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2008年09月13日

最奥の駅逓(第1回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり1~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)

 幕藩時代には会所、運上屋、通行屋、旅宿所と種々に呼ばれて、維新後には会所・運上屋が本陣、通行屋・旅宿所が脇本陣となり、明治5年に旅籠屋並・旅籠屋と称したのちに「駅逓扱所」と改称した。駅逓とは運輸と宿泊を一体化したもので、当初の多くは郵便局を兼ねて通信業務も行った。
 開拓使事業報告/明治18年
◆黎明期の駅逓
 ア)藤野漁場による駅逓の経営
 北海岸沿いの北見国東部四郡(網走管内)において、前時代から開設された駅逓は斜里、網走、紋別の3駅である。根室県時代は新たな駅に起業費を貸与して補助金を支給、それを年賦で返還した。明治21年に3県別々であった制度を「人馬車継立営業規則」に統一して駅逓を廃止したが、同33年に改めて「駅逓所規程」を定めて駅逓所を各地へ配置し、駅間の距離は大よそ7~8里とした。単に「駅」と云ったり、「駅逓所」と呼んだりするのはこのことによる。

 堅柔ノ砂道或ハ丘岡或ハ波打端狭キ道三十二三丁歩シ紋別駅ニ達ス網尻駅ヨリ路程二十二里三分五厘紋別駅ハ方位子丑寅郡中沿海本道大概砂地ニシテ 中略 駅ニ和人寄留四戸旧土人三十七戸駅逓ハ藤野伊兵衛出店ニテ扱官馬十一頭和土人持馬六頭村社嚴嶌神社四間三間一棟寛保年度村山傳兵衛創立旅舎ハ営業ノモノナシ藤野氏ニテ兼業ス一賄常例金八銭相對ハ五銭ヨリ七銭木賃一泊十銭総テ漁業一途ニシテ佗業ノ者ナシ  北地履行記/明治12年

 さて、最奥地の道東北では明治に入っても漁場しかなく、通行者もほとんどがそれに関係する者で、依然として漁場請負人により維持されていたが、さらに明治9年には漁場持が廃止され、それまでの駅舎等の一切が買い上げとなって、補助を受ける官設となっても、この地方での駅逓経営は同じく藤野家の手によるものであった。明治19年の「藤野家旧事録」によると「網走支店/駅逓取扱人仮役 竹中健次郎」、「斜里郡出張店/郵便・駅取扱兼山田梅太郎」、「紋別出張店/駅逓取扱人 阿波徳助」とある。
 旧町史では「當時又十藤野家支配人龍田治三郎が副總代として居た外、驛遞舎番人に士族の阿波德助なる者あり、此の人々が明治十四、五年まで居住して、當時越年した和人の教導者になつてゐたのである」とある。
 島竹駅逓/明治後期の紋別市街
 斜里駅等ニ至リテハ、駅逓馬之内乗用ニ適スル馬頭ハ、多ク藤野支店ニ於テ各所漁場ニ使用シ、官吏通行之際ニ不得止継立ヲ為スモ、人民中ヨリ依頼スル事アルモ、漁業中ハ容易依頼ニ応セス、偶々之レニ応スルモ相対継立ト唱ヘ、定額賃ニ五割ヲ増シ賃金ヲ請求スルノ習慣、自然一般制規之如クニ心得更ニ恐ル処ナシ、故ニ人民中ニシテ人馬使用ハ総而相対人夫ヲ傭シ、駅○人馬傭フルモノナキヲ以テ、官吏通行一途ニ建駅セシ者之如ク、年々各駅ニ於テ収支相償ハサルモ、是等ニ原因スルナラン、元来駅逓取扱ラ藤野支店ニ命スルモ、人物ノ乏シキ不得止ニ依レハ、素ヨリ同店志願ニ非サレハ憤発勉励之志シナキ、而已ナラス取扱ヲ負担スル者ハ皆ナ同店雇人ニシテ、損益自身ニ関スルニ非サレハ、駅馬之如キ他之継立ヲ拒シテ已レノ乗用ニ供スルノ風ナキ能ハス、後略  根室県大塚九等属復命/明治17年

 このころ、斜里などでは駅馬を漁場で私用して繁忙期には旅人の利用を拒否し、あるいは5割増の料金を請求するなど不正があり、郡長から不評を買い、また、根室県の監査で指摘されるに至って、藤野家では明治18年に内部へ向けて「駅逓及旅客扱役」という心得書を発して改善を図った。

           第79回上モベツ駅逓所、その1北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/








 阿波徳助墓碑/紋別墓園
  

Posted by 釣山 史 at 08:19Comments(0)オホーツクの歴史