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2008年03月01日

日ロ戦争と屯田兵

~日露戦争と湧別屯田兵

 北見地方の屯田兵による開拓の始まりは、明治30年に設置された湧別兵村である。「武州丸」で来航した第一次の移民者らは途中、暴風雨に遭遇し、また、湧別に到着後も荒天のため艀付けができないまま、ようやく上陸できたのは3日間後の明治30年5月27日であった。
 日露戦争の開戦は、この兵村が解体されて間もない、明治37年2月で、かっては対露・北辺の防人であった屯田兵370余名にも、いよいよ同8月4日に召集がなされた。旭川第七師団の満州軍に属した湧別屯田兵は、もっとも激戦であった二〇三高地の攻防に参戦し、戦死者は従軍の約一割の32名にも及んでいる。
 そしてロシア極東艦隊との制海権を争った名高い旅順港の閉塞作戦で、爆破沈設された5隻のひとつは、屯田兵を運んだ「武州丸」であった。    屯田兵資料(河野蔵印がある)
 明治39年3月、旭川で除隊した屯田兵たちは天北峠と北見峠に分かれて帰路についたが、その二〇三高地を生き抜いた帰還兵に悲劇が起こった。雪深い北見峠を進む彼らをにわか雨が襲い、ぬかるみに進退極まった1名が遭難、帰らぬ人となった。
 さて、終戦の後に敵将ステッセルから乃木将軍へ送られたと云う伝説のピアノが遠軽家庭学校に残っている。
 第26回日露戦争のお話し 
              
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/     

Posted by 釣山 史 at 07:10Comments(0)郷土の語り