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文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2010年11月07日

網走刑務所の矯正展

ムショ看板の盗難

 11月3日は、明治天皇の生誕日であり、天長節と呼ばれて、没後は明治節、戦後は「文化の日」となった。
 さて、毎年同日の「網走刑務所・矯正展」では、所内見学や刑務作業製品の展示・販売、野菜市やリサイクル市、飲食露店など、たくさんの来観者でいっぱいとなる。
 私も7~8回は行っているのだが、今回、興味深いことに気がついたので紹介する。
 それは、何んと!網走刑務所の大看板が2度も盗難にあっていたと云い、大胆不敵!! 昭和40年に高倉健が主演の『東映・網走番外地』が大ヒットし、以後、18作のシリーズ化となったことが影響しているのだろう。大門に解説板が掲げられているので、訪れた際には、ご覧になって欲しい。

 ・戦前からの看板が昭和44年8月に盗まれる。
 ・その後の看板が同53年10月に、またもや盗難。




































第216回 網走刑務所での盗難      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 16:57Comments(0)トピック

2010年10月12日

産業考古学会全国(江別)大会1

紋別の遺産を全国に売込み この10月9日から12日まで、江別市の酪農学園大学において産業考古学会全国大会が開催され、当地の産業遺産である鴻之舞金山を紹介した。北海道文化財保護協会地域通信員で同学会員である私・釣山が、道内での全国的な大会を好機と、手作りの資料やオホーツク圏観光連盟のパンフレットなどを展示、配布したもので、参加した研究者らは『鴻之舞の石』に興味津々、また、くろさわ菓子舗の『銘菓・鴻之舞金山』が無料で振舞われた。学会では長引く景気の低迷から地方の公共団体は疲弊し、民力も著しく低下、産業遺産の保存活動は、ますます難しくなっており、曲がり角にある。新たな法の整備や活動の展開、若手の活動家の参加と育成の必要性などを討議した。会場では、金山跡の写真集や上藻別駅逓保存会の活動が紹介でき、また、初代ガリンコ号の保存までの経過をお話した。北海道産業考古学会の山田大隆会長は、駅逓保存会の皆さんの活動を高く評価されていて、これを機会に当地の全国へ向けたPRの弾みにしたい。



















































第210回 鴻之舞金山跡を全国へPR      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:53Comments(0)トピック

2010年08月15日

稚内みなと南極まつり

南極観測樺太犬の顕彰と供養

この8月7日に第50回稚内みなと南極まつりに行って来ました。
 稚内市は南極観測で活躍した樺太犬タロとジロの故郷で、その観測に使われた初代観測船の船名も「宗谷」という、南極観測にゆかりある地だ。昭和36年の商工祭としてスタートした「稚内みなとまつり」と、翌年からの「稚内南極まつり」を合体して、今の「みなと南極まつり」となった。また、邦画「南極物語」のロケ地でもある。


南極観測樺太犬記念碑     樺太犬慰霊塔   南極樺太犬慰霊祭  

◆稚内・みなと南極まつり
 ・南極樺太犬慰霊祭
 ・南極樺太犬を偲ぶ子どもの国フェスティバル


◆タロとジロ
 昭和31年11月に南極観測船「宗谷」で出発した第一次隊に参加し、悪天候のために南極の昭和基地に置き去りとなったカラフト犬「タロとジロ」の生存が確認されたのは同34年1月、日本中に大きな感動を与えた。タロの遺体は北大にジロは国立科学博物館に保存され、また、東京タワーには「南極観測で働いたカラフト犬の記念像」がある。
◆初代・南極観測船「宗谷」
 戦中は軍用船、終戦時は引揚船に使用されて海上保安庁の灯台補給船となる。昭和31年から36年まで南極観測従事したのちに北海道へ戻り、海上保安庁の巡視船として同53年に現役を引退。

昭和30年  11月、南極地域の観測を実施する旨の閣議決定がなされる。
昭和31年  3月、稚内公園に訓練所を設置し、犬ぞり訓練が始まる。
昭和31年  11月、第1次南極観測隊が東京を出発。
昭和33年  2月、越冬隊の撤収中に天候が急変、犬たちを置き去り。
昭和33年  7月、大阪に樺太犬慰霊像を建立し隊員らによる供養祭を行う。
昭和34年  1月、樺太犬タロ・ジロの生存が確認。
昭和34年  東京タワーに「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」を設置。
昭和35年  南極観測樺太犬記念碑を建立。
昭和36年  樺太犬慰霊塔を建立。
昭和53年  巡視船(南極観測船)「宗谷」が引退。
昭和57年  「南極物語」の稚内ロケ。
昭和58年  「南極物語」が封切り。


 紋別にもいた南極犬クマ
         当時の北海道新聞




第198回 第一次隊南極観測で活躍した樺太犬の顕彰と供養      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 10:05Comments(0)トピック

2010年08月10日

不思議な写真

心霊写真か、偶然か?
 これは、この8月7日に探検した稚内の旧海軍送信所兵舎で撮影した写真である。
 操作ミスによる2重露出ではないかとも考えたが、廃屋の長い廊下に
窓は無く、これといった光源もない。
 別の写真に遠く2つの点が写っており、最初は隙間
からの射光かとも思ったが、
 球体が、こちらに急接近して来た感はいがめない。
不気味でもあり、ちょっと怖い写真。


旧海軍稚内派遣隊幕別送信所跡


























第 - 回  心霊写真か・・・?

