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2008年06月18日

道東のハリスト教会

~ハリストス正教会と千島の先住民族

 去る6月8日に信者ではありませんが後学のため、中標津町の上武佐教会での「諸聖神父の主日・聖体礼儀」と「全永眠者のためのパニヒダ」に参加させて頂いた。

英人スノー著千島列島編譚/明治18年
 略 北方土人ハ樺太[アイヌ]ト等シキ彼等ノ用語ノ外ニ露語ヲモ多少自由ニ話セリ彼等ノ信奉スル宗教ハ基督教ニシテ希臘教會ニ屬セリ露國ノ僧侶ハ時々彼等ヲ來訪セリ而シテ占守島ノマイルツポ村ニ於テハ亜米利加ヨリ持來リシ松板ヲ以テ建築シタル一寺院アリ 中略 色丹ニ於ケル千島土人ハ千八百九十一年(明治二十四年)十月ニ總テ單ニ五十九人ナリキ此時日本ヨリハ彼等ノ爲メ露國宣教師ヲ送レリ 

 釧路ハリストス正教会堂
◆千島の先住民族と正教会
 千島アイヌ(クリルアイヌ)は、ウルップ島から占守島までのアイヌ人を指し、18世紀の中頃には占守島とホロムシル島に256人が居住していたと云うが、明治8年の「樺太千島交換条約」では北千島がロシア領から日本領となり、同17年に色丹島へ強制移住させられたときには97人へと激減していた。
 いっぽう、ウルップ島、シムシル島のアリュート人はロシア領へ引き揚げたが(千島アイヌの一部も)、占守島のクリル人は同じく色丹島へ移住させられた。
 これら日本へ移住した千島の先住民達は多くは風習・風俗がロシア化してロシア人と変わりなく、千島在住のときはロシア正教会の信者となっていた。  
 こうして正教会は明治の初めに根室を中心として道東、北方四島に伝教され、明治29年には色丹島の聖三者教会が成聖され、クリル人首長のヤコウ・ストロゾフが教会を建立したが、同31年に根室と色丹を「ニコライ主教」が巡回し、同35年には釧路ハリストス正教会の会堂が建設されて、拠点は根室から釧路へと移った。
◆上武佐ハリストス正教会
 伊藤繁喜は和田屯田へ入植し、明治30年には洗礼を受けて標津教会を設立、のち大正5年に上武佐駅逓の取扱人となって、そこで布教を開始し、同8年に会堂を建立した。
 山下りんは茨城の武家に生まれ、一時、江戸の浮世絵師に学んで、のち工部美術学校に入学、そこで正教会に改宗した。明治13年の24才のときに中退し、ロシアのペテルスブルグに渡って修道院で絵画を学び、帰国後は東京神田の日本正教会の女子神学校でイコン画の制作を始めた。                       
 上武佐の教会には山下リん作の12大祭イコンがあり、また、聖三者教会にあったイコンの一部が受け継がれた北方領土に関係深い教会である。






 斜里の教会





第59回千島民族とキリスト教会

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:21Comments(0)樺太・千島の歴史