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2010年03月02日

オホーツクのカレイ漁の歴史

§ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
                             北海道文化財保護協会々員 釣山 史

 それでは最初に皆様へ、お断りを申し上げます。
 このお話しの中で、特に「○○年」については、元資料によって差異があり、この場合は、当時に近いより古い資料を引用し、または、水産試験場などの公的文書を優先するように心がけましたが、ハッキリしないものもあり、ただし、紋別関連については地元の市史に従いました。
 また、『沖合い底びき網漁』については「沖手繰」「小手繰」「小型底びき網」など、その時代と地域で区分・区別は難しく、解説中では併用していますので、ご容赦ねがいます。


 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
 江戸時代のオヒョウ漁から近代機船漁業の勃興、昔の加工と流通について

―と云うことですが、

 さて、皆さんはカレイの王様は、何ガレイだと思いますか?
 かっては、このオホーツク海でもたくさん捕れた「幻のマツカワ」が道南で復活し、今では「王鰈」としてブランドとなって商標登録がなされていますが、ある意味、やはり私は「オヒョウ」がカレイの中での鰈だと思っています。
 なんせあのデカサと云ったら…、私が子どもの頃には、タタミ大のものもあって、たった2~3匹で小型のトラックがいっぱいになったのを記憶しています。
 本旨の「マガレイ」ではありませんが、まずは「オヒョウ漁」についてお話しをしたいと思います。

◆江戸時代から有名だった紋別のカレイ漁
―それでは江戸時代の図2を見て頂きたい。
 多少のニュアンスは違いますが、現代的に意訳すると『オホーツクの紋別・斜里ではオヒョウを獲るが、2メートル近いものもあって、この辺りの一番の食料である。富山のタコや滋賀のナマズに勝る名産かも知れない』と蝦夷地を北海道と名づけたことで知られる松浦武四郎さんが云っています。そして図3では「紋別」の欄に「オヒョウ」が描かれていて、この「蝦夷土産道中寿五六」は、贈答用とされ、包装紙としても用いられたもので、たくさん市中に出回ったと考えられます。
 明治に入ると後に紋別に定住した「岩田宗晴」が、同25年に網走と斜里の沖合でオヒョウを大漁して大儲けしたと云い、その時の道庁の実地調査でも好結果となり、紋別も含めたオホーツクで、オヒョウ漁が一大ブームとなります。また、明治末期には沙留の「大多喜長蔵」が道庁の補助を得て、冷蔵船と冷蔵倉庫での試験操業を行い、一定の成果を上げました。
―このように昔から紋別地方の「お化けガレイ」はたいへん有名だったのです。
 そうして※2にあるように三漁(サケ・マス・ニシン)につづいて、紋別ではカレイがたくさん獲れていたようで、また、多獲されたオヒョウは冷凍技術が発達するまでは、食膳用にスキ身やソボロ、カマボコなどに加工され、根室などでは缶詰として輸出されたりもしました。

◆動力船の進出とカレイ漁~たくさん獲れて、始末に困ったマガレイ
 資料1から3に見られますように、道庁では大正9年、10年、同12年、14年と繰り返して北見地方の漁場の探査を行い、有望な新開場として、紋別地方への「底びき網機船」の入会を積極的に誘導しました。それは大正中期に一気に勃興した機船漁業を、日本海ほかの夏枯れに対応した通年操業とするためで、紋別地方は他の地域が薄漁の季節でもたくさんマガレイが獲れたからです。
 地元では明治の末期頃から川崎船による小手繰漁が行われていましたが、鮮魚での消費には限りがあり、大正9年には、網走管内で最初の動力漁船となる「高嶋春松の大正丸」がマガレイ漁を始めましたが、無動力と合わせた手繰船の着業者は数人程度と、今ひとつ振るわないものでした。
 それが度重なる道庁の調査に触発されて、大正12年に小樽から「松田鉄蔵の第三寅丸」が廻航し(大正期の資料3に寅丸の記述が見られます)、マガレイを大漁すると、翌年には地元の新造2隻をはじめ、道内各地から底びき網機船が入会し、にわかに活況を見るに至りました。しかし、保存設備が未熟な当時にあっては、鮮魚での出荷には限界があり多くは〆粕とされて、食膳用としては、カマボコに加工される程度でした。

◆保存と流通技術の進歩
 この「第三寅丸」が当地で着業した時には、既に名寄線が開通しており、冷蔵車両(冷蔵車、図6を参照して下さい)もあって、※7のとおり、当初は水揚げしたマガレイの全てを旭川へ出荷していましたが、大正9年には伴田貯氷庫が建設されていて、そのほか川氷などを使った氷蔵が建てられ(表3と4です)、また、昭和5年には松田によって本格的な冷蔵庫が建設されて(※8の設計者は蟹工船のモデルとなった松崎隆一です)、底びき網機船の船主たちは共同出荷のための組合を結成して限りある冷蔵車両を共用し、遠くは東京までへ出荷するようになりましたが、施氷されただけの多くの鮮魚は『うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損と云う有り様』でした。
 このように季節的に一時に大漁されるマガレイの価格は非常に不安定であり、流通過程での痛みを少しでも軽減しようと、マガレイを箱に縦詰めしたり工夫を重ねましたが、紋別では昭和4年頃から「トロ函」を使用するようになり、品質の向上に努めたので、操業は次第に安定するようになります。
 この動力船による漁獲のピークは昭和4・5年頃ですが、その後は漸次減少しても、それでも表2の「昭和11年北海道漁業現勢」によりますと、全道の中で紋別の底びき網漁でのマガレイの漁獲はダントツの1位でした。
 さて、※9にありますとおり、ちょうどその頃の昭和10年には「東京市場(今の築地です)」が新しくなり、この時に市場に国鉄の駅が設けられて、「鮮魚特急」と呼ばれる生鮮品の速達化が図られたのですが、表5のとおり、当地でも戦前には4軒の魚介冷凍工場があり、また、地元では昭和12年から盛んに「焼カレイ」が作られるようになります。

◆小手繰船からの転換、カレイ刺し網漁へ
 のちの戦中戦後の混乱期は、食料の増産の必要もあって、漁業制度が崩壊し、動力船のほか小型船ももっぱら漁獲効率の高い小手繰漁を行ったので、戦後に至って漁業資源は急激に減少してしまい、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなって、これらから特に沿岸漁業での新たな展開が必要となりました。
 そうして昭和33年からは「カレイ刺し網漁」が行われるようになり、これによって漁獲されたカレイが、より丁寧に選別されることになります。

◆まとめ
 ①オヒョウ漁など、紋別のカレイ漁は古くから有名だった。
 ②道庁が紋別海域へ底引き船を誘導し入会させたので、それがいっそうの宣伝となった。
 ③実際、他地域が薄漁の季節でもたくさん獲れた。
 ④当地でのマガレイ漁の勃興期が、流通の発達期と一致した。
 ⑤早くから品質の向上に努めていた。

―このようにして、「もんべつマガレイ」は広く知られるようになったと考えられます。

   
   第168回 もんべつマガレイの歴史    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

資料・図以下、










































































































































































































  

Posted by 釣山 史 at 22:44Comments(0)紋別の歴史

2009年12月13日

昔の紋別港

戦前紋別の漁業と水産加工










































明治 大正 戦前 紋別港 紋別漁港 紋別の漁業 紋別の水産 紋別の水産加工 昔の漁業 昔の水産業 昔の紋別港 戦前の紋別港 戦前の加工場 ホタテ漁業 川崎船 紋別漁協 紋別水産会 昔の紋別の写真






































第164回 昔の紋別の浜     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 17:33Comments(0)紋別の歴史

2009年12月06日

南極犬・紋別のクマ(改訂)

 南極犬物語り ~もんべつにもいた南極犬 タロとジロ 昭和31年11月に砕氷観測船「宗谷」で出発した第一次隊に参加し、悪天候のため南極の昭和基地に置き去りとなったカラフト犬「タロとジロ」の生存が確認されたのは同34年1月、日本中に大きな感動を与えた。 その後も皆に愛され活躍したジロも昭和35年に南極で、タロが同45年に引退先の北大で死亡し、はく製となったジロの遺体は国立科学博物館にタロは北大に保存され、また、東京タワーには「南極観測で働いたカラフト犬の記念像」がある。 この第一次隊の最初のカラフト犬による犬ゾリ訓練犬38頭のうち、南極観測に参加したのはアカ、アンコ、クロ、比布のクマ、風連のクマ、紋別のクマ、ゴロ、ジャック、シロ、ジロ、シロ子、タロ、テツ、デリー、トム、ペス、ベック、ポチ、札幌のモク、深川のモク、ミネ、リキの22頭。トム、ミネ、札幌のモクは病気や怪我で途中帰還し、タロとジロの兄弟サブロは訓練中の稚内で死亡した。その時の訓練所は遠く樺太を望む今の稚内公園で、園内には「南極観測樺太犬記念碑・樺太犬供養塔」がある。 モンベツのクマと網走での訓練 ときには先導犬もつとめた「モンベツのクマ」はきかん坊で、傷が絶えなかった。赤い右目に黒い左目、そして白い胸毛が特徴で、ほかの犬が疲れたときに力を発揮した、いかにもカラフト犬らしい犬。「風連のクマ」・「比布のクマ」、「深川のモク」とは兄弟で、タロとジロとの伯父にあたる。 稚内市での訓練は有名だが、この網走管内においても、先発隊が昭和31年1月16日に網走湖の女満別側へ入り、雪上飛行機と雪上車の訓練がなされ、続いて同月24日迄に濤沸湖に入った総員28名は、翌25日から2月15日までの間、同湖の網走側に「南極の家」を建設して総合訓練を行ったが、この4日には、砕氷観測船「宗谷」の要員による酷寒の根室を南極と見たてた耐寒訓練が行われていた。 さて、網走での訓練隊がカラフト犬を募集していることを新聞で知り、稚内などで買い求めていると聞いた紋別市の目時一也君(当時12才)と弟の春也君(同10才)は両親と相談し、『自分の愛犬をぜひ連れていってほしい』と犬ゾリ隊の編成に奔走する西堀副隊長へ手紙を書いた。このときモンベツのクマは生後1年1ヶ月のまだ幼犬であったが、毎日ソリを引いては、坂道でもたくさんのお米を軽々と引き上げたそうだ。




















 第162回 南極に行った、目時さんのクマ     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年11月22日

万次郎の子孫、ここにあり(改訂)


去る平成18年8月24日に「湧別町文化センターさざ波」にて劇団四季ファミリー・ミュージカル『ジョン万次郎の夢』が公演され満員好評の幕であった。あらすじは土佐の漁師万次郎が漂流し助けられた捕鯨船で渡米、そこで西欧の知識を吸収して世界の潮流を知った万次郎は、鎖国日本の開国を誓って帰国、万延元年には遣米使節として勝海舟・福沢諭吉らと供に咸臨丸に乗船して再び太平洋を渡るのであった。ところでこのお話し、その後の北海道の開拓に深く関係していることを知る者は少ない。まずは万次郎について、実は湧別町に隣接する紋別市元紋別には万次郎のお孫さんが入殖し、現在もその一族がおられる。その故人は京大と東大を卒業したインテリで、戦前、戦中の難しい時代に奉安殿建設の寄付を拒否し、軍用機の献納にも反対して、また、赤レンガのサイロにロシア文字と云ういわゆる左寄りで、特高に目を付けられ部落会長を免職されたりもした。近所には海軍中将さんの親族がおり(同じく今も一族がおられる)、勿論、仲が良いはずも無く、相主張譲らず、互いに張り紙をし合ったとかしないとか。しかし、中将さんの親族が反産運動へ繋がる産業組合を結成し、中浜さんも加入して牛を飼ったというから面白い。また、幕末の安政4年には、万次郎自身も北方開発のための捕鯨指導として箱館奉行所に逗留したことがあり、そして函館戦争の将・榎本武揚の英語の教師でもあった。続いて咸臨丸のお話し。函館戦争では旧幕軍の軍船として参戦し、維新後の明治2年には開拓使附属の御用船となって、青森・函館間の初めての定期航路として官公物の輸送に当ったが、同4年9月、入殖を目的とした仙台藩片倉家を乗せて台風のため破砕、木古内町のサラキ岬沖合に沈没したのであった。これらについて上演の前後に多少の紹介でも・・・と期待もしたが、知ってか知らずか、その話は無くチョッと残念、地域の文化情報の発信の大切さを改めて認識したのであった。明治33年にジョン万次郎の長男、医師の中浜東一郎の三男として東京に生まれた中浜明さんは、昭和3年に紋別の山奥にある中藻別へ入植しました。昭和7年には産業組合(農協の前身)が組織されたことから、同9年に川下の元紋別へ再転住し、組合に加入して酪農を始めましたが、当時は生乳ではなく、手回しのセパレータでクリームとして酪連工場へ納品しました。戦前は「奉安殿」の建設に反対し、戦後はGHQの命令による、その取り壊しに異議をとなえて、国歌「君が代」にも反対した中浜さん、万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒトです。



 第160回 万次郎の子孫     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年07月02日

先進的な紋別の漁業

◆紋別の漁業と水産加工の概要
 戦前紋別の水産加工場
 紋別市は、以前は定置網や沖合底曳、北洋漁業など、大きな資本を要する大型漁業が盛んであって、それに伴い早くから先進的な加工・流通がなされて来た。反面、沿岸漁業は零細な者が多く、仕込みによる商業資本に支配されながら、ホタテやカニなど、繰り返す好不漁に悩まされていた。
 昭和初期に他を先駆けて「漁業者=漁業に従事する者」との漁民運動が起こり、組合員の整理を断行、このことは現在でも「兼業は禁止」として受け継がれている。
 戦前戦後の紋別水産会においては、有力代議士であった松田鉄蔵と最新の加工技術に熟練し、元水産庁の役人でもあった松田隆一の両人が、当地に与えた影響は非常に大きく、また、後のニチロや大洋漁業となる大手資本が早くから進出したことが、今の紋別水産会の基礎を築いたと云える。
 戦後間もなく、全国初の水産モデル地区に指定され、地元水産3組合が合併して組織の強化が図られ、また、重点的に国からの資金と援助を受けると、次々に最新の施設を整備して、昭和30年代前半までには、全国でも稀に見る近代的な水産都市が形成された。
 その後の200海里規制以降の漁業規制の強化は、遠洋・沖合の大型漁業の衰退をもたらし、資源の急激な減少もあって、かっては凡そ40隻はあった大型船が、今ではたった4隻にまで減少、主に加工とされる「スケソウ」などの多獲魚の水揚げが激減し、それは加工業の業態の変化ともなり、今はロシア産の輸入ガニに頼る加工が盛んとなった(3年連続、カニ輸入日本一)。
 不安定であった沿岸漁業は、その後、「ホタテ、さけ・ます」を中心とした増養殖へと転換し、この増養殖が全水揚げの6割強を示すようになって、また、ホタテ漁やさけ定置網の共業化・共同化もあり、漁業経営は安定して来た。
 しかし、近年、慢性的となったホタテ貝毒の発生による生貝の出荷規制や頻発する大型低気圧が原因の漁業災害は、大きな課題であった。
 このことから紋別漁協では平成5年にトンネルフリーザーを導入し、同15年にはさらに増設、ホタテの冷凍加工による消流の促進を図り、また、平成19年から20年にかけては、時化の影響が少ない、さらに沖合へ新たなホタテ漁場を造成した。
 また、この3月には新市場が完成し、消費者が強く望む「食の安心・安全」に応えた衛生と鮮度が高度に管理される「HACCP」対応型により、漁獲物の競争力のアップを図ったところである。
 クジラを牽引しながら引き揚げるマルハ大洋漁船
 いっぽう近年は沖合漁業も非常に不安定で、大型底曳船による漁獲は、主な仕向けが加工場とあって、地場産業に与える影響は大きいが、何よりその老朽船の更新が進まないのが、大きな課題である。
 さてここでは、北海道を代表する一大水産都市となった我らが故郷について、余り知られていない、或いは忘れ去れてしまった紋別水産界の歴史を、年表から読み解くとする。
 ・ホタテ漁はいつから始まったのか?
 ・もんべつマガレイはいつから有名になったのか?
 ・クジラ漁の始まりとその終焉について、
 ・紋別にいた小説「蟹工船」のモデル、
 ・紋別に起こった漁民解放運動、・・・・・・・・・・etc
.

◆紋別水産界の歴史
 2009年3月6日改訂























































































































 





第133回 紋別の水産業界の歴史  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2009年04月16日

鴻之舞金山の発見

◆鴻之舞の真の発見者は?

 住友鴻之舞鉱業所事業案内/昭和10年

 枝幸ウソタンナイとペイチャンに始まったゴールドラッシュは東洋のクロンダイクと呼ばれ、それは紋別八十士の砂金鉱と鴻之舞金山の発見へとつながって行く。



 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル/北海道鐄業誌/大正13年
   

 一般に伝えられるところでは、知識があった今堀喜三郎は上モベツが有望とみて、同士の沖野永蔵に探鉱をゆだね、これが大正3年の六線沢での金鉱の発見となったが、このときは品位が低く操業に至らなかった(のちの三王鉱山)。
 大正4年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金が見られるという話を聞き、友人の羽柴義鎌とで探索を続け、翌5年には地元の地理に詳しい鳴沢弥吉の協力を得て、ついに「元山大露頭」を発見したと云う。


 さて、そもそも沖野へ話をしたのはいったい誰か?

 丸瀬布町史によると、明治27年頃に上川の近文コタンから渡ってきたアイヌ人の「布施イタキレ」は丸瀬布金山や遠軽瀬戸瀬に住したが、探鉱に長じており、金山橋鉱(金湧橋)は彼の発見によるものであった。
 その後、上湧別屯田に世話になっていたとき、ある鉱山師に上モベツの沢で米粒大の砂金が採れると教えたところ、共同でやろうということから案内をしたが、自分を除いた共同経営となり、後に住友へ売山されて、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。


 はてさて、金山の操業までの鉱区の出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か・・・。 


第121回 鴻之舞の本当の発見者    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

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2009年04月10日

新聞に見る鴻之舞の閉山

~鴻之舞鉱業所の閉鎖

 この3月で休刊となった紋別の地元紙・オホーツク新聞(旧紋別新聞)に鴻之舞金山の閉山と鴻小、鴻中の閉校を見る。

























































第120回 鴻之舞の閉山    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年04月02日

渚滑村のりんご

余市からの転住者が多かった渚滑村


 以前は「北限のリンゴ」として名を馳せた上湧別や「呼人リンゴ」として広く知られた網走も、今はわずかに観光農園でしか見られなくなった。
 網走管内での果樹の栽培は、最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を取り寄せたのに始まって、同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
 これらの果樹栽培の奨励では明治24年に網走郡外三郡へリンゴ外450本が下付され、翌25年にもリンゴ200本との記録があり、同20年代には移植が盛んに試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹30本を植えて盛んに苗木の生産と配布を行い、また、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したとも云い、特徴的なものとして網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生であった。
 こうして明治33年には紋別郡でも産出されるようになったが、初期の栽培の中心はもっぱら網走であり、同42年に4万斤・10万円の産額を示して産出量が同43年をピークにブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少したが、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
 「殖民広報第六十一號/明治44年」では渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあり、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴ栽培の先進地から再転住者が大量に流入した。
 この頃には同じくリンゴの栽培に熱心だった中湧別から種苗業者が渚滑村に入り、リンゴ、ナシ、ウメ、サクランボなどの苗木を商ったといい、植栽した苗が明治30年代末頃から結実するようになると、土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、上湧別町穴田資料に見られるように大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。


第118回 もんべつでも栽培していたリンゴ    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年03月06日

紋別にも来たブラキストン

奇才ブラキストンの記録に見るもんべつ


 英国人で元軍人のブラキストンは、多才と云うよりは奇才な人物である。1861年には揚子江を探検して、その記録はロイヤルメダルを受賞した。同年に商社員として来箱すると、1864年には日本最初の蒸気機関による製材所を開設し、さらに翌年、3隻の帆船を使った貿易を始めたが、その一隻は「あきんど(商人)号」と云った。
 維新後の明治6年からは函館と大間を結ぶ津軽海峡の定期航路を運航し、幕末よりあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計なども行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒であった。
 そして後年、彼の名を一躍、世界に知らしめたのは野鳥の研究で、津軽海峡を挟んで、北海道と本州では鳥類や哺乳類の分布が違うという、いわゆるブラキストン・ラインの発見で、面白いところでは、明治13年にスポンサーとなり帆船競争を行ったと云い、これは船の改良を奨励するものだったが、同24年の「北水協会報告第六十七号」に『英人ブラキストン氏考案漁船ノ図』なるものがある。
 また、1861年には日本国内で初めてスケートをしたとされ、後にお役所から「ゲロリやそりで坂をすべってはケガ人が出てあぶないので止めるように」という御触書も出ており、これを記念して12月25日が「スケートの日」だそうだ。
 さて、この間の明治2年には、新政府から前年に難破した英国艦ラトラー号の調査を依頼され、函館を「あきんど号」で出港して浜中に上陸し、そこからオホーツク海岸沿いに北上して宗谷へ至った。
 こうして途中で紋別を通過、彼の記録では当時の紋別場所について、『岩礁が風波を多少防ぐ程度の少し引っ込んだ湾とは言えないくらいのもので、漁場には大きな住宅と役所が1軒づつ、それをアイヌ人の小屋が取り囲んでおり、この時は和船一艘が沖泊めされていた。会所の差配人によると、斜里と紋別の経営は採算が取れないが、他に非常に利益のある標津場所があり、どこか一カ所を放棄すると全てを召し上げられてしまう。』とあり、これは山田寿兵衛の請負によるもので、また、『案内人の若いアイヌ人はヒゲをそり、日本風の髪形をしてカナ文字を書いた』ともある。

 紙幣か証券か、発禁となったブラキストン証券/新撰北海道史/昭和12年







第115回 オホーツクをめぐったブラキストン    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 22:51Comments(0)紋別の歴史

2009年02月28日

危険だった北洋漁業

「丸高丸」の遭難
~非常に危険だった昔の北洋操業


 その頃の出漁風景
 戦後に日本の遠洋漁業が解禁されたのは昭和27年で、紋別では同30年、31年には北洋カムチャッカ海域のサケ・マス漁業船団の中継基地となり、また、同じく同30年からは「日米水産」と「極洋捕鯨」のタラ延縄漁船の根拠地ともなった。そして旧ソ連のベーリング海域などでの底曳試験操業が開始されたのが昭和32年である。
 この頃の本道では機関故障ほか、毎年、800件前後の海難事故があり、特に昭和30年代の前半には、当紋別が関係する大型事故が連続した。
 当時、弁天町にあった松田水産所属の『丸高丸・177㌧、17人乗り』は、昭和34年3月6日、午後6時30分頃に「カムチャッカ東側南端で操業を終えて港航中」との連絡の後、続いて同日9時頃、漁場より80マイルほど南下した付近で僚船へ『天気すこぶる晴朗で波静か、順調な航行を続けている』との通信を最後に消息を絶った。
 最初は拿捕あるいは故障による漂流とも考えられたが、その後に遺留品などの手がかりも全くないまま、行方不明から四十九日が経ち、4月26日に松田水産常務の松田祐二氏ほかの関係者が報恩寺へ参集して、小笠原俊英船長、高橋亮一漁労長ほか乗組員の合同慰霊祭がしめやかに執り行われた。
 この前月の2月26日には大洋漁業の「第十七明石丸・73㌧、15人乗り、鍋谷精司船長」がカムチャッカ南端のブレスブ沖で沈没したばかり。
 「丸高丸」は前年に進水したばかりの新造の北洋底曳試験船で、皮肉にも前年の2月28日に同じくカムチャッカ沖で遭難したタラ延縄漁船「第十二大黒丸・132㌧、18人乗り、阿部喜一船長」の最後の無線を受けた僚船であり、また、この昭和34年に当地へ巡視船「そらち」が配備されたのであった。


第114回 危険だった北洋操業    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年02月26日

ブランドまがれいの背景(再)

 (再々改訂) 第168回オホーツクのカレイ漁の歴史に移転しました。

 「ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く」~オホーツク海の底引き網機船とマガレイ漁の歴史です。


 第113回 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年02月21日

明治・大正の紋別港

衆目を集めたもんべつの桟橋問題
 ~明治・大正の紋別海運事情



 紋別港全景/北見之富源/明治45年
 ◆明治の北海道海運と紋別港

 慶応元年(1865年)にはブラキストンが清国貿易・国内輸送と沿岸の航路を開いて、箱館戦争の際には物資を輸送したと云うが、本道と本州を結ぶ定期航路は明治2年(1869年)に開拓史附属の「咸臨丸」と「昇平丸」が官公物の輸送を行ったのに始まり、同6年には附属「弘明丸」が青函航路の一般輸送を開始した。国鉄の「比羅夫丸」による青函航路の運航は同41年からである。
 補助航路による民間運航は明治12年に開拓史が三菱(後の日本郵船)の青函航路へ補助したのに始まり、同18年には農商務省が日本郵船に対して横浜-函館間、函館-根室間、小樽-宗谷間と国後・択捉・北見地方ほかへの航行を命令し、逓信省は同じく同21年に日本郵船へ補助を開始した。
 この頃には小樽-網走線、函館-網走線などの定期航路のほか、補助によらないその他の不定期船もあり、紋別では明治25年に藤野家が廻漕業を始めて汽船「芳野丸」が運航したほか、「伊吹丸」「玄洋丸」「蛟竜」などが有り、それまでにも日本型船「清松丸」「三寶丸」を年に数回、江差・福山、函館から回航していた。
 昭和19年の紋別町史では、この汽船「芳野丸」の初入港の様子を『最初沖合遠く水平線上を走る船影を見、次いで汽笛を聞いたので、土人等は大いに驚き、ウエンヒラリの海岸に蝟集して男女圓陣を作り、泣くが如く又怒るが如く船影を望み糾號し、又は踊る者もあり、漸次船體に近づき、辨天岬まで移動して心得したか解散した』と伝えている。
 そして北海道庁補助航路の小樽-稚内間の運航が明治33年10月より、稚内-網走間は同34年5月からいづれも日本郵船によって開始され、小樽を起点に増毛、稚内、枝幸、雄武、紋別、湧別、常呂、網走を連絡していた。日本郵船の所有船としては「貫効」「玄武」「青龍」「北見丸」などがある。
 明治26年には時の内務大臣井上馨が北海道を巡視するため、軍艦「浪速」が紋別港に入港したと云い、この時の艦長は、あの東郷平八郎(このとき大佐)、そして同じく日露戦争で活躍する後の海軍大将・加藤寛治がいた。


 紋別港修築計画ノ概要/明治43年?
 ◆紋別港桟橋問題

 紋別本陣前ハ西北ヲ負テ東南ヲ一面ニ受ル、且澗形一切ナシ。弁天社前磯ヨリ東ニ突出、拾二三丁沖迄海底一円ノ暗礁ナリ、土地不案内ノ者可謹可恐トコロナリ。八丁ニ懸リ澗トシ但七尋ナリ、海岸ハ砂カブリ十三丁、沖辺ハ八尋、過日英艦半日程滞碇ト云。秋蘭ノ未可恐難場ナリ 後略/北見州経験誌/松本十郎/明治4年

 築港以前の紋別港は、ここにあるとおりで、今の造船所のあたりには岩礁と浅瀬があり、そこには一本松が建てられて、松印と呼ばれて航行の目印となっていた。
 この頃の紋別港は「港」とは名ばかりで大型船は沖留めされ、明治25年に藤野家が自前船の回航に合わせた廻漕業をはじめ、同27年には高野庄六が開業して、艀船を使った荷捌が行われたが、その船付場までは浅く、危険なうえに物資が波をかぶって海水に浸るなど大きな課題であった。
 明治39年には海軍水路部が沿岸を測量したが、これを契機に港湾修築の機運が高まり、取り分け速成を望む商業界の高野派(高野庄六、飯田嘉吉、岩倉梅吉)は、劇場・東亭において桟橋建設の大演説会を挙行、対して古屋派(古屋憲英)は時期尚早として慎重な対応を求めたが、明治40年12月には大型木材船・第一共栄丸が暴風により沈没したことから、さらに村を2分する一大対立となった。


 ●絞別桟橋問題(架設反対側の意見)
 北見国紋別港にては一昨年時の村長他沢亨氏の主唱にて桟橋架設の議あるに対し古屋氏等之れに反対側の発表せる架設反対理由なるもの左の如し
 一、木造桟橋の流氷抵抗力に対して疑念を有し昨年吾人主張者となり道庁より技術員の派遣を要請し完全なる試験抗の建設を建議したるに理事者の納むる所となり数百金を投して竣成したるに一回の流氷にて主要なる抗木を破砕せられ為めに其設計を変更したるは技術員にも亦耐氷の信念無きを証するを得べし是其一成
 一、工事費に付いては最初理事者の説明に依れば内務省所管地方低資金の貸付を受くるものにして年率は年利三朱内外のものを使用し 中略 今日に至りては低利資金と関係なきものとして某会社より年利一割の資金を得て事業を遂行せんとすと即ち全工費一万六千円及雑費を一千円として五千円の補助金を扣除するも村債一万二千円の利子に対し年収を以て充つるも尚二百円の不足を生ずるに非らずや況んや年々の修繕費及管理費を要するに於ておや元金償却の如き百年河清を俟つに異なる所なし是其二也
 一、前略 前説と異なり破壊せられたる場合は使用料徴収不可能なりと言明せり然らば一両年にして破壊せんか全部村税の負担に依らざる可らず是三也
 一、前略 漁業は唯一の生産力にして之れか豊凶は直接村経済を左右す人或は曰わん紋別港農産物輸出は年々五十万円に達するにあらずやと然も該農産物の全部は殆んど隣村渚滑村或は湧別村の算出に非ずや是隣人の資を算るものなり而るに比年海に豊漁なく村民の疫弊今日より甚しきはなし当村一ケ年全般の歳出入八千円内外ならうに昨秋村長更迭に際し後任者に対し滞納村税五千余円を引継ぎたりと聞く 中略 村財政の窮迫推するに難からず此際危険なる本工事の如きは累を百年に胎すものと謂わさるべからず之其四也
 以上列挙したる理由に依り吾人は反対の意を表するものにして感情により村の平和を□るものなりとの言者為にする所ある誣罔の言にして名を一村平和の美名に借り言論を抑圧せんと欲する耳然て吾人も干潮時荷役の不便を除去することに対し研究を怠るものにあらんや我紋別港には一部弁天岬に接し天恵の湾形を有し四囲暗礁に包まれ僅かに中央部少許の切れ間を有し干潮時に於ても優に水深捨尺を保つ処あり是れ多少加工せば四時安全なるを得而して工費は僅かに五分の一を以て足るべし技術家の調査を望む止まさる所にして屡々之れか提言を理事者及議員に試みたるも既に議決したるものにして自己等の体面に関すと放言して耳を傾くるものなし村政の枢機に参する者にして偏見斯くの如し豈に村民に忠実なりと云うを得んや村政の前途転た憂慮に堪えさる也(下畧)/北海タイムス/大正2年


 この対立は大よそ5年間にも及び、この間の明治40年と同43年には道庁が調査に入るなど、機が熟したと見た時の池沢亨村長は、同44年に村会へ桟橋架設を提案したが村会は鋭く対立、収拾如何ともしがたい状況に陥り、池沢村長は更迭されて湧別村へ転出してしまった。
 これについては翌年には村会へ再び上程されて、今回は採択を見たものの、結局、予算措置が出来ないままに桟橋問題はお流れとなり、のちに避難港としての修築運動へと変わったが、港湾計画は網走との激しい争奪合戦となり、網走管内のみならず全道から衆目を集めるところとなった。
 そうして網走との争奪戦に敗れた後の大正8年には、今度は住民が一致した「紋別築港期成会」の結成となり、漁港の築港へと変更されて、また、前後数度の測量調査と大正10年には試験工事により突堤が建設されたことなどもあって、同11年にはようやく道庁(当時は国)の予算化となり、翌年から工事が開始されて、昭和6年にとうとう完成に至った。

 築港中の紋別港/北海道大観/大正15年


第111回 初期の紋別港建設    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/









  

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2008年08月07日

もんべつのカレイ

紋別のカレイ(校正)  

○動力船の導入とカレイ
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させて、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航し、動力船での漁が急増したが、この時はマガレイが大量に漁獲された。
 当初、松田は川氷を使って施氷していたが、大正14年に氷池をはじめ、昭和4年には道内でも数番目という冷蔵庫を建設して、大きいものは道内外に鮮魚として発送し、小さいカレイは蒲鉾にした。また、「焼きガレイ」の加工を目的とし、昭和13年には「紋別加工組合」が発足した。
 後にマガレイがオホーツク海を中心として全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わって、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このように古くから大量に「もんべつマガレイ」は流通し、これらによって広く知られるようになったと思われる。
 以上のように「紋別マガレイ」は有名となって都市部の消費地では高値で取引されようになったが、実際に紋別ではヒレグロが一番多く漁獲され、平成17年で781㌧と全道の30%を占め、次にアカガレイが246㌧、マガレイ161㌧とつづいて全種・総量で1,462㌧が水揚げされて、これは網走管内の45%にも及ぶ。ヒレグロとアカガレイは冬がおいしく主に底びき網と刺し網で漁獲され、マガレイは春は水っぽく、おいしいのは秋以降で、底建網と刺し網により漁獲される。
 マガレイは大きく分けると道北の日本海で産卵し、そのまま成長するものと、オホーツク海へ回遊して成長し、また、日本海へもどる2群があるが、比率の高かったオホーツク海育ちは年々減少傾向にあるようだ。

○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年には沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


第73回もんべつマガレイ(再)

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2008年07月31日

もんべつのサケ・マス

~紋別の鮭鱒漁業の歴史

 サケ・マス漁では古くから干物や塩蔵が行われたが、昔は塩の確保が難しく、大漁のときには加工できずに漁を中止した。筋子の生産は明治5年に見られ、同27年からは高野漁場で燻製がつくられた。
 明治18年にオホーツク沿岸で最初の漁協となる「紋別鮭漁業組合」が発足し、同25年に渚滑川へ監守を置いた。ふ化事業は昭和13年に人工ふ化場を藻別川に開設したが2年で閉鎖となり、現在の下渚滑への設置は同25年である。このようにサケ・マスは早くから資源管理がなされて来た。
 戦後に至って昭和30年からは紋別が北洋サケ・マスの中継基地となったが、後に漁業規制が強化され、同63年に母船式漁が終結し、平成5年には公海上が全て禁漁となった。
 現在では沿岸での「さけ定置網漁業」と「ます小型定置網漁業」が行なわれて、普通のサケはシロザケのことを云い、概ね4年で回帰して、メジカやケイジは珍重され、また、カラフトマスは2年性で「オホーツクサーモン」のブランド名で知られている。

                                              大正12年に大西真平組合長の紋別鮭鱒養殖水産組合が設置した湧別川の捕獲場とふ化場/昭和9年頃
 

第70回紋別のサケ・マス漁とその加工
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2008年07月27日

渚滑村の開拓3

~第61・63回のつづき

3進む開拓、「岩田宗晴」と「製軸工場」
 明治31年「北海道殖民状況報文」によると『當國ニ於テ工業ト稱スヘキハ唯燐寸軸木ノ製造ノミ其材料タル白楊ハ處々ニ在リ殊ニ網走郡紋別郡ニ多シ明治二十四年網走村ニ山田製軸所ノ設アリ同二十七年渚滑村ニ岩田製軸所ノ設アリ 中略 山田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村ニ岩田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村及ヒ澤木村ニ設ケ目下工事中ナリ』とあって岩田の製軸業は山田製軸所と同じく資本金2万5千円(但し渚滑工場閉鎖後の藻鼈工場のみで)の蒸気機関を備えた最新鋭のものであった。
 この当時の奥地開拓においてはむしろ障害であった森林樹木は一部を自家用に使用するほかはせいぜい薪炭とされる程度で開墾伐木された樹木は殆どが焼き払われていたが、殖民地の貸付と処分が進んで明治23年に「官有森林原野及び産物特別処分規則」が施行されて道庁による林産物の特売が認められるようになると、民間においても盛んに林業開発が行われるようになった。

◆北海道拓殖要覧/明治36年北海道庁
 前略 先す示す所の利用樹種中カシワは單寧製造業者にトドマツ エゾマツの如き針葉樹は啻に用材として利用するのみに止ますして製紙業者に又ドロノキ、ハコヤナギ(一般的には両樹を白楊と云ふ)は燐寸製造業者に此等諸工業奨励保護の一策として 中略 右の内白楊樹拂下は本道に於いて器械を所有し自ら燐寸軸木を製造するものに限り 後略


 大正12年「第貳版北海道人名辭書」によると岩田は土佐の手広く商う漁家に生まれ中学校を卒業後に暫らく教職に就いたのち新聞記者を経て明治24年に渡道、網走で土佐漁師約30名を招致して漁業を行ったとあり、また明治25年「北海道通覧」では『網走の大鮃漁は本年二三の漁業家之を企て中には専業として企てたるものあり 中略 茲に参考の資として記載すへきは高知縣漁民の出稼是なり本年春期遠洋漁業の目的を以て二十餘名團結をなし網走に來り主として大鮃鉤獲に従事す相應の結果を擧げたり・・・・』とあって、昭和30年「斜里町史」では岩田が漁夫10数人を引きつれ網走沖で大漁し搾粕にして大儲けしたと云う。
 これによって自由民による以後の大鮃漁は順調に推移して北見地方の代表的な漁獲物となり、すでに明治33年発行の初号の「北海道移住手引草」に『北見根室二國の大鮃・・・・多額の算出あり』と紹介されて、このように岩田は大鮃漁を指導しながら事業途中にしてこの資金を元にさらなる発展を求めて渚滑村へ再転住したと思われる。

◆北海道殖民状況報文/明治31年北海道庁
 湧別村
 農業 前略 (明治)同廿八年七月二日九月十五日霜害アリ麥ノ外ハ皆凶作ニシテ 中略 薄資ノ移民食糧ニ究シ渚滑製軸所或ハ屯田兵屋用材の伐採或ハ魚塲等ニ出稼スルモノ少ナカラス 後略
 渚滑村 
 工業 岩田製軸所ハ明治廿七年ノ創設ニ係リ近傍ニ在ル白楊樹ヲ伐採シテ燐寸軸木ヲ製ス 中略 職工ハ當地ニテ雇入レタルモノ及ヒ二十九年徳島縣ヨリ募彙セル農民ニテ目下數十人ヲ使用ス伐木ヨリ製造結束ニ至ルマテ悉ク受負法ニ據レリ

◆殖民広報第十号/明治35年北海道庁
 渚滑原野状況
 前略 二十七年岩田宗晴なる者製軸所を設立し二十七年製造高七千七百圓に上れり二十九年下原野に於て二十九萬七千二百九十五坪の貸付を得て小作人二十一戸を徳島縣より募集し初年は工場労役に従事せしめ三十年より農耕の傍製軸業に従事せしめたり 後略
                     
 コムケ湖畔にもあった岩田製軸所
 ここにある通り、岩田は明治29年に郷里から団体移住を募り翌30年には21戸の入殖をみているが、これは「北海道移住民規則」において「団結移住」は20戸以上としていたためであり、これが本村に於ける団体移住の最初となった。
 函館の「山田慎」による「山田製軸所」が主に網走分監囚徒を低賃金で労役することを目的としたのに対し、「岩田製軸所」は農業開墾の傍ら不要となった伐木を新開地の冬季遊休労働をもって或いは移住定着のつなぎとして操業し、その地域に与えたものは大きかったが、この開拓の先鞭となった渚滑工場も僅か3年で閉鎖となった。
 大正10年道会議員だった岩田が2期目途中に急逝した後、継いだのは雄武村に転住した「田口源太郎」だった。


 第69回渚滑村の燐寸製軸業
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2008年07月03日

渚滑村の開拓2

~第61回のつづき
 大正7年ころ
2開拓の先駆け「木村嘉長」と「堀川一族」
 さて、この「村勢一斑」では旧渚滑村への移住の初めを「木村嘉長」と「堀川泰洋」としている。嘉長については明治45年発行の「北見之富源」においても『北見方面の廣漠にして農耕に適せるを耳にし、斷然轉住に決心し 中略 明治二十六年五月家族五名と共に紋別に上陸、一時小作をして農耕の適否を試作せしに 中略 同年十一月十町歩の未開地貸付を受け、草小屋を掛けて移住せり』とあり旧渚滑村移住の元祖としているが、これについては明治39年の「移住者成績調査」に詳しい。ただし原文には「村上嘉長」とあるが「木村嘉長」の誤りである。


 明治十二年徳島縣阿波郡仁木竹吉なるもの百十七戸の團結を組織し北海道移住を企圖するに當り嘉長又之に加盟し衆と共に同年十一月郷里を發して直行小樽に上陸し今の余市郡仁木村に移住し 中略 偶々北海道移住案内をひもとき北見國は尚ほ移住者僅少にして将来好望なりとの記事を見、慈に断然移轉の決心を為し 中略 二十六年五月六日家族五名を伴ひ小樽港より乗船して北見国紋別港に上陸し先つ紋別村藤野四郎兵衛の土地を借り受け試作したるに 中略 渚滑川沿岸を探検して土地を選定し同年十一月三萬坪の貸付を受け直に小屋掛けをなして移轉したり同地は紋別市街を距る二里強、當時附近は斧斫未た入らす喬木欝蒼として雑草密生し 後略 (移住者成績調査第一編/明治39年北海道庁)

 ここにある「仁木竹吉」とは仁木村(町)開祖の人で、そのほか各地の開発に関係した北海道開発の大功労者であるが、この仁木村への移住においては嘉長も中心的立場にあったもので、それが渚滑村への再転住となったことについては次のような背景があった。
 竹吉は仁木村移住に当たり下となる嘉長外6名の組長との間に統率を図るための盟約書を結んだ(いわゆる団長と班長)。当初は藍と煙草の栽培を目的としたが中々定着に至らず、また、官吏の不正などもあってトラブルが続出し開拓が思うように進まなかった。それは仁木村の役人が日頃から横暴に振舞ったため暴動にまで発展し、先を恐れて官に忍従する者とそうでない者とに村が二分され疑心暗鬼に陥ってしまったこと。将来の開拓及び堤防の予定地30万坪が縣令の私となってしまったこと等が大きな失望となった。
 さらに経営の安定を図るため竹吉が依託者、嘉長外2名が惣代人となって明治21年に三井物産から資金を借り、以後一定の進捗が見られることとなったが、このことから移住民が一時奢侈に走り、会社との契約を破りごまかす者も現れたため風紀も乱れ、これがまた後の負担となって離散する者が続出して同31年には残る当初の入殖者が僅かに26戸にまでなったと云い、丁度この頃に湧別原野が測設され中央道路の開削もあって先行きに不安を感じた嘉長が活路を新天地に求めたのであろうことが推測される。渚滑原野に再転住してからの嘉長はいち入植者として表舞台には現れなくなる。
 これに対して昭和35年の「紋別市史」では最初の先住者を「木村嘉長」としながらも『道庁が渚滑原野の存在に関心を持ったのは、実に泰洋の出願によるものとすれば、渚滑原野を世に出し、今日の繁栄の基礎を築いた泰洋の功績は大きく、渚滑原野開拓の祖というべきであろう。』とし、大正12年「第貳版北海道人名辭書」においても『泰洋は明治二十三年伊達村に渡り翌年紋別に來り廿六年十月渚滑大平原を發見し翌廿七年開墾に従事し 中略 堀川家一族は實に當村の開祖たり・・・・』とあって、渚滑原野は如何にも泰洋によって見い出されたかのように著している。
 確かに渚滑原野の開放は明治30年ではあるが同4年には開拓判官「松本十郎」が当地を視察し(北見州経験記)、また同22年には殖民地選定調査を終えていたことからも「渚滑原野を発見した」とするまでには無理がある。しかし本家、分家の一族を挙げた泰洋の移住が本村開拓の先駆を成したのは事実であり、明治29年の「北見事情」では現在の紋別市内の農家としては泰洋の名のみが記載され、また、同じく同35年「殖民広報第十号」の渚滑原野状況においても初期開拓についてはもっぱら堀川一族のみの記述となっている。
 昭和16年発行の「自治産業発達誌」では、この頃広く用いられた「開墾鍬」の発案は長兄の「堀川善六」であるとしており「殖民公報第十号」にそれと思しき記述がある。


渚滑原野状況
 前略 同原野は二十六年越後の人堀川泰洋の選定出願せる所にして其以前にありては五六尺に餘る箬の密生するより何人も斯る肥沃なる原野の存するを知らさりしより同年堀川泰洋外十三名各三萬坪宛貸下許可を得同年十月堀川善治率先渡道し渚滑川舊渡場に居住す十日にして漸く五線迄踏査す當時は渡守土人の外は紋別に至る海岸一戸の土人も見さりしと云ふ二十七年初めて耕耡播種す 中略 開墾は手起しにして一人一日十八坪笹刈五畝歩位にして大に難渋せしか翌年開鑿工事に從事すへき人夫一名來り宿す偶々開墾の難事を語りしに彼は元より土方人夫なりしも他地方にて目撃せし所を語りて曰く唐鍬の刀部を一尺とし之を灣曲して八寸となすへし是れ開墾上勞力を要せすして一日六畝歩を耕起するに容易ならんと之を試験せるに果せる哉開墾の利益大なりしより何れも之を採用するに至れり 中略 仝年高知縣團體中渚滑に移住す仝年越後團體來りて上渚滑原野に入る當時既に堀川某等の率先開墾をなせるより食料に供すへき雑穀又は種子等の供給を受け開墾用器具に於ても便を得しこと多かりしと云ふ 後略 (殖民広報第十号/明治35年北海道庁) 


 大正7年ころ/もう一人の開村のヒト、徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで同総代人。
 それではここでもう一度、泰洋の転住について考察したい。昭和5年に郷土史家米村喜男衛が甥の「堀川徳治」から聞き書きした(北見郷土史話)ところによると泰洋は明治22年12月に工事中の中央道路を通ったと云い、また徳治一家は泰洋の来紋3年後の同26年11月に紋別の陣屋にある泰洋のもと至ったとも云う、善六の3男「堀川才治」の手による昭和13年の「花辛夷」では善六一家の来紋を明治26年11月とし(殖民広報に10月とあるのは貸付出願によるものと思われる)、粟田又吉著の昭和35年「渚滑川」では泰洋の紋別入りを明治23年としている。
 これらから泰洋の渚滑入殖は明治26年に疑いはないが、それ以前の紋別への転入については一定していない。ここで中央道路本道の旭川~留辺蕊間の開削が明治23年11月であることを考慮すると同22年説は明らかな誤りであり(また3年を逆算しても合わない)、また、泰洋の呼び寄せによって翌年に来紋した同士の「田口源太郎」は『(明治)二十四年三月預備役に入る幾くもなく北見國紋別郡紋別村に移住し後同郡雄武村に轉じ』(大正3年北海道人名辞書)と云うから、これからも来紋は明治23年12月であろうと推測され、中央道路の網走までの全通が同24年12月であることから泰洋は先に開削されていた湧別・北海岸の仮道を経由したものと思われる。
 この泰洋は明治30年に手動式の小規模な澱粉工場(後に馬力となる)を設け、後発の移住民らはここで働き現金収入を得たほか、この澱粉を頼りに越年した者も多かったと云い、また田口らと共同で開始した造材業は軌道を用いた当時としては大規模なものであったが、同31年の大出水で全てを流出して失敗に終わり、雑貨仲買など他事業も次第に行き詰まって妻の死を契機にこの地を離れた。本村最初の仮役場庁舎は泰洋の所有であったと云う。


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 第63回渚滑村の開村まで  

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2008年06月27日

渚滑村の開拓1

渚滑原野のあけぼの

 紋別郡渚滑村勢一斑/抜粋
 北海道開道五十年記念寫眞帖/大正7年

 第 二  沿  革
 前略 本村開拓の嚆矢は明治二十六年徳島縣人木村嘉長の單獨移住と新潟縣人堀川泰洋の一族四戸の現在の三線附近の移住とし翌二十七年九月高知縣人岩田宗晴の同所に移住小規模の製軸工場を開き越えて明治二十九年同氏の勸誘に依り徳島縣より二十二戸の團體移民の九線附近に入地するありてよく漸く農村を形勢せり明治参拾年五月高知縣人宮崎寛愛同縣より移民百八十戸を斜里村に移住せしむる目的にて紋別港に寄る時恰も渚滑原野區劃設定中にあり岩田宗晴の斡旋に依り目的地を本村に變更し今の中渚滑原野(十三線二十四線間)に入地開墾に従はしむ次で豊村品藏飯田嘉吉の一團十餘戸後志國余市方面より渡邊兵藏宇野作治郎の石狩國夕張方面より上渚滑原野(二十七線三十七線間)に移轉するありて開拓遽かに進めり明治三十一年秋渚滑川氾濫し人畜の死傷ありて被害多大なりければ一時移民の心膽を寒からしめ拓殖に一大支障を來すの憂を生じたるも翌々三十四年以後豊作相續き先住者の縁故に依る單獨移民續々増加し明治三十九年四百五十戸を算するに至り北海道二級町村制を布かる。略。
 第十一 牧  畜 
 本村の牧畜は農家が農業の傍ら副業として馬匹を飼育するを其主なるものとす往年豊村品藏専業に牧場を經營し牛馬約二百頭を飼養せるも當時肉類安價の時代にて遂に失敗に歸せり本村の馬は開拓の始め農耕用として土産馬數湧別方面より牽入たるに始まり 中略 畜牛は農家の副業として最も有利なる事業なるも其體軀動作は人の多く望まざる所以か當局の奬励する割合に發達せず 略。
 第十二 農  業
 本村の農業は明治二十七年に起り爾來二十五年地味気候共絶好の農業地たれば其進歩速やかにして網走支廰管内有數の農村を形成するに至れり開墾後二十五年を經たる今尚無肥料にて充分の収穫を得つ〵あり 略。
 附記 本村の主作物は未だ一定せず時價の變動に依り半歳異動を來す近時時局の影響に依り麥類著しく減少し菜豆、菀豆、馬鈴薯は殆と大半を占むるに至れり。