  

Posted by 釣山 史 at 12:55Comments(0)トピック

2010年06月30日

お船の骸骨

厚岸の造船所
 この5月の連休に厚岸へカキを食べに行きました。
 さて、その途中、厚岸大橋のたもとに今は珍しくなったの木造の未成船がありました。


 ㈲坂井造船所にある船の骸骨


































第189回 木造船の骸骨    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:46Comments(0)トピック

2010年06月01日

カニの日・紋別

6月22日は『カニの日』 オホーツク三大ガニのまち・紋別 6月22日は「カニ座の初日」で、五十音順ではカは6番目、ニが22番目だからだそうです。さて、紋別では流氷が去り、毛ガニとタラバガニ漁が始ると春の訪れです。そして当地は、ズワイガニを中心としたカニの輸入が、4年連続の日本一でもある『カニのまち』です。
紋別漁協は、毛ガニに『北海道・オホーツク紋別』のタグを取り付けて品質を保障し、洞爺湖サミットではディナーにも使用されて話題になりました。

号外 オホーツク三大ガニのまち・紋別  

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2010年04月26日

紋別・市民植樹祭

森から海へ、海から森へ、
育てよう北海道の豊かな森と海

 豊かな森から始まる川の水系では、たくさんのサケなどが遡上して産卵します。遡上して、その役割を終えたサケの死骸は、他の生き物のエサとなり、河畔林の栄養分となります。そして豊かな森林が生んだ落葉が多い河川の河口域では、カレイなどが良く育ちます。
 森に始まる川と海の自然の連鎖は、豊かな漁業資源を生み出すのです。
 1987年に北海道漁協女性部連絡協議会に始まった「おさかな殖やす全道一斉「植樹」活動」は、現在、北海道「食の環境を守る協働の森林づくり促進事業」へと発展して、この紋別市の「オホーツク魚の市民植樹祭」も今年で、第15回となります。
 皆さんもお子さんの出産やご入学、ご結婚の記念に植樹してみませんか?


 ・参加資格    一般の自由参加
 ・と    き    平成22年5月9日(日)10時集合
 ・と こ ろ    大山スキー場ヒュッテ駐車場に集合
 ・植樹会場    大山市民の森(旧水源地の上方)


 ※「カニ汁」や「ホタテ貝焼」が無料!、ハギレ材の配布も 
 ※焼き台(燃料付)を用意していますので、お仲間、ご家族でのバーベキューもOK。!!

 
 -号 外-






  

Posted by 釣山 史 at 10:20Comments(0)トピック

2010年03月05日

マガレイのお値段

§もんべつマガレイの価格
 ~実際に「もんべつマガレイ」は高値なのか?
 …消費、価格が下落を続ける「お魚」をマガレイを通して解説する。

 よく紋別産のマガレイは高値で取り引きされる(?)と云われますが、私もずいぶん昔ですけれども、札幌の大手スーパーのお魚屋さんで働いたことがあり、確かに「もんべつマガレイ」として売っていました。ここでは消費地・札幌市の中央卸売市場での価格を、網走管内産とその外とで比較してみます。
 それが表1となりますが、実際、網走管内産が高値を示しており、流通コスト外は勿論ありますが、それはコスト高であっても「売れる」ということです。
 表2と表3は、地元の産地市場を管内で比較したものですが、直近の表3の場合は、近隣に比べて紋別市場が高値にあります。しかし、さらに5年間を遡ってみますと表2ですが、価格は逆に下回っていて、これらから漁業種や季節などの条件を勘案しないときに、いちがいには地元では、反映されていないことが分かりますが、また、このことから平成15年に何らかの価格付けの変化があったことが考察されます。しかし、総じてマガレイの単価は明らかな下落傾向にあり、伝統的な「マガレイ漁」を維持して行くためには、価値(価格)アップのための何らかの施策が必要です。

―では、なぜ、価格が低下しているのでしょうか?

