さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  その他北海道

新規登録ログインヘルプ


2013年08月22日

ホタテ漁業と加工




























































































































































§ホタテのあれこれ~もんべつから ペリー買物の図・亜墨利加一条写 ◆ホタテの名前~海扇、帆立、秋田貝、車渠(イタヤガイ)北海道を代表とする北海道らしい魚介類としては、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブなどがあり、北海道の特産品であるホタテも、すでに幕末には乾貝柱として登場し、箱館奉行所の栗本鋤雲も、『蝦夷の三絶』のひとつとしてホタテの乾貝柱をあげており、明治に入って盛んに中国へ輸出されるようになって現在に至っている。松浦武四郎が残したアイヌ人の民話に『たくさんのホタテが、フタを帆に立てやって来た』というお話があり、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」でも、『口を開いて、殻の一方は船、他方が帆のように風に乗って走ることから帆立貝』とも、その形から「海扇貝」とも云われ、また、秋田の佐竹藩の家紋に似ているので「秋田貝」とも呼ばれる。 蒔絵ホタテ貝皿/室蘭市民俗資料館 1854年に、ペリーが箱館へ来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それはJohn.C.Jayによって、『Patinopecten yessoensis蝦夷の櫛皿』と名付けられたが、現在は、Mizuhopecten yessoensisと云い、一般名称はJapanese scallopである。皿貝とも云われるホタテは、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器や装飾品として使われ、明治初期の着業が間もない頃は、むしろ貝殻の利用を目的に漁獲されていたもので、戦時中の湧別漁協では、軍の命令により食器の代用品として大量のホタテ貝殻を発送した。 昭和11年の天覧活動写真/紋別 ◆紋別のホタテ漁業 明治に入り、ホタテ漁は後志と噴火湾を中心に盛んとなったが、乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点として道内の各地へ出稼ぎするようになり、そこで新たに有望となったのがオホーツク海の猿払や紋別で、また、遅れて根室では潜水漁が始まった。さて、一説に紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云い、これはナマコ漁での、混獲によるものと思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、この初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、別の記録では『明治26年、青森県人・握味久之助が高島から「八尺」を持てってきて漁を始めた』ともある。こうしてホタテ漁は北見地方を代表する一大漁業となって、大正の中頃には、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪の「紋別八尺」が全道的に知られるようになり、また、当地での昭和10年の水揚げ15,691 ㌧は、長い間、日本記録であったが、当初から乱獲などで、好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は、同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが管内のホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別において現在の基礎となる実証的な試験が繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは「4年毎の輪採制」として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定して来た。 ◆オホーツク名産の乾貝柱 昔のホタテガイ(イタヤガイ)の漁労を歌った鳥取県気高郡の“民謡・貝殻節“は有名で、「白乾」と云われる今のような貝柱のみを精製したホタテの乾貝柱は、文政年間に同郡の山田与五郎が開発したと云う。一説に北海道では、明治12年頃には試作されたというが、その技術が青森を経由して道内に導入され、同21~22年頃から本格的に製造されたが、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。 大正末期頃のホタテ乾燥の景/紋別 自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って「白乾」の製造法を熱心に指導したことから、乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品となり、その後の漁獲規制や地まきによる増養殖事業の定着もあって、オホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となった。昭和3年に道庁が発行した「北海道の商品」を見ると、白乾百斤の相場は、紋別が130~84円、宗谷は125円~80円、根室が105円~82円であり、その頃から当地の乾貝柱がより上等品であったことが分かる。昭和7年に沿岸漁民の商業資本からの脱仕込みと乾貝柱の価格向上を図るため、紋別を中心に網走管内漁協連が発足して乾貝柱の共販を始めたが、このときは失敗に終わってしまい、あらためて同9年に紋別・沙留・雄武によるホタテ貝柱出荷組合が組織されて好成績を収め、こうして各地に共販組合が発足した。 敗戦後、主要な中国市場は失われたが、香港を通じて再開され、昭和29年には漁連系統による大洋漁業への一括販売となり、現在は、漁連の直販となったが、従前同様にマルハニチロ(旧大洋漁業)との結びつきは強い。 ホタテ煮汁エキス/紋別漁協 ◆ホタテ煮汁の濃縮エキス 北海道庁は、昭和9年~11年にかけて、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための試験を実施し、薬品会社数社の協力を得ながら濃縮技術の開発を試みた。昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、真空蒸留濃縮法の実証試験を行い、間もなくホタテによるグリコーゲンの製剤化が、実用化されたようである。当地においても昭和11年に創業の昭和産業が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売しており、これらの多くは栄養剤とされ、一部は調味料としも用いられた。また、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のおみやげとして、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。このホタテ煮汁エキスは、現在も重要な天然添加物として大手商社を通じ流通している。 ◆貝殻石灰 「貝灰(かいばい)」は、石灰(いしばい)の漆喰に比べてゆっくり固まり、亀裂が生じにくく、白度も高いので、仕上げに使うと良いとされる。北海道では、開拓初期の明治12年、同13年に「コレラ」が大流行して、小樽の佐藤賢次郎は消毒用の「貝灰」の製造を始めたが、次第に建築、土木での石灰(せっかい)需要も高まったので煉瓦製直立窯での本格的な事業を開始した。以後、新たな参入者も現れて消費は札幌、旭川、樺太までに及んだが、大正に入って小樽周辺でのホタテ漁が不振となり、原料の貝殻が高騰すると北見方面からも仕入れざるを得なくなった。 戦前の貝灰工場/紋別町史 こうして小樽の近藤馬太郎は、大正2年に湧別へ移転して貝灰製造を始め、以後、盛業を見たが、戦後、ホタテの漁獲が激減して昭和36年には廃業してしまった。この地方ではほかに昭和4年の「紋別町勢一班」に貝灰工場2とあり、同5年の「北海道商工名録」には紋別に米田一郎が見られる。また、猿払には、大正時代に創業した瀬川貝灰製造所と金井貝灰工場があり、浜佐呂間では、漁業者が共同で貝灰事業を行っていた。戦後の記録では、昭和27年の「紋別町勢要覧」に貝灰52㌧、524,400円の記録が見られるが、小規模なものを含めると紋別には数軒の工場があったらしく、しかし、当地でもホタテ漁の不振から数年おきに禁漁となると、需要環境の変化などもあって、昭和40年代までには、全てが廃業してしまった。 ◆ホタテウロ粕 昔は煮つけなどで平気で食べられ、出稼ぎ漁業者の土産品ともなっていたホタテのウロも、漁獲量の増加とともに加工残さとして大量に発生するようになり、多くのカドミウムを含むことが分かったことで、浜一番の厄介者となってしまったが、紋別市内には、その処理工場があって飼肥料の原材料となっている。昭和11年の「紋別漁業協同組合概況」を見ると「海扇ウロ粕」の記載があり、昭和10年には1,196俵、7,128円と相当の出荷があった。肥沃で肥料知らずであった新開地の北見地方も、大正時代には地力の減退が現れ、昭和になって金肥の使用が広がったのである。当時、気候風土に合い、精製品の運搬も容易く、高価であったハッカの栽培が盛んとなり、世界市場の7割強を産出するに及んで、地元で産出されるホタテの「ウロ粕」を、特効があるとしてハッカに多用していた。 昭和10年頃のホタテ缶詰 開拓使工場の流れをくむ藤野缶詰所 ◆玉冷(冷凍貝柱)とその他の加工 加工・流通が未発達な時代は、ほとんどが中国向けの「乾貝柱」であったが、明治29年に小樽で本格的な缶詰製造が始まり(ただし、明治23年の北海立志図録の広告に室蘭港の帆立鑵詰類が見られる)、当地でも大正11年頃から盛んに生産され出したが(一説に明治37年)、中国では缶詰が嫌われたことから、北米などへの輸出が大きくなったのは、昭和に入ってからであり、その中心地は根室、つづいて北見地方であった。そして冷凍品も昭和3年の根室の試験に始り、のちに根室と紋別に加工場が建設されて、同じく主に北米へと輸出された。昭和40年代には、噴火湾での養殖事業が軌道に乗り、サロマ湖での増養殖が脚光を浴びるようになる。こうしたホタテの増産とともに同代後半にはボイル加工が盛んとなり、同50年代にはオホーツク海での地まき増殖が定着して玉冷加工が急増した。そして昭和53年の噴火湾での貝毒による生鮮出荷の停止を最初に、平成に入るとオホーツク海でも頻発するようになり、ウロを取り除いた「玉冷」は、ますます重要なものとなる。このようにホタテ事業は、むしろその加工に特徴があると云え、玉冷は、漁協工場だけで、全流通の1割強はあると思われ、他の市内一般工場も含めると相当量に上り、また、海外では紋別漁協のニセブランド品が出回るほどである。当地のホタテ年表 西暦 年号 記事 1880明治13年この頃、ナマコ漁で、たくさんホタテを混獲したという 1892明治25年本格的なホタテ漁が始まる 1894明治27年密漁防止のため、ホタテ船の標旗を明確化する 1896明治29年早くもホタテ資源が枯渇し、紋別郡では3区分の輪採とする 1922大正11年この頃からホタテ缶詰が本格的に生産されるようになる 大正中期の頃、小樽高島の「鉄製・紋別八尺」が、道内に普及する 大正期、ホタテ船に改良・川崎船が現れる 1927昭和2年紋別漁業組合長に古屋正気が就任し、脱仕込みの組合員整理を断行 1928昭和3年ホタテの標識放流による貝移動調査(~4年) 1930 昭和5年紋別郡水産会、製品検査を主たる事業として設立 1932昭和7年 紋別を中心に管内漁協連が発足し、乾貝柱の共販を始めるも、このときは失敗に終わる 1934昭和9年紋別漁業組合が中心となり、沙留・雄武とホタテ貝柱出荷組合を発足し、好成績となる サロマ湖でホタテ種苗試験始まる 1935昭和10年ホタテ15,691t水揚げ、戦後長く日本記録となる 水試が北海道漁業缶詰㈱紋別工場でホタテ煮汁の濃縮試験を行い、精製技術が確立 1936昭和11年サロマ湖産ホタテ稚貝の移植地蒔き開始 1937昭和12年ホタテの漁場適地調査 1943昭和18年ホタテの年令組成調査 1951昭和26年ホタテの潜水と桁網による生態調査 1954昭和29年ホタテ乾貝柱が漁連を通じた大洋漁業(マルハ)への一括販売となる 1955昭和30年ホタテ漁が「手捲き式」から「動力式」とし、操業160隻から46隻に整理 移植事業の成績調査 1963昭和38年北大の潜水艇くろしお号が、当地でホタテ潜水調査を行う 1965昭和40年ホタテ漁が全組合員にる共同経営方式となる 1968昭和43年ホタテ乾貝柱が大洋漁業(マルハ)への一括販売から、漁連系統の直販となる 1974昭和49年 ホタテ稚貝放流が本格的に取り組まれる(この年1億2千万粒放流) ホタテ漁禁漁(~50年) 1976昭和51年ホタテ漁、4年輪採制として再開 1878昭和53年 渚滑沖でホタテラーバ採捕(618万粒)、中間育成、越冬飼育(75万粒)に成功 1980昭和55年 紋別漁業協同組合にホタテ養殖部会を設置 2003平成15年全道的にホタテ豊漁、価格が大暴落する




