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2008年06月27日

渚滑村の開拓1

渚滑原野のあけぼの

 紋別郡渚滑村勢一斑/抜粋
 北海道開道五十年記念寫眞帖/大正7年

 第 二  沿  革
 前略 本村開拓の嚆矢は明治二十六年徳島縣人木村嘉長の單獨移住と新潟縣人堀川泰洋の一族四戸の現在の三線附近の移住とし翌二十七年九月高知縣人岩田宗晴の同所に移住小規模の製軸工場を開き越えて明治二十九年同氏の勸誘に依り徳島縣より二十二戸の團體移民の九線附近に入地するありてよく漸く農村を形勢せり明治参拾年五月高知縣人宮崎寛愛同縣より移民百八十戸を斜里村に移住せしむる目的にて紋別港に寄る時恰も渚滑原野區劃設定中にあり岩田宗晴の斡旋に依り目的地を本村に變更し今の中渚滑原野(十三線二十四線間)に入地開墾に従はしむ次で豊村品藏飯田嘉吉の一團十餘戸後志國余市方面より渡邊兵藏宇野作治郎の石狩國夕張方面より上渚滑原野(二十七線三十七線間)に移轉するありて開拓遽かに進めり明治三十一年秋渚滑川氾濫し人畜の死傷ありて被害多大なりければ一時移民の心膽を寒からしめ拓殖に一大支障を來すの憂を生じたるも翌々三十四年以後豊作相續き先住者の縁故に依る單獨移民續々増加し明治三十九年四百五十戸を算するに至り北海道二級町村制を布かる。略。
 第十一 牧  畜 
 本村の牧畜は農家が農業の傍ら副業として馬匹を飼育するを其主なるものとす往年豊村品藏専業に牧場を經營し牛馬約二百頭を飼養せるも當時肉類安價の時代にて遂に失敗に歸せり本村の馬は開拓の始め農耕用として土産馬數湧別方面より牽入たるに始まり 中略 畜牛は農家の副業として最も有利なる事業なるも其體軀動作は人の多く望まざる所以か當局の奬励する割合に發達せず 略。
 第十二 農  業
 本村の農業は明治二十七年に起り爾來二十五年地味気候共絶好の農業地たれば其進歩速やかにして網走支廰管内有數の農村を形成するに至れり開墾後二十五年を經たる今尚無肥料にて充分の収穫を得つ〵あり 略。
 附記 本村の主作物は未だ一定せず時價の變動に依り半歳異動を來す近時時局の影響に依り麥類著しく減少し菜豆、菀豆、馬鈴薯は殆と大半を占むるに至れり。


1.開拓初期のころ
 旧渚滑村への入殖のはじめは明治26年と云われ、同30年に渚滑原野が開放されてから本格的に開拓されることとなった。明治中期以降の北海道開拓は明治19年に北海道庁が置かれて「殖民地選定事業」が開始され、同23年から「殖民地区画」が始まると開発は暫時進み、同25年「団体移住規約」、同30年「北海道移住民規則」が制定されて団体入殖が明確に優遇されてからは、北海道への移住ブームを迎えることとなった。
 これについては明治27年から31年にかけてがひとつのピークで同30年には約6万4千人の移住者があり、この頃に既に「旧開地」と云われていた渡島・後志と石狩などの先進地が次第に飽和状態となり、また、先住者のさらなる発展を求めた再転住もあって、最奥地の北見地方にも入殖者が入るようになった。
 当時の状況については明治31年発行の「北海道殖民状況報文北見國」に詳しく、旧渚滑村の沿革を『渚滑ニハ舊來[アイヌ]ノ部落アリ明治廿七年以來原野ニ土地ヲ出願シテ農業ヲナス者相續キ又燐寸軸木製造所ヲ設ケ今後開拓ノ業大ニ興ラントス』とあり、さらに『新潟縣人 明治廿七年越後國中頸城郡ノ産堀川泰洋等十四名各々三万坪ノ貸下ヲ得テ開墾ヲナシ自作小作相交ハル二三ノ有力者アリ 徳島縣人 明治廿九年製軸所主岩田宗晴三十一万二千五百坪ノ貸下ヲ得テ徳島縣ヨリ小作二十一戸ヲ募集シ來ル當年ハ製軸所ニ勞役スレモ同三十年ヨリハ小作農業ヲナス筈ナリ』と紹介している。
 また、大正2年発行の「北見發達史」では開拓初期の旧渚滑村について『明治廿六年七月徳島縣人木村嘉長移住せるを始め廿七年岩田宗晴移住し製軸工塲を設く廿八年「ウブナイ」に新潟縣人堀川泰洋二十餘戸を率ひて移住してより 中略 三十年徳島縣人豊村品藏、飯田嘉吉等團体を率ひて移住し奮鬪成功を爲し 中略 大正二年に入れは二千戸以上の戸數に達すべしと云ふ而して帝國製麻は工塲を設置する爲め農家一戸に付き各五反歩宛亞麻の栽培を勤めつ〃あり殊に鐵道院の見込なりと云ふを聞く』と紹介している。


渚滑原野の開祖、木村嘉長の開墾小屋/明治
○主な原野の区画測設年(大正5年網走支庁拓殖概観より抜粋)
  明治30年  渚滑、上渚滑
  明示36年  タツウシ 
  明治40年  オシラネップ、滝ノ上、サクルー
  明治42年  渚滑字ウツツ(増)、上渚滑字オアフンペ(増)
  明治44年  オムサロ
○渚滑村の戸口
  明治28年     50戸            135人(北海道殖民状況報文)
  明治32年    345戸          1,641人(網走港)
  明治34年    328戸          1,345人(殖民公報)
  明治39年    450戸(村勢一斑) 2,300余人(北見発達史)
  明治44年    908戸          4,556人(北見繁栄要覧)
  大正 4年  1,649戸          7,629人(北見要覧)


渚滑原野の開拓風景/大正


第61回渚滑の開墾
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 21:10Comments(0)紋別の歴史