 図1-アを見て頂くと国内消費仕向量が、平成13年をピークに下降に転じており、図1-ウでは、平成18年には、お魚とお肉の摂取量が逆転してしまいました。この10年間で、お魚の摂取量が15%も減ったのです。そして図1-イはさらにショッキングなデータでして、現在の30代の主婦の約7割は魚を捌かない、つまり「お頭つき尾つきの魚」は買わないという状況にあるのです。
 そのうえ、現在のスーパーなど大型店の画一的で限られたお魚の販売方法が影響し(安定的に供給を受け、安定して売れる)、店頭でのお刺身やお総菜に馴染まない(馴染んでいない)、カレイなどは、なおのこと消流が難しいものとなってしまいます。札幌市場でのデータを見ると、図2-ウですが、平成13年以降の仕向けで、鮮魚の単価だけが下落しており、表4ではマガレイのみが大きく下降しています。
 しかし、図3-アと図3-イ、図4-アを見ますと本当は日本人が「お魚好き」であることが分かり、はてさて、この意識と実際の購買行動とのギャップに、消費向上のヒントがあると考えますが、図4-イでは、マガレイが他のカレイに比べても既にブランド力を失っていることを示し、これは家庭の調理だけではなく、流通においても取り扱いのしやすい他のカレイが好まれているからとも思われます。
 最後に近々のデフレによる「消耗戦」の具体例を以下、月刊「水産北海道」のホームペイジのコラムから引用し、終りのご挨拶に換えさせて頂きます。


 コープさっぽろの惣菜売場は、もはや「百円均一」ではなく、「50円均一」である。一本あるいは一個50円の串ものや揚げ物で溢れている。同時に、その商品政策(マーチャンダイジング)は食品売場全体にも浸透しており、魚売場では一尾30円台の解凍サンマが並び、冬から春に豊漁で良く売れたハタハタなどは、100グラム40円以下で売ったという。鮮魚担当者も驚くほど「相場が崩れている」。
 前浜の鮮魚にしても、ホッケが一尾100円、マガレイが100グラム50円と価値観を失うような安さだ。
  中 略
 コープさっぽろの水産部担当者によると、水産物供給は、数量が前年同期を上回っているが、金額は伸び悩んでいる。「単価が安く金額が低い」「安いから売れている」といった状況だ。ライバル店のアークスグループ(ラルズ)との熾烈な価格競争が低価格化に拍車をかけている。


-主な参考資料-
 平成20年度水産白書
 平成20年度北海道消費生活モニター価格動向調査
 NHK放送文化研究所世論調査部「日本人の好きなもの」2008年
 札幌市中央卸売市場統計
 北海道水産現勢 
 月刊 水産北海道 ほか

                   第169回 鮮魚の消費低迷    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
資料・図以下、













































































































































































































































  

Posted by 釣山 史 at 08:45Comments(0)トピック

2010年02月13日

歴旅・温泉です。

「歴旅・温泉、そしてチョッと釣り」を調べてみました。

 皆様、ありがとうございます。
 最近、ちょっと手抜き気味も、このブログの開設2年をして、アクセス数が4万件を超えました。
 基本的には北海道を中心とした「歴史ブログ」であり、その認知度、アクセス傾向を調べてみると次のとおりで、
  歴史好きの面々、同様のブログを開設の方は参考にして下さい。
  手前ミソですが、このブログも結構、知られてきました。もっともっと、「歴史と文化」に触れて頂きたいと思う、今日、この頃です。

北海道文化財保護協会・網走地域通信員  釣 山  史(ハンドルメーム)






北海道の歴史 オホーツクの歴史 網走管内の歴史 紋別の歴史 北海道開進社 北海孤児院 オタスの杜 本庄陸男 松崎隆一 鴻之舞 上武佐ハリスト教会 遠軽家庭学校 奉安殿 駅逓所 石川倉次 ストーブの始まり スケートの始まり 学芸員力 司書力 北海道の博物館


第 - 回 歴旅・温泉をよろしく    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 22:17Comments(0)トピック

2010年01月16日

北方圏国際シンポ・ふるさとの海

第25回北方圏国際シンポジウム「ふるさとの海」 


 紋別市は、ガリンコ号やオホーツクタワーでも知られる、自然豊かな水産都市。
 そこで毎年2月に開催される「北方圏国際シンポジウム」は、流氷の南限域という特性を活かした「地球温暖化」などの環境問題や「北方民族の歴史」、「オホーツクの水産」などの専門的な研究発表のほか、この公開講座 「ふるさとの海」は、一般の方でも気軽に参加できる地域密着のプログラムです。
 今回は科学的な研究だけではなく、趣向を変えて『江戸期のアイヌ人のオヒョウ漁から戦前にかけての沖合い漁業』の歴史話しを私が解説するので、皆さんのお越しをお待ちしています。
 また、期間中「カレイを中心としたお魚と戦前の紋別浜の写真展」(2/21から25まで)を開催し、当日(2/24)は『昔の紋別浜の写真集』を配布します。


 









































































  
※お問い合わせは、紋別市水産課 ℡0158-24-2111(259)まで、

第 ー 回 紋別市のシンポジウム    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 09:17Comments(0)トピック

2009年12月07日

紋別はイカが大漁です

もんべつではイカが大漁です!!