第364回 ホタテの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:02Comments(0)北海道の歴史

2013年08月10日

足寄の奉安庫





朕惟フニ我カ皇祖皇宗… もはや知るも者なく、開きもせず、残念ながら確認できませんが、その造りから奉安庫と推定される足寄町郷土資料館の金庫。




















第362回 奉安庫?      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 17:44Comments(0)北海道の歴史

2013年08月08日

歴史的建築物が倒壊



旧上藻興部駅逓所が倒壊!! 歳月流るるが如し、形あるものはいつか壊れる。年に一度は、現存確認に行っていた西興部村の「旧上藻興部駅逓所」が、倒壊していました。今冬の暴風雪にやられたのでしょう。残念!! 写真は在りし日の駅逓所















































第361回 旧上藻興部駅逓所      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:15Comments(0)北海道の歴史

2013年07月25日

十勝の歴史遺産



十勝探訪 この7月に2週に渡り、道東を巡った。地方には有名・無名、発信力の弱さもあって、まだまだ余り知られていない歴史遺産があり、また、その価値に比べて地元における評価も不十分なことが多い。 ここでは主に建造物について紹介するが、これからも情報の収集、リレーに努めて行きたい。 紋別会員 釣山史  ◆空襲に耐えたJA本別町倉庫 通りかかるとそれは取り壊し中だった。 JA大通り倉庫は、昭和5年に改築された当時としては珍しい木骨コンクリート造り。 昭和20年7月15日、米軍43機によって空爆された本別町では、40名が死亡、中心街の三分の二が焼失し、この倉庫の壁には十勝空襲の傷跡が刻まれていた。 保存を望む声もあったが維持が難しく、解体されることとなり、町歴史民俗資料館友の会ほかは、本別空襲を物語るものとしてビデオや写真に記録した。町では毎年、『わが町の七月十五日展』を開催し、積極的に戦災の歴史を伝えて来ただけに惜しまれる。 取り壊し中の戦災倉庫 くり抜かれて町資料館に保存された壁の一部 ◆旧足寄村役場庁舎 昭和9年に建設された旧村役場庁舎の解体が決まった。平成19年までは、町郷土資料館として利用されていたが、取り壊しを前提に中名寄の旧校舎に移転していた。 老朽化が著しく、厳しい財政事情もあり、また、町の歴史を偲ぶ建造物がほとんど残っていないなