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2008年09月18日

最奥の駅逓(第3回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり3~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第80回)につづき~北見道路に見る駅逓の実際

◆黎明期の駅逓
ウ)中央道路に見る駅逓
 網走より上常呂を経て、湧別に至る道上に繁茂せる草木を明二十九年度に於て、春秋二回刈除すること。この間の道路は新設以来人民の往来稀少なるを以て草木繁茂し、ほとんど道路の用を弁ぜず、就中白揚樹はその幹経一寸以上にして、高さ一丈余に達し荷物の駅送困難なるは、勿論馬車の往復は全くこれをなす能わず。故に明春融雪の際に於て、一回の刈除きをなし更に秋季に至り春季刈除きの根株より、生ぜしものを再び伐採するに非らざれば、三十年度移住の際行通運搬を阻害する憂いあり  北見国常呂湧別出張復命書/明治28年(資料3)
 網走上川間道路 概ネ山道ナレモ嶮岨ナラス唯春雨秋涼ノ際泥濘軟膨馬足ヲ沒シテ通行困難ナリ且從來旅人稀少ニシテ驛舎ノ生計容易ナラサルヲ以テ間々舎ヲ空フシテ出稼キニ赴ク等ノ事アリシガ近頃屯田兵屋ノ工事アリ通行スル者増加シ各驛共稍々注意スルニ至レリ  北海道殖民状況報文/明治31年(資料4)
 その頃は(明治26年)まだ中央道路を通行する人馬もなく、アイヌ達が狩猟で得た獲物(鹿・狐・リス)を持ってくるので、これを塩・油・焼酎・米などと交換しその獲物がたまると父は、網走まで搬送してまた物資を仕入れて来ました。中略 駅逓の仕事も相内や湧別原野に屯田が入ってから急に忙しくなり、通行人もふえましたが人馬の継立の仕事は私が受持ちました。  千葉新太郎・三女タケの憶出から(父)新太郎のこと/留辺蘂町開拓小史(資料5)~四号(留辺蘂)駅逓

 札幌から旭川を経て北見・網走へと至る中央道路の本工事は、旭川側(上川道路)が明治23年4月に、網走側(北見道路)では同24年4月から開始され、途中、屯田兵村の設置のために安国から野付牛を経て網走へ至る経路に変更されて同24年12月に完工した。そして翌年からは沿線各所に駅逓が建設されたが、正式な取扱人が定まるまでは、札幌在住の御用商人などの仮名義とし、また、実際の入地までの間は無人駅として利用され、旅行者は携帯した食料を備え付けの鍋釜で炊いて食べた。特徴的なことは、網走から旭川へ向かって1号から12号までの付番で呼称された。
 しかし、ここの通行は険しく、北見地方の人口も極めて希薄で利用者は少なく、道路は次第に退廃して(資料3・4)、明治28年に内務官僚が網走行きを相談したところ、道庁の警察部長が中央道路は通行不可能であり札幌から苫小牧に出て釧路を経るか、小樽から汽船で網走へ至るかを勧めたと云い、当時はこれが普通であって中央道路を通る場合でも多くは野上から湧別を回り海岸沿いに常呂を経由した。明治29年には中央道路が修築され、同34年からはここでの郵便継立が始まったが、各地の道路の開鑿が進み、同37年に名寄-興部間が開通して北海岸(オホーツク沿岸)との接続が容易になると、指定郵便路線はこれに変更されてしまった。
 このように当初の奥地の駅逓は補助はあっても経営はままならず、明治30年に「北海道国有未開地処分法」が公布され、女満別、渚滑原野ほかが開放されて、同年に野付牛と湧別に屯田兵村が置かれてからは徐々に通行者も増えていった(資料5)


  四号(留辺蘂)駅逓/留辺蘂町開拓小史                        五号(佐呂間)駅逓跡

第82回上モベツ駅逓所、その3  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 18:49Comments(0)オホーツクの歴史