2009年12月3日の紋別港
 スルメイカとも呼ばれる「マイカ」は、余り大きくはなく寸胴で、太くて長い足があり、いっぽう、「ヤリイカ」は、40㌢を超える大きなものもあってスリムなボデイだが、足が短く、コリコリした歯ごたえから刺身用に人気がある。
 イカ漁としては後発組のオホーツク海域も、今では冬の足音とともに短足のイカがたくさん獲れ出し、そうしてだんだんと終漁が近づくと云われる冬迎の風物詩となった。
 さて、一杯のつまみに欠かせないイカ珍味だが、スルメ一辺倒から珍味加工が現れたのが、昭和30年頃の函館の「イカくんせい」である。そして現在では当たり前となった「さきイカ」の起源も意外と新しく、同時期にスルメを原料として関西地方で始められ、同36~37年頃からは函館でも盛んにつくられるようになった。
 そう云えば、わたくしが子どもの頃(昭和40年代前半)、手内職としてのイカ裂きアルバイトを母がしていて、よく摘み食いをしたもんだ。



大漁のイカ・イカ・そしてイガ~



















第163回 漁火に大漁のイカ     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年11月20日

もんべつ海産まつり

オホーツクの味、てんこ盛り
第30回もんべつ海産まつり
2009年 12/5()~6()

~30周年お客さま大感謝祭-お歳暮、お正月用に!!

おいしいホタテ、うまいカニ、サケとイクラとカマボコ、珍味ほか、オホーツクの幸、いろいろ!
…地方発送、受けたまわります!!…



































 第 ー 回 オホーツクの幸、うまいもの、「もんべつ海産まつり」     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2009年10月27日

民主の脱ダム

脱ダムに揺れるアイヌの里

 民主党政権の掲げる脱コンクリート行政、脱ダムのひとつに上がっている「平取ダム」は、鳩山首相の御膝元、北海道の日高地方にある。この平取町は、現在でもアイヌ民族の人たちが多く暮らす町であり、アイヌ民族として初めての国会議員・萱野茂氏を輩出したことで知られ、折しも昨年、「アイヌ民族は先住民族」と国が認めて、民族としての復権運動が高まっているなか、アイヌの人たちの故郷は、この先一体、どうなるのだろう。
 それは同じ流域に既にある「二風谷ダム」の建設の際、裁判所が国の機関としてはアイヌの人たちを初めて先住民族と認めて、強制収容の取消しには至らなかったが、アイヌ民族としての聖地を無視し、文化を軽視したことが「土地収用法第20条3号の裁量権を逸脱している」として、一部違法との判決が下った、いわゆる「二風谷ダム建設差し止め訴訟」が起こった地である。

 しかし、近年に頻発した日高地方の大洪水による被害は甚大で、「必要なものなら仕方がない」と、平成19年にはアイヌの人たちが自身の文化や遺跡の保護を条件に、ダム事業の本格工事を認めたばかりだった。

 それにしても、賛成派の現町長の氏名が『川上 満』氏とは、いやはや何んともなんとも・・・・。


以下の写真は「平取ダム」とは関係のない、イメージ写真です。











 第155回 政権交代にゆれる町     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 19:50Comments(0)トピック

2009年10月16日

泳ぐ鹿くん

迷いシカを救助! 紋別定置部会

 この10月16日の早朝、サケの水揚げでにぎわう紋別港内で、漁業関係者が泳いでいる「シカ」を発見し、市と消防に通報した。
 そして、近くで荷揚げをしていた「紋別漁協サケ・マス定置網部会」の皆さんが船外機を廻して出動、4㌧ユニック車とモッコ網を使ってシカを救助した。
 冷たい海温に体温が下がり、泳ぎ疲れて息も絶え絶えだったシカ君は、その後、獣医師の手当てを受けて元気を回復、無事に近くの山へ放たれた。



ああ・・・シカが!!


















定置部会、出動!!


















ほっとしたシカ君


第153回泳ぐシカ君   北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:20Comments(0)トピック

2009年07月12日

火の玉を撮影?

歴史的建造物に火の玉(オーブ)現る!!?


 オーブとは、肉眼では見えない発光体が写真に写り込むことを云い、心霊現象の一例で人間の魂・玉響(たまゆら)とも云われる。
 これは7月11日午前10時すぎ、旭川市のある歴史的建造物の内部を撮影したもの。実は小生は霊感の持ち主で、以前はよく幽霊を目撃し、車にも2度ほど乗せてしまったことがあり、また、ダムに引きずりこまれそうになったり、ある納骨堂を見学して霊にキツイお叱りを受けたりもした。
 超常現象を全く信用しない、オカルトを全否定するヒトたちは、このオーブを空中の水滴やホコリがピンボケしたもの、他の光源から入り込んだものと云う。
 この撮影時には霊感体質の私も全く気付かなかったもので、公平を期すために状況を解説するので、個々で判断して欲しい。撮影の順番は左から右である。