1.開拓初期のころ
 旧渚滑村への入殖のはじめは明治26年と云われ、同30年に渚滑原野が開放されてから本格的に開拓されることとなった。明治中期以降の北海道開拓は明治19年に北海道庁が置かれて「殖民地選定事業」が開始され、同23年から「殖民地区画」が始まると開発は暫時進み、同25年「団体移住規約」、同30年「北海道移住民規則」が制定されて団体入殖が明確に優遇されてからは、北海道への移住ブームを迎えることとなった。
 これについては明治27年から31年にかけてがひとつのピークで同30年には約6万4千人の移住者があり、この頃に既に「旧開地」と云われていた渡島・後志と石狩などの先進地が次第に飽和状態となり、また、先住者のさらなる発展を求めた再転住もあって、最奥地の北見地方にも入殖者が入るようになった。
 当時の状況については明治31年発行の「北海道殖民状況報文北見國」に詳しく、旧渚滑村の沿革を『渚滑ニハ舊來[アイヌ]ノ部落アリ明治廿七年以來原野ニ土地ヲ出願シテ農業ヲナス者相續キ又燐寸軸木製造所ヲ設ケ今後開拓ノ業大ニ興ラントス』とあり、さらに『新潟縣人 明治廿七年越後國中頸城郡ノ産堀川泰洋等十四名各々三万坪ノ貸下ヲ得テ開墾ヲナシ自作小作相交ハル二三ノ有力者アリ 徳島縣人 明治廿九年製軸所主岩田宗晴三十一万二千五百坪ノ貸下ヲ得テ徳島縣ヨリ小作二十一戸ヲ募集シ來ル當年ハ製軸所ニ勞役スレモ同三十年ヨリハ小作農業ヲナス筈ナリ』と紹介している。
 また、大正2年発行の「北見發達史」では開拓初期の旧渚滑村について『明治廿六年七月徳島縣人木村嘉長移住せるを始め廿七年岩田宗晴移住し製軸工塲を設く廿八年「ウブナイ」に新潟縣人堀川泰洋二十餘戸を率ひて移住してより 中略 三十年徳島縣人豊村品藏、飯田嘉吉等團体を率ひて移住し奮鬪成功を爲し 中略 大正二年に入れは二千戸以上の戸數に達すべしと云ふ而して帝國製麻は工塲を設置する爲め農家一戸に付き各五反歩宛亞麻の栽培を勤めつ〃あり殊に鐵道院の見込なりと云ふを聞く』と紹介している。


渚滑原野の開祖、木村嘉長の開墾小屋/明治
○主な原野の区画測設年(大正5年網走支庁拓殖概観より抜粋)
  明治30年  渚滑、上渚滑
  明示36年  タツウシ 
  明治40年  オシラネップ、滝ノ上、サクルー
  明治42年  渚滑字ウツツ(増)、上渚滑字オアフンペ(増)
  明治44年  オムサロ
○渚滑村の戸口
  明治28年     50戸            135人(北海道殖民状況報文)
  明治32年    345戸          1,641人(網走港)
  明治34年    328戸          1,345人(殖民公報)
  明治39年    450戸(村勢一斑) 2,300余人(北見発達史)
  明治44年    908戸          4,556人(北見繁栄要覧)
  大正 4年  1,649戸          7,629人(北見要覧)


渚滑原野の開拓風景/大正


第61回渚滑の開墾
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2008年06月13日

もんべつのホタテ

ホタテ貝(帆立貝、海扇、車渠)

 一説に紋別郡では明治13年頃に盛んにホタテを漁獲したと云うがナマコ漁での混獲によるもので、専業的にホタテ漁が開始されたのは同25年であり、初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人を中心とする北陸衆であった。
 こうしてホタテ漁は北見地方を代表する一大漁業となったが、当初から乱獲などにより好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で始められた採苗試験は同11年から大掛かりなものとなって、これが管内に「地まき」されたのがホタテ貝の増養殖事業の始まりと云われる。 北見國紋別郡内漁業實況/北水協會報告第七拾七號/明治26年
 この増養殖は紋別では昭和49年、50年と禁漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは4年毎の輪採制として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増加・安定した。
 標準和名は「ホタテガイ」と云いカキ目イタヤガイ科に属し、漁期は3月中旬から11月いっぱいくらいで、「八尺」と呼ばれる「けた網」による曳き網漁が行なわれ、大正の中頃には既に「紋別八尺」が広く知られていた。それは現在でも船のアンカーで有名な小樽の一鉄鉄工所が、爪の長い鉄製5本爪の八尺桁網を開発したのに始まる。
 輪採制では前年から中間育成した稚貝の「地まき放流」の前にヒトデを駆除し、「残ざらい」と云って残った親貝を漁獲して、異なった年齢の貝が混ざらないようにする。
 貝は黒っぽい色が表で左、白い方が裏で右、ちょうつがい側が背中で口の開いた方がお腹となり、外敵が近づくとジェット噴流でお腹側に大きく飛び跳ねる。貝殻には年輪があって年齢が分かる。
 そしてホタテ貝は「タウリン」を多く含み、血圧の安定や肝機能の回復に良いとされ、また、視力低下の予防にも効果がある、たいへん健康に良い食べ物である。

 北海道漁業冩眞帖/昭和12年

第58回ホタテのお話し(第2回の続き)

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2008年03月26日

上モベツと鴻之舞金山

上モベツ部落の形成と鴻之舞金山の始まり

 上藻別原野の測設は明治36年であるが、この時の入殖者はなく、同39年の区画地貸付台帳によると10月31日に橋詰保吉のほか9戸、11月20日には円角信孝、旧法第三条貸付地台帳では10月31日に河合美之助のほか18戸と橋詰保吉外9名の名が見られ(重複有り)、実際にはじめて現地へ入ったは同40年の山崎梅吉であった。
 続いて明治42年の原野増割では福原浅吉のほか数戸が入殖し、翌年には田中万平らが続いて、同44年の山崎長美ほか十数戸の土佐団体が入地して部落が形成されて、翌年には上藻別特別教授場が設置された。初代の部落長は田中万平である。
 このうち福原は鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、栄養不足による脚気に対応するために農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。
 かっては東洋一と云はれた鴻之舞金山は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ六線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのが始まりで、翌5年に元山大露頭が発見されるに至って、同年、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。
 鴻之舞への入殖は大正5年に大久保馬吉ほか数戸が入地し、翌年には吉田亀吉ら十数戸が入殖、同年に金山が住友へ買山されて本格的に事業が展開し、同8年1月に濕式精錬がはじまると、同年、上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。                  倶知安内五号坑(昭和10年頃)
 倶知安内は住友が昭和6年から開発に着手、同じく池澤了は三王鉱山の採鉱を開始したが、同8年には住友へ売山されて社宅数十戸が建設された。
 高地昇による上モベツ駅逓所の営業開始は大正15年7月で、宿泊料は一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。その後、部落の開発と整備が進み、また、昭和4年には上西音吉が、同7年からは今出新八による紋別までの乗合自動車が運行されて、さらに同15年にバスの運行が開始し、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が始まると、駅逓は同年をもって廃止された。
 元山露天掘跡(昭和10年頃)         鴻之舞市街全景(同)             架空索道(同)  




















 佐渡のかな山は昔のこと、イマ日本第一の金山は大分県の鯛生、第二が鹿児島県の串木野、第三が北海道の鴻之舞-ところがこの第三の鴻之舞の「キン」が品位においては日本第一、しかも今までの学説を覆す併行鉱脈が十七本も本脈を基準に続々と現れ今後それが幾ら出て来るかわからないという景気のいい話、東台湾においても五十億円の金鉱脈があると横堀博士が発表した、五十億!それがホンマならタイしたものだが台湾総督府当局の調べによるとせいぜい五十万円位の見当、それも砂金だから採算にかなうや否やが頗る疑問とされているので当時博士の視察にあたり案内役だった総督府鉱務課の朝日技手は博士の発表に一驚を喫し元鉱務課長の福留喜太郎氏の如きはウフフフフと笑っている、ところが北海道の方は学界の驚異のうちにカネに糸めをつけぬ住友が禁じ得ない黙笑を続けながら小池技師を総指揮官に二百七八十名の益良夫を使役して掛声いさましくイマ現に掘って、掘って、掘りまくっている
 鴻之舞は北海道北見国紋別郡元紋別町から西南六里半、大正初年のころは殆ど人跡を絶った大森林が続く山また山、ある日一人の杣が今元山と呼ばれるあたりの岩角に腰をかけてお弁当の握り飯、フト傍を見ると石コロからピカリ!眼を射たのが一条の光、そもそもこれが鴻之舞金山の発祥である、杣は物知りにその石コロを見せたやま師の飛躍がはじまった、専門家が鑑定すると「金!」
 許可鉱区は至る処試掘されついにカッチリ掘りあてた大金脈の露頭「千万両々々」と呼び声高く伝えられたのを、住友がポンと投げ出した一百万円で値がきまったのが大正六年、それからというもの人と機械に資本が動き、とうとう年産額黄金二百貫-カネに換算して百万両、銀はその四五倍の量を採取するまでに至った 後略。/大阪毎日新聞 (昭和5)


 現在の六号線沢と黄金橋、廃坑後

















第40回鴻之舞金山と上モベツ駅逓
(関連、第54回)
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2008年03月16日

渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行

~最奥地に見る明治・大正の移住民旅行

 明治維新後の北海道への移住については大きく3つの波があり、その最初は明治30年前後の約6万4千4百人、第2は同41年前後の約8万6百人、そして最後で最大のピークが大正8年の約9万1千人であった。
 その最後の波の大きな要因としては明治30年代後半から数年に渡った奥羽地方の凶作と日露戦争後の戦後不況が重なり、また戦勝により国民意欲が高揚したこと、さらに第一次世界大戦の勃発で経済が混乱し本道の農産物が改めて見直されたこと等によるが、この頃の道内の交通網が一段と整備されたことも要因となり、さらに奥地の道東北へと開発は進んで行った。

旧渚滑村開村の人・木村嘉長の家/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
◆先達者にみる移住民旅行
ア)堀川徳治氏の場合(明治26年渚滑村に入村)※1
 伯父の堀川泰洋(※2)さんは新潟縣の人で、中略 一層の事冒險的に北見に踏込んで開拓事業を起さうと決心して同二十二年十二月下旬、單身未だ工事中の網走旭川の中央道路(※3)を歩き初めをして來たものだそうです。
 私共も泰洋さんが通つたと言ふ其の中央道路を十一月下旬三戸二十六人が簑笠ゴザと言ふ珍装で、小樽から空知太(※4)と言ふ驛まで乗車し其處から徒歩で十八人かの子供を連れて踏出した。巡査に「北見の方に行く道はどこでせう」と聞くと、巡査は目を白黒させて「それや大變な事だ。御前達は其の姿で北見邊に行けると思ふか?峠は峠にはもう雪の五尺もあるに相違ない。略」と眞劍になつてとめるので婦人や子供はメソ〵泣き出すと言ふ始末・・・中略 簑笠ゴザの一行がどし〵歩き出したので、巡査も驚異の眼を睜つたま〃呆然として見送つてゐた。
 かくして永山屯田(※5)に一泊した時に廣漠たる原野の開墾されてゐる樣や、馬鈴薯の南瓜大の奴がゴロ〵無雜作に山と積み上げられてあるのに元氣づき、吾々も北見へ行つたら斯樣に大陸的農業をするのだ。内地の樣に五反や八反の小百姓とは問題が違ふ(※6)と一行の主座たる善六翁は皆に元氣をつけたのである。
 石狩峠今の愛別から白瀧に至る間には白雪五尺、峰より吹きなぐる吹雪は咫尺を辨ずる事も出來ぬので、達者なものは皆子供を背負ひ老人の手を引き連れて、一歩又一歩凍死せんばかりの苦痛を嘗めて明治二十六年十一月二十一日北見紋別即ち泰洋氏の陣屋(※7)へと辿りついた。/昭和8年「北見郷土史話」抜粋

1.泰洋の兄善六の次男。本村会議員、同農会評議員、同農事実行組合長など公職を歴任し威徳寺の開山に尽力した。
2.本村における初期開拓の中心人物。ここに明治22年来紋とあるが同23年の誤り。
3.明治24年に完工した中央道路は旭川を前後に上川道路と北見道路に分けられる。
4.滝川のこと。札幌―滝川間の開通は明治25年。
5.兵の入村は明治24年6月、翌月には戸長役場が置かれた。草原の多い永山は開墾も容易で2年目からは小豆、大豆、馬鈴薯、玉蜀黍等が栽培され、この頃すでに一大農村を形成していた。
6.明治19年に制定された北海道土地払下規則では、1人につき10万坪までの無償貸付がなされ、成墾後は廉価で払下られた。
7.陣屋とは駅逓の旧称。

イ)木本善吉氏の場合(明治30年渚滑原野25線に入殖)
 木本善吉氏は徳島県那賀郡椿村で明治五年に生れ、三十年三月渡道、余市山道村に一年おり、同県人豊村品蔵(※8)の尽力に依り土地貸付出願中の紋別郡上渚滑に転住の目的で、その年の十一月初旬小樽港を出帆の宮古丸に乗船した。
 この航海が江差追分の有名な、「忍路高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」。と唄にも続く航路で、十一月になればいつも波荒くこの航路中も甲板に大波が越す恐ろしい暴風となり、やむを得ず利尻近くより後戻りしてしまった。次は陸に替え、滝川迄汽車に乗った。その当時滝川が終点であったので、滝川より歩くより方法がなかったので旭川より地方道路野上駅逓(※9)を通り、湧別、紋別、上渚滑へと七日間もかかってやっと到着した。(※10)/昭和35年「渚滑川」抜粋

8.同郷の品蔵は各地を視察し渚滑原野を選定した。明治30年制定の北海道国有未開地処分法によると1人最大で耕地が150万坪、牧場250万坪が無償で貸付され、成墾後は無償で付与された。品蔵はこの地方の酪農開祖の人。
9.中央道路六号駅逓のこと。初代取扱人の笛田茂作は初期紋別村の功労者。市史では紋別最初の醸造を明治26年の千葉利吉としているが、同22年頃より酒造を行った茂作の誤り。
10.同士に後に管内を代表する実力者となった飯田嘉吉がいる。
                                                            渚滑原野の畑作/網走支庁拓殖概観(大正6年)
ウ)粟田又吉氏の場合(明治35年渚滑原野10線の岩田農場小作として入殖)
 徳島県板野郡堀江村より粟田与三吉、母モト、長男又吉(十七才)は、三十五年四月二十日故郷を出て徳島中須港より乗船、神戸で日本郵船(※11)の山口丸三千屯に乗替、横浜萩の浜函館を経て小樽に入航、それより北見丸七百屯に乗替えた。航海中暴風に遭い利尻の島陰で二日間停泊、ようやく紋別港に入航したのは五月八日であった。/昭和35年「渚滑川」抜粋

11.この頃は道庁命令航路、道庁補助航路等があって内地と本道、道内各地を結んでいた。日本郵船はその代表的な受命者。

エ)大内直太郎氏の場合(明治35年宇津々7線に入殖)
 徳島県三馬郡茂清村出身の大内直太郎氏は三十五年春三月渡道し、枝幸郡歌登村幌別六線の湧地農場に入地して荒地を一町程開墾し、中略 ここでは見込みが無いと思っている所を、雄武の森田村長に勧められ渚滑村宇津々に来る事になった。道中は直太郎さんが布団と世帯道具とを天びん棒でかつぎ、父与三郎が三才の小共と、片荷物は柳ごおりを棒でかつぎ、妻は小共を背負い二十八里の山道を四泊五日がかりで歩んで中宇津々に到着した。(※12)/昭和35年「渚滑川」抜粋

12.札幌―網走間の中央道路に比べ、整備の遅れた北海岸道路の旅行はいっそう困難であった。

オ)藤田正行氏の場合(明治41年滝上原野8線に入殖)
 私は明治三十年八月十七日富山県東礪波郡中野村(礪波町)で生まれ、明治四十一年に父は滝上に富山団体として入植しました。中略 父は明治四十一年三月三十一日富山県団体二八戸と中野村から伏木港へ出て同年四月一日出帆、小樽へ着き小樽から名寄まで鉄道で来ました(※13)。名寄では滝上へ行く団体の清原権右エ門外六、七人が名寄のアイヌ地(コタン)にいた(ここに今井浅次郎、山崎伊三郎等が家族と共に一、二年先に来ていました)のでそこを清原庄次郎外数人の者が頼って行きました。
 また、村上辰次郎は下川の二十三線にいる弟の村上要蔵の処へ行き、父と残余の二十人余りの人は内地で父の知り合いの村上という人が上名寄二十九線(現下川町)におるのでこの人のところに身を寄せ、一ノ橋(当時の然別)(※14)で雪が深いため国境を越せる日を待ったが、井上権次郎さん外二、三人の人は、かろうじて興部まで行くことができました。
 興部では前の年に富山団体が許可になり三線~十二線に入地した人々がいたので、四月十五日まで厄介になっていました。この四月十五日までの間に下川のアイヌ地にいた人々もみんな興部に集まり滝上へ出発しました。
 渚滑へ来たら春の増水で川が渡れないので、堀川泰洋という人の空家で一晩過ごし翌日七条前(※15)という人に船で渡してもらい、滝上まで来ることができました。/昭和51年「滝上町史」抜粋
 
13. 旭川―名寄間の鉄道開通は明治36年、同37年には里道名寄―興部間が全通。
14. 天北峠の下川一の橋に駅逓があった。
15. 徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで、同総代人ほか同農会評議員、網走外三郡農会議員、同産牛馬組合議員などを歴任。

カ)朝倉義衛氏の場合(明治41年滝上サクルー3線)
 明治四十一年四月二十日、高知県長岡郡元東豊永村の人たちの見送りをうけ、一三人が北辺の国へと旅立ちをしたのである。もちろん陸路徒歩の出発である。高知市に一夜を明かし、浦戸港を出帆して神戸に上陸、これより汽車で名古屋に至り一泊、翌日は東京上野を経て仙台泊。ここから青森に向かい(※16)、船で室蘭港へ。それからは一路夕張線(※17)を経由、岩見沢、美唄をすぎて砂川に一泊した。翌日砂川を発し鉄道の終着駅名寄に着いて石川旅館(※18)に一泊した。浦戸港出発から七日目、四月二十九日であった。
 石川旅館で、それから先の道中の案内を詳細にきき、布とん一組、二尺五寸の鋸一丁、鍬一丁、鍬は北海道形(※19)と高知製を布とんにくるみ荷造りをして背負った。五貫目はあったと思う。子供連れの家族は荷物を陸路に頼み、子を背負って何れも徒歩であった。はじめのうち荷物の重さは大したことはないと思っていたが次第に重さを感じて閉口してしまった。この第一日は下川町一の橋の駅逓泊り、第二日は一の橋から中興部岩越駅逓に着いた。疲労甚だしいので小笠原豊治と私とで馬を借り荷物をつけて興部駅逓(※20)まで運んだ。家族連れは少々おくれたが、興部では全員共に苦しかった話をしあい、何となく前途の希望に花を咲かせるのであった。
 第三日目は目的地渚滑長野家(基重、私の叔父)に到着できるのだと早朝興部菊池駅逓を出発した。目的地は近いと聞きながら、歩いてみるとなかなか遠く、やっと辿りついたのは日暮れの五時頃であった。荷物をおろして久しぶりの挨拶を交わした時は、本当に百貫の荷をおろした感で大きな息をした。五月二日であった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

16.上野-青森間が鉄道で結ばれたのは明治24年。
17.明治25年に岩見沢-室蘭間が開通。
18.この当時の名寄には13軒の旅館があり、このうち石川旅館と水島旅館が有名。宿泊料は一泊上が80銭、中60銭、下50銭で昼食代が別に20~35銭であった。
19.洋式農機具だけでは無く、鍬などにも北海道独特のものがあった。
20.明治25年、澤木に設置された菊地駅逓は同37年に興部へ移転した。
移住者の上陸/網走支庁概観(大正5年)
キ)篠原久次郎氏の場合(明治42年オシラネップ北線に入殖)
 富山県西礪波郡福岡町を四十二年四月十日旅立ち、名寄町まで来て先居住の越中団体の神代三五郎方へ一応落付き、中略 北海道移住民協会(※21)川口慶造の紹介で、渚滑濁川オシラネップ北線に十八戸分の予定地の払下を受けた。神代氏の所で十日程滞在後、愈々目的地に向けて、荷物は馬車で人は歩行で出発した。初日の晩は然別駅逓泊、翌日は国境を越えて岩越駅逓泊、三日目は興部泊、四日目の晩は紋別島竹旅館泊り、五日目朝早く出発五十二線泊りであった(※22)。
 春の雪融水は日増に増水して渚滑川は益々急流となり、ながらく川向に渡れなく西森宅(※23)に滞在しなければならなかった。十日程してようやく荷物を渡して貰う事が出来た、1回1円の丸木舟には2個しか積めない、16回で32個の大荷物を川向に渡し、岸の高い所に山積にした/昭和35年「渚滑川」抜粋。

21.この頃には種々の団体が結成され、官民あげての移住民保護がなされた。
22.然別は一の橋、岩越は中興部駅逓所のこと。
23.明治38年に中渚滑から再移転した高知県人の西森亦吾は52線で商店と渡船場を経営していた。

ク)岡村文四郎氏の場合(明治44年上古丹に入殖)※24
 わたくしは南国は土佐、高知県の生まれであるが、いまでは、すっかり北海道の農民になってしまった。わたくしは明治四十三年(※25)に現役兵で入営した。中略 内地に帰って来てみると、郷里では、はからずも北海道へ行って開拓に当たろうという話が持ち上がっていた。
 わたくしの父は作次というが、父の友達で、明治二十八年に北海道へ行った人が、たまたま土佐に帰って来て、「北海道に行かないか、北海道はええところだよ」という。「よし行こう」と相談がまとまっていたのである(※26)。以下略。
 わたくしは明治四十四年冬除隊したが、そしてホッとする間もなくその年の十二月中旬郷里土佐をたって、海をわたり北海道に出かけたわけだ。中略 わたくしは北海道の事情は全く知らなかった。当時汽車が函館から名寄まで通っていた。名寄から、上渚滑の入植地までは大体三十五里くらいある。それをとぼとぼ一人で歩いて行った。
 その時わたくしはいまの様に便利な洋服なんというものじゃない和服を厚着して尻ぱしょりで、村田銃をかついででかけた。開拓地では熊が出るというのが通説である。中略 軍隊靴のうえにゴム靴をはいた。しかし北海道の凍った雪の上では、ゴム靴は滑ってダメ。すべったり、転んだりして汗をふきふき歩いて、大分来たなと思ったところで、路傍の辻にソバ屋があったので、そこによった。「名寄からここまでどれ程来たことにになりますか」と訊いてみると、「まあ一里半だ」といわれて、もうがっかりして、ヘタヘタとソバ屋の店先きへ腰を降ろしてしまった。ソバ屋のお婆さんがわたくしのその姿をみて「そんな格好じゃ歩けない、ツマゴを履きなさい」という。ツマゴというのは藁でつくった半長靴の様なものである。略。
 その日は八里ばかり歩いて一泊、つぎの日は十二里も歩いて一泊。泊まるところは駅逓といって官営の宿屋の様なものだ。その駅逓と駅逓をつないで、馬ソリが往復し、人や荷物を運ぶ。…」中略。名寄を歩き出してから三日目、やっと目ざす上渚滑についた。(※27)/昭和39年「わが生涯」抜粋

24.当村会議員、上渚滑信用販売購買利用組合長、北海道農業会長、全国共済農業組合連合会長ほか公職を歴任し、参議院議員を3期務めるが現職で病没。
25.明治37年日露開戦、翌年ポーツマス条約により関東州の租借を獲得。同39年韓国統監府を設置して同43年には韓国を併合。岡村氏は満州守備隊に入営した。
26.いわゆる呼び寄せと考えるが、明治28年に湧別村と常呂村へ60戸の土佐団体が入殖し、その内数戸が渚滑村へ再転住していることから、これと何らか関係があるかもしれない。
27.一泊目は一ノ橋、二泊目を興部と考えると里程が合わない。冬の旅を考えるともう一泊はかかる距離であるが、途中迎えの馬車に拾われている。
滝上村・宮地駅逓所/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
ケ)村上七五三八氏の場合(大正2年滝上19線へ入地)
 大正二年の元旦に着く前夜、市街の吉田旅館に泊り翌朝内地から履いてきたアサウラゾーリを地下足袋(高丈)に履きかえ、十五線の長谷川さんへ来たところ、丁度お昼で元旦だからとイナキビの入った麦飯を食わされて、これでもご馳走の分だと言われたときはがっかりした。略。
 ここへ来るとき名寄で汽車を降りて馬そりを頼んだところ二四円とられたが沙留まできたら大吹雪になり、これから先は行けないといわれ、二四円の約束だったが12円位で帰った。(興部の酒井という人であった)。
 興部で一晩泊まり、渚滑では三木旅館(※28)に泊まり(一泊七、八〇銭)、翌日間違って紋別の方へ行き引返して来たのでおそくなってしまった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

28.経営者の三木槇五郎は徳島県出身。明治29年に本村最初の団体移住して初年は岩田製軸所で働き、翌年からは小作として開墾に従事した。のち5線市街で旅館を経営したが、大正13年3月4日、鉱山夫が持ち込んだ火薬が爆発して炎上、妻とともに焼死した。

コ)棚橋与一氏の場合(大正4年中渚滑に転入)
 兄、田村八百蔵一家と渡道することになり一家四人の家族と同道。当時は、下生田原(安国)が鉄道の終点であった。帯広、池田、野付牛を経て一週間目に同駅に着いた(※29)。ここで一泊、翌朝支度を整え、徒歩で出発、子供二人に荷物を携えており、加えて悪路に下駄ばきと言う仕度で、夕方漸く上湧別市街に辿り着いた。
 ここで一泊、朝早く出発したものの、歩速は捗らない。丁度、沼の上あたりで安太郎兄が馬車で迎えに来られているのに出会った。実に嬉しかった。「地獄に仏」とはこのことだと思った。北海道が初めての田村兄一族は相当落胆した。悪路馬車に揺られ〃中渚滑の原野に点在するランプの光が見えたときは、本当に蘇生の思いをした。/棚橋与一氏自叙伝(中渚滑八十周年記念誌)抜粋

29.明治44年に池田―北見間が全通、翌大正元年には網走―野付牛間が開通した。

第36回先人の移住旅行

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Posted by 釣山 史 at 22:32Comments(0)紋別の歴史

2008年02月03日

一番詳しい、ガリンコ号のお話し

~北海道遺産/ガリンコ号の歴史

□ガリンコ号とは「アルキメデスの木ねじの原理」を応用したアルキメディアン・スクリューと云う大きなドリルでガリガリ進むことから名づけられた流氷砕氷船。最初に流氷観光を手がけたのは稚内市の東日本海フェリーであったが、専用船ではなかったために氷海には限界があり、このときの運航継続は困難だったが、後に紋別市の「ガリンコ号」が登場すると流氷クルーズは一躍脚光を浴びて、平成3年2月には網走市に「おーろら」が就航した。

初代ガリンコ号のドリル
◆初代ガリンコ号
 もとは三井造船㈱がアラスカ油田の開発のために建造した実験船で船名を「おほーつく(ASV/アルキメディアン・スクリュー・ベッセル)」と云い、昭和56年12月26日に建造された時は2本のドリルだったが、同58年には4本となった。
 その前身のAST(アルキメディアン・スクリュー・トラクター)はトラクターのタイヤの代わりにドリルを付けて、サロマ湖や紋別港で試験が行われた。昭和63年の10月に氷海に閉じ込められたクジラを米ソで協力し、救出して大きな話題を呼んだが、その時に活躍したのがAST2号機で、最初の1号機は紋別に残り、現在はガリンコ乗り場に展示されている。
 その縁もあって昭和60年の実験終了に際し、巨大なドリルで厚さ50cmの氷を砕いて進む観光船に改造され、紋別港を母港に昭和62年2月1日に世界初の流氷砕氷観光船として登場した。
 この初代ガリンコ号は当初は一階建の定員32名だったが、翌年には2階建てに改造され、総トン数39トン、全長24.9メートル、定員が70名となって平成8年3月10日までの10シーズンに延べ8万人を超える観光客をオホーツクの流氷海へと誘った。現在は紋別海洋公園に上架され展示されて、迫力ある巨大ドリルが間近に見られる。


2008年春/お色直し中のガリンコ号Ⅱ
◆ガリンコ号Ⅱ
 二代目となるガリンコ号Ⅱは同じく三井造船㈱が設計し、石巻のヤマニシが建造して総トン数150トン、全長35メートル、旅客定員は195名、砕氷能力も厚さ60㎝以上となって平成9年1月20日に就航した。
 速力も以前の3ノットから9.5ノットへと大きく性能をアップして沖合10kmまでの航行が可能となり、これまでの冬季だけではなく、夏季にはフィッシィング・クルーズも行われるようになった。
 メイン駆動は寒冷地に強い戦車にも利用されるベンツの特殊エンジンで、2本のドリルはモーターで回転する。これは通常の「スクリュー」と「木ねじの原理によるドリル」の2つの推進力で、氷の上に乗り上げながら自重によって割って進んで行く。


第3回流氷とガリンコ号

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Posted by 釣山 史 at 00:13Comments(0)紋別の歴史トピック

2008年01月27日

ジョン万、北の子孫

~ ミュージカル『ジョン万』を聴く


 改題・改訂して、第160回へ移転しました。


第1回万次郎の子孫のお話し北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



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Posted by 釣山 史 at 16:30Comments(0)紋別の歴史