村竹次郎だった。道庁から5割の補助を受けて昭和9年に建設された増築部分は、和洋折衷の寄木造りで、その資材は鴻之舞金山から提供されたと云い、これは高地の前住地である生田原の徳田裕弥が請け負い、大正14年に開設された丸瀬布のムリイ駅逓所を模したもので、額縁の上げ下げ窓を用い、また、駅舎全体には北海道特有の半紙ガラスが多用された。
  改築前の当初部分と裏側にある上げ下げ窓
 大正9年に開設された留辺蘂の「武華駅逓所」を建築したのは今井米蔵で、昭和6年の増築のときには宮村正一が請け負ったが、宮村は東京での関東大震災の復興事業の経験から一部に吉原風を取り入れたと云う。これは当時の北海道の洋風建築を良く伝えた駅逓建築を代表するものとされるが、同じく後に増築された「上モベツ駅逓所」に非常に似ており、その関係の今後の考証が待たれる。
                無華駅逓所


 第107回 留辺蘂と上モベツの駅逓所  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 21:55Comments(0)オホーツクの歴史