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2008年09月26日

最奥の駅逓(第4回)

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり4~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第82回)につづき~駅逓取扱人とは

◆黎明期の駅逓
 エ)駅逓取扱人の資格
  七條 驛遞取扱人ハ左ノ各號ニ該當スル者ニ限ル
  一 二十年以上ノ男子ニシテ土地又ハ家屋ヲ有シ及業務上必要ノ設備ヲナスノ資カヲ有スル者
  二 人馬車纘立營業者ノ資格ヲ有スル者
     故意ヲ以テ郵便電信ニ關スル罪ヲ犯シ其刑ニ處セラレタル者又ハ禁錮以上ノ刑二處セラレタル者若ハ家賃分散ノ宣告
   を受ケ債務ノ辧償ヲ終ヘサル者ハ驛遞取扱人タルコトヲ得ス驛遞取扱人ハ其地方在住者ニシテ驛遞取扱人タル資格ヲ有
   スル保證人ヲ立ツルヲ要ス (駅逓所規定/ 明治33年)

 明治33年の規定での駅逓取扱人の資格はこのとおりであるが、多少の改定はあっても以後も概ねこのとおりであった。大正15年に開設した「上モベツ駅逓所」の高地氏によると実際には公職の経験がある者などとあって、取扱人へ与えられた特典は大きく、同駅逓所への出願は28人にもなり、官吏への運動費として一財産を失った者さえあると云われるくらい激しいものであったという。
 これについては明治25年開設の野上駅逓の角谷栄政も「六号駅逓取扱拝命者は笛田茂作、先代政衛とイトコです。紋別地方の有力者で、六号は湧別方面との交差点で人口希薄な当時でも八人も出願者があり、普通の人では見込みがないので、笛田茂作に出願してもらつたとのことです。 中略 駅逓が許可となり笛田茂作代理人として明治二十五年十二月野上に移転して駅逓業務を開始したのです。」とある。この笛田茂作とは明治14年に渡道して湧別村へ入り、のち紋別戸長役場書記、総代人となった人物である。
 また、訓子府では希望者の「岩淵周之助」が戸長だったので取扱人とはなれず、北光社の農場管理人で後に道会議員となった有力者「前田駒次」の名義をもって駅逓所の経営がなされ、このように当時の有望地では、大きな取扱人の利益を求めて、度々、名義の貸し借りが行われたのである。


 現在の野上駅逓跡            明治30年の駅逓/遠軽町史     笛田資料/遠軽町郷土館蔵  
 












第84回上モベツ駅逓所、その4  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:15Comments(0)オホーツクの歴史