 ・この建物はいつも薄暗く、この日も外は曇天であった。
 ・薄暗いと云えども真横には窓があり、一定の明るさはあった。
 ・周囲の建物とは隣接せず、離れていて、また、日中でもあり、窓から他の光源が差し込んでいるとは考えずらい。
 ・フラッシュは使用したが、一連の撮影の中で発光体が移動している。左下から現れて、流れて写っている。
 ・ピンボケとしても丸くなく、ボヤっともしていない。
 ・反射光というより、自ら発光している光の塊のように見える。
 

























第135回 旭川市で怪現象を撮影。    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/




 





  

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2009年06月18日

UMA(ユーマ) 出現!!

~謎の水生生物が現れる。

UMA出現!ユーマ現る!!怪獣目撃!!!!


 大よそ一千年前に遠くサハリンなど北方から渡って来たオホーツク人や土着の擦紋人の竪穴式住居跡が数多く点在することで知られるシブノツナイ遺跡。その古代人の里に怪獣が現れた。

 北海道のオホーツク海に隣接する紋別市沼の上の「シブノツナイ湖」において、
去る6月16日午後、公務員Mさんが、風なく、波紋もない穏やかな湖面を一直線に移動する未確認生物らしきものを発見、同Yさんと団体職員Fさんも目撃したもの。

 それは全くの黒い棒状のものが、くねりもせず、ワニ背のようで凸凹もなく、スー・・・・と真っすぐ陸へ向かうと、音もなく静かに草むらへ消えて行った。湖面から見えた部分は1.5m~2mはあっただろうか。

 果たしていったい、この生物は何なのか?!
 
 取りあえず「謎の水生生物・怪獣シブノ-」と命名する。



つたないイメージ図でゴメン




 第131回 怪獣か、UMAか?     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2009年02月11日

もんべつ流氷まつり

第47回もんべつ流氷まつり開幕(2/11~15)
 ~流氷も接岸!!、今年のメイン像は上モベツ駅逓所

  ちょうど紋別と遠軽の山間の中間に位置する「旧上モベツ駅逓所」。訓練などで往来する道すがら、この駅逓と保存会の活動を目にしていた自衛隊の隊員さんが、文化財指定を記念してゼヒとも流氷まつりで作成したいと建造に至った。
 毎年、毎年、祭りへのご協力、陸上自衛隊遠軽駐屯地の皆さん、ありがとう!!!














第110回 流氷まつりのメイン像は駅逓    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2008年11月15日

正式登録!最奥の駅逓(号外)

官報告示、正式に文化財登録となる!!
































































第94号 上モベツ駅逓所文化財へ 
~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!



 
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2008年10月20日

あやや、アイヌ語地名

塘路湖への旅

 先だって標茶町の塘路湖へ行って来た。第一の目的は数少ない現存する駅逓の確認であり、そしてかねてより一度は訪れてみたかった標茶町郷土館の見学である。この郷土館の建物は明治19年に釧路集治監本館として建てられた洋風建築で、同34年に廃止されるまではアトサヌプリの硫黄の採掘や釧路までの道路の開削など、囚徒を使役した。
 私の目を引いた展示物はアトサヌプリで使用された「ss SHINAGAWA」レンガであり、そして衝撃的だったのは或るアイヌ遺跡である。
 このレンガは現在もある明治8年創業、同36年設立の「品川白煉瓦会社」の製造ではないかと考えるが、この会社は明治20年代には北品川にあったと云う。
 そしてそして一番の収穫は「ウエン・エカシ」と云う遺跡の存在であり、ウエンとはアイヌ語で「悪い」「良くない」を意味し、エカシとは「長老」や「祭司」を指すものであって、このような地名は他に聞いたことがなく、アイヌ民族の方にとっては何て大胆なネーミングだろう。


ウェン・エカシ遺跡/標茶町史より












 塘路駅逓の内部











 第91回とってもレアなアイヌ語地名  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2008年10月05日

アイヌの伝統と文化

アイヌの文化を知ろう、学ぼう!!

 この10月3日~4日に紋別市立博物館で、アイヌ文化を知って学んでもらおうと、道ウタリ協会紋別支部(会長 畠山 敏氏)による「アイヌ文化を学ぶつどい」と「アイヌ民族伝統工芸品展」が開催された。
◆「アイヌ文化を学ぶつどい」
 ・白糠ムックリ愛好会シノッチャの会、副会長 時田幸恵氏
 ・釧路アイヌ文化懇話会々長 松本成美氏
 時田氏のムックリの演奏と松本氏による「アイヌ逓送人吉良平治郎」の語り。
 逓送人とは郵便物などを郵便局と郵便局間をつないで搬送するもので(集配人とは違う)、彼は職務を全うするため降雪のなか搬送に向かい、途中、吹雪のなか遭難しながら行嚢(運搬物を入れた袋)を守り切った「責任のヒト」であり、その殉職は全国に感動を呼び、戦前の修身の教科書ともなった。
◆「アイヌ民族伝統工芸品展」(第6回)
 アイヌ語ペンクラブ会長でイヨマンテの会々長の千歳市・野本久栄氏によるムックリの工作体験と、約60点の工芸品を前にアイヌ民族の伝統的な文化を紹介。

 野本久栄氏はこれまで東京や大阪で「カムイノミ」や「イチャルパ」を行っており、当地で毎年(今年で10回)とり行われる同儀式にも祭司として参加、ほかにアシリチェプノミと云うサケを迎える儀式を各地で行い、地元千歳市でも毎年、子どもらと伝統的なサケの漁労とその解体をするチェプコイキを実践している。
 野本氏とお会いするのは4~5回目と思うが、今回ははじめてお仲間に加えていただき、地元アイヌの方々も交え、彼等の伝統的な考え方についてお話しを伺い、そしてそれら文化の伝承と保存について熱く語らった。
















第88回アイヌの伝統文化 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
北海道文化財保護協会
(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!


  

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2008年09月29日

最奥の駅逓(号外)

祝!! 「旧上藻別駅逓所」文化財指定記念

 ◆駅逓寮と島松駅逓























 旧駅逓寮と逓信省新館/明治39年(絵はがき)
 幕府の道中奉行所が統括した街道の宿駅制度を引き継いで、慶応4年閏4月(明治元年)に会計官下に駅逓司が設けられ、明治4年に始まった郵便事業は、この駅逓司が取り扱い、のち、駅逓寮、駅逓局を経て同18年に逓信省となり、同20年には逓信省の「テの字」を意匠化した「〒マーク」が制定された。近代郵便制度を確立した前島密は駅逓司の実質的な長官である駅逓権正であり、また、初代の逓信大臣は北海道にゆかりの深い榎本武揚であった。この駅逓寮は今の日本橋郵便局があるところ。


















 北海道新道一覧道中隻六/明治10年頃(抜粋)
 旧島松駅逓所は明治6年頃に建設された現存する道内最古の駅逓で国指定史跡。赤毛種の栽培に成功した「寒地稲作の父」と呼ばれる中山久蔵宅を駅逓としたもので、同14年の天皇行幸の際には行在所ともなった。クラーク博士が「青年よ大志をいだけ」という明言を残し、教え子たちと別れたところ。
 この島松駅逓を描いたと思われる絵画は安藤広丞の作で、明治6年に竣工した函館から札幌に至る新道沿線を双六にしたもの。


第86回上モベツ駅逓所、号外  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

   

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2008年09月27日

上藻別駅逓所、文化財へ

祝!!「旧上藻別駅逓所」登録文化財に指定される!   

 保存会の皆さん、おめでとう!
  高地さん、そしてご支援いただいた皆様、ありがとう!! 


 オープン当時の報道








































































 文化財指定を知らせる道新






































































 同地元紙



第85回祝!やったネ、文化財へ!!  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2008年07月01日

招運の泉

 ~お気に入りの美しいエゾ地名
  先だって斜里町の来運に行って来ました。

◆小砂子(ちいさご/上ノ国町)
 とても美しい言音の語源は「チシ・エムコ、立岩の水源」ということ。古くから和人地第一の難所とされ、道南12館のひとつにあげられる比石館跡があった。隣接には昭和9年に完工した世界でも珍しいトンネル式の石崎漁港があり、急峻に突き出た岬に掘ったトンネルを漁船が行き交う。
◆礼文華(れぶんげ/豊浦町)
 「レプン・ケプ、沖に突き出ているところ」という意味で、かっては蝦夷三険のひとつとされた。その名のとおり景勝地である豊浦海岸には斉藤茂吉や与謝野鉄寛・晶子など多くの歌人・文人たちが来訪している。そこにある小幌(岩屋)洞窟には江戸時代から円空仏があり、首なし観音が安置され、松浦武四郎や菅江真澄も訪れた。小幌駅は鉄道マニアに秘境駅として知られている。
 ◆来 運(らいうん/斜里町)
 当て字和名に似つかわしくない、「ライ・ウン・ナイ、死人川、死んだように流れが遅い川」という意味でふ化場がある。明治32年に開拓された来運地区は秀峰斜里岳の積雪が数十年を経て湧き出るとされる「名水・来運の水」があり、豊富な湧量を誇る湧水は、常に6℃前後と夏は冷たく冬は凍らない。招運、願いが叶うという泉へ行ってみては。

◎おまけ/於尋麻布(おたずねマップ/羅臼町)
 北海道でも随一の難読地名で「オ・タッニ・オ・マップ、そこに樺の木がある川」が語源の秘境・知床にある言いえて妙な絶妙な地名。釣りの名所であり、地図を見ながら尋ねてみては。


第62回蝦夷地名解

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2008年05月31日

松前の殿様も怒る原油高!?

明日からまた燃料代が値上がりしますが・・・
 昨年末にSTV「どさんこワイド」の『原油高に凍える島』を見て、アッと思った。

~原油高が冬の奥尻島に深刻な影響を与えている。
 フェリー輸送に頼る奥尻島では食料品から日用品まで割高な《離島価格》が存在し、特に燃料の高騰は深刻だ。・・・燃料を運ぶのに、また燃料がかかる。
~インタビュー松前さんのお話し、「国として対策を組んで灯油を安くしてくれなければ生活できなくなる、大変だ」。
 
 すわ! ヒョットしてこの松前さんって!!

 はじめて松前氏を名乗った藩祖の(蠣崎)慶廣の子の景廣は河野家を継いだが、姓は松前を名乗って藩の執政を務め、1643年には先祖の履歴をまとめた『新羅之記録』を記して、これは長く同家の家宝として門外不出とされた。
 幕末・維新では同家は熊石町にあったが、明治中ごろに奥尻島へ渡ったと云い、その末裔の松前幸吉さんによって『新羅之記録』が公開されて、昭和45年には北海道指定有形文化財とされた。
 さて、宗家の末裔はというと最後の藩主修広の孫・正広は子爵でありながら太平洋戦争では陸軍二等兵として徴兵され、南方のニューギニアで戦死し、家督はその弟が継いでいる。

・・・インタビューの松前さんって殿様の子孫かな??




第55回松前家の子孫

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2008年04月13日

古代人の里にクジラ寄る

~海洋民族・オホーツク人の里にクジラ寄る
(寄りクジラ伝説)


 平成20年4月12日早朝、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が打ち上げられているのが発見された。
 メス、年齢は不明だが十分な大きさの成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)もあって、船と衝突して死んだと考えられる。
 ここはオムサロ海岸と云い、近くは通称・流氷岬とも云って、オホーツク文化・擦文時代を代表する遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。


◆謎のオホーツク人は遠くサハリンからやって来たのか
 おおよそ6世紀~12世紀に大きな竪穴式住居に住んでアザラシやトドを狩り、捕鯨を行い、そして魚網を用いた漁労も行った「海の狩人」。
 陸上ではヒグマやシカ猟を行い、豚と犬を飼育し、特有の土器や骨角器、骨や牙を用いた芸術性の高い彫刻を作製して、また、鉄製品を使用し、その加工も行った。
 その生活址は南樺太から利尻・礼文などの一部の日本海、オホーツク海沿岸の稚内から根室・北方領土にかけてにあり、流氷が接岸する地帯とほぼ一致することから「流氷の民」とも呼ばれる。
 こうしてオホーツク人は、特有の文化形態を擁して道東北を中心に繁栄したが、彼らはいったい誰であったのか、「ある時、忽然と消え去った謎の民族」とセンセーショナル的に語られるが、宗教儀礼など後のアイヌ人と共通するものも多く、次第に地元人と同化して行ったのであろう。

◆北海道指定史跡/オムサロ遺跡公園(住居址と遺跡から流氷の名残りを望む)
 オホーツク海に面した国道沿いの小高い段丘にあり、縄文早期から続縄文時代、オホーツク文化から擦文、アイヌ時代までの1万年に渡る200個を越える住居址があって、また、擦文時代の復元住居やアイヌ人が食べたオオウバユリ、エゾエンゴサクなどが見られる。

◆伝説・知床ウトロのオロッコとアイヌの戦い(寄りクジラ伝説)
 この岩島のうえにはオロッコ人(ウィルタ)が住んでいて、その下をアイヌ人が通りかかると、島の上から石や木を投げつけて悪さをするので、アイヌの人たちはホトホト困り果て、何度も追い払おうとしたがなかなかなりません。

 そこでアイヌ方では一計を案じた。
 
 こっそり夜中に海草を集めてクジラの形を作り、そこに魚を置いたところ、朝になると鳥たちが群がって大騒ぎ。
 それを見たオロッコ人たちは岸にクジラが寄ったと勘違いして島から下り、喜び勇んで駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻めて、オロッコ人は全滅してしまった。
(道東北に同様の挿話が散見される)

◆明治のアイヌ居住地(給与地)との関係
第44回くじら寄る(関連/第37回)

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2008年02月17日

エッセイ、ふたつのモンベツ

~有島武郎と本庄睦男

□紋別教会と「或る女」
 伊達紋別のキリスト教会にある明治30年ころの写真には、明治の文豪有島武郎の小説「或る女」のモデル佐々城信子が写っていると云う。この信子の生家は元仙台藩士で、明治26年に旧知の伊達開拓団を頼って来道したが、その2年後には上京して国木田独歩と結婚した。
 このとき独歩は信子との新たな生活を北海道での開拓に求め、新渡戸稲造の紹介で殖民地を出願して空知を視察したりもしたが、その結婚生活もわずか半年に終わり、独歩の北海道移住計画は夢に終わった。そして後に、この体験を著したのが小説「空知川の岸辺」と「牛肉と馬鈴薯」である。


◆「空知川の岸辺」
 目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談することである。中略 石狩の野は雲低く迷ひて車窓よりの眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此処に愛なく情なく、見るとして荒涼、寂寞、冷厳にして且つ壮大なる光景は恰も人間の無力と儚さとを冷笑ふが如くに見えた。

 
□本庄睦男と私の一族
 さて、この教会には北見紋別の開発功労者の島竹貫一が関係していて、それは教会が明治24年に設立した「北海孤児院」に彼が一時期いたからで、教会には伊達邦成の主従も入信したが、その同族の伊達邦直らによる当別への入殖風景は、後に当紋別市(旧上渚滑村)へ再転住した本庄睦男の小説「石狩川」に詳しい。

  大観堂初版/昭和14年
◆石狩川
 をこがましくも作者は『石狩川』の興亡史を書きたいと念願した。川鳴りの音と漫々たる洪水の光景は作者の抒情を掻き立てる。その川と人間の接觸を、作者は、作者の生まれた土地の歴史に見ようとした。そして、その土地の半世紀に埋もれたわれらの祖父の思ひを覗いてみようとした。
  あとがき抜粋

 余談ではあるが筆者の一族も当別からの再転住であり、同じくに旧上渚滑村に住まいしたが、当別時代に本庄睦男の兄と私の伯父は職を同じくしたことがあり、転住後も父が甥と面識があって、私もほかの親族と同じ職場で働いたことがある。
 また、本庄家は佐賀県の出身で当別において小間物店をしていたが経営に失敗、そして私の父方の祖母の実家も九州の福岡県であり、祖父は同様に商売につまずいての旧上渚滑村への再転住だった。何ほど縁の深いことか。
  第16回歴史と文学                  西辰寺・本庄家の墓碑/紋別市内



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2008年02月03日

一番詳しい、ガリンコ号のお話し

~北海道遺産/ガリンコ号の歴史

□ガリンコ号とは「アルキメデスの木ねじの原理」を応用したアルキメディアン・スクリューと云う大きなドリルでガリガリ進むことから名づけられた流氷砕氷船。最初に流氷観光を手がけたのは稚内市の東日本海フェリーであったが、専用船ではなかったために氷海には限界があり、このときの運航継続は困難だったが、後に紋別市の「ガリンコ号」が登場すると流氷クルーズは一躍脚光を浴びて、平成3年2月には網走市に「おーろら」が就航した。

初代ガリンコ号のドリル
◆初代ガリンコ号
 もとは三井造船㈱がアラスカ油田の開発のために建造した実験船で船名を「おほーつく(ASV/アルキメディアン・スクリュー・ベッセル)」と云い、昭和56年12月26日に建造された時は2本のドリルだったが、同58年には4本となった。
 その前身のAST(アルキメディアン・スクリュー・トラクター)はトラクターのタイヤの代わりにドリルを付けて、サロマ湖や紋別港で試験が行われた。昭和63年の10月に氷海に閉じ込められたクジラを米ソで協力し、救出して大きな話題を呼んだが、その時に活躍したのがAST2号機で、最初の1号機は紋別に残り、現在はガリンコ乗り場に展示されている。
 その縁もあって昭和60年の実験終了に際し、巨大なドリルで厚さ50cmの氷を砕いて進む観光船に改造され、紋別港を母港に昭和62年2月1日に世界初の流氷砕氷観光船として登場した。
 この初代ガリンコ号は当初は一階建の定員32名だったが、翌年には2階建てに改造され、総トン数39トン、全長24.9メートル、定員が70名となって平成8年3月10日までの10シーズンに延べ8万人を超える観光客をオホーツクの流氷海へと誘った。現在は紋別海洋公園に上架され展示されて、迫力ある巨大ドリルが間近に見られる。


2008年春/お色直し中のガリンコ号Ⅱ
◆ガリンコ号Ⅱ
 二代目となるガリンコ号Ⅱは同じく三井造船㈱が設計し、石巻のヤマニシが建造して総トン数150トン、全長35メートル、旅客定員は195名、砕氷能力も厚さ60㎝以上となって平成9年1月20日に就航した。
 速力も以前の3ノットから9.5ノットへと大きく性能をアップして沖合10kmまでの航行が可能となり、これまでの冬季だけではなく、夏季にはフィッシィング・クルーズも行われるようになった。
 メイン駆動は寒冷地に強い戦車にも利用されるベンツの特殊エンジンで、2本のドリルはモーターで回転する。これは通常の「スクリュー」と「木ねじの原理によるドリル」の2つの推進力で、氷の上に乗り上げながら自重によって割って進んで行く。


第3回流氷とガリンコ号

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