2008年08月07日
漁業の町、もんべつ
~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り公開中~歴史ブログサイト
《北海道ブログ チャンネル北国tv歴旅・温泉、そしてチョッと釣り》★http://hokkaidonobunka.sapolog.com/
歴旅・ブログ目録:郷土もんべつの漁業とお魚のお話し
○もんべつのお魚と漁業
昭和15年頃の紋別のカニ缶工場
29網走での捕鯨
オホーツクでの近代捕鯨の始まりと紋別での終焉。
41ニシン角網のはじまり
かっては北海道を代表したニシン角網漁の発祥。
58もんべつのホタテ
全国的にも有名な紋別のホタテ漁の歴史。
66こんぶの話し
明治初期、北見地方の昆布漁のお話し。
67課外学習、お魚へったの?
どうして水あげがへったの?漁師さんの数は?
70もんべつのサケ・マス
鮭鱒漁業とその加工のはじまり。
72カニのお上りさん
毛ガニの浜揚げ、否、浜上がり。
73もんべつのカレイ
もんべつマガレイとオヒョウの歴史。
109紋別のカニ(再)
カニ拾いと蟹工船のモデル
111明治・大正の紋別港
注目を浴びた紋別港桟橋問題。
113ブランドまがれいの背景(再)
ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的な背景。
114危険だった北洋漁業
遭難が相次いだ昭和30年代の北洋操業。
133先進的な紋別の漁業
とても先進的だった紋別水産界、漁業と水産加工の歴史。
第-号外
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り公開中~歴史ブログサイト
《北海道ブログ チャンネル北国tv歴旅・温泉、そしてチョッと釣り》★http://hokkaidonobunka.sapolog.com/
歴旅・ブログ目録:郷土もんべつの漁業とお魚のお話し
○もんべつのお魚と漁業
昭和15年頃の紋別のカニ缶工場
29網走での捕鯨
オホーツクでの近代捕鯨の始まりと紋別での終焉。
41ニシン角網のはじまり
かっては北海道を代表したニシン角網漁の発祥。
58もんべつのホタテ
全国的にも有名な紋別のホタテ漁の歴史。
66こんぶの話し
明治初期、北見地方の昆布漁のお話し。
67課外学習、お魚へったの?
どうして水あげがへったの?漁師さんの数は?
70もんべつのサケ・マス
鮭鱒漁業とその加工のはじまり。
72カニのお上りさん
毛ガニの浜揚げ、否、浜上がり。
73もんべつのカレイ
もんべつマガレイとオヒョウの歴史。
109紋別のカニ(再)
カニ拾いと蟹工船のモデル
111明治・大正の紋別港
注目を浴びた紋別港桟橋問題。
113ブランドまがれいの背景(再)
ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的な背景。
114危険だった北洋漁業
遭難が相次いだ昭和30年代の北洋操業。
133先進的な紋別の漁業
とても先進的だった紋別水産界、漁業と水産加工の歴史。
第-号外
2008年08月07日
もんべつのカレイ
紋別のカレイ(校正)
○動力船の導入とカレイ
紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させて、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航し、動力船での漁が急増したが、この時はマガレイが大量に漁獲された。
当初、松田は川氷を使って施氷していたが、大正14年に氷池をはじめ、昭和4年には道内でも数番目という冷蔵庫を建設して、大きいものは道内外に鮮魚として発送し、小さいカレイは蒲鉾にした。また、「焼きガレイ」の加工を目的とし、昭和13年には「紋別加工組合」が発足した。
後にマガレイがオホーツク海を中心として全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わって、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このように古くから大量に「もんべつマガレイ」は流通し、これらによって広く知られるようになったと思われる。
以上のように「紋別マガレイ」は有名となって都市部の消費地では高値で取引されようになったが、実際に紋別ではヒレグロが一番多く漁獲され、平成17年で781㌧と全道の30%を占め、次にアカガレイが246㌧、マガレイ161㌧とつづいて全種・総量で1,462㌧が水揚げされて、これは網走管内の45%にも及ぶ。ヒレグロとアカガレイは冬がおいしく主に底びき網と刺し網で漁獲され、マガレイは春は水っぽく、おいしいのは秋以降で、底建網と刺し網により漁獲される。
マガレイは大きく分けると道北の日本海で産卵し、そのまま成長するものと、オホーツク海へ回遊して成長し、また、日本海へもどる2群があるが、比率の高かったオホーツク海育ちは年々減少傾向にあるようだ。
○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
そして明治41~45年には沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。
第73回もんべつマガレイ(再)
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
○動力船の導入とカレイ
紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させて、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航し、動力船での漁が急増したが、この時はマガレイが大量に漁獲された。
当初、松田は川氷を使って施氷していたが、大正14年に氷池をはじめ、昭和4年には道内でも数番目という冷蔵庫を建設して、大きいものは道内外に鮮魚として発送し、小さいカレイは蒲鉾にした。また、「焼きガレイ」の加工を目的とし、昭和13年には「紋別加工組合」が発足した。
後にマガレイがオホーツク海を中心として全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わって、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このように古くから大量に「もんべつマガレイ」は流通し、これらによって広く知られるようになったと思われる。
以上のように「紋別マガレイ」は有名となって都市部の消費地では高値で取引されようになったが、実際に紋別ではヒレグロが一番多く漁獲され、平成17年で781㌧と全道の30%を占め、次にアカガレイが246㌧、マガレイ161㌧とつづいて全種・総量で1,462㌧が水揚げされて、これは網走管内の45%にも及ぶ。ヒレグロとアカガレイは冬がおいしく主に底びき網と刺し網で漁獲され、マガレイは春は水っぽく、おいしいのは秋以降で、底建網と刺し網により漁獲される。
マガレイは大きく分けると道北の日本海で産卵し、そのまま成長するものと、オホーツク海へ回遊して成長し、また、日本海へもどる2群があるが、比率の高かったオホーツク海育ちは年々減少傾向にあるようだ。
○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
そして明治41~45年には沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。
第73回もんべつマガレイ(再)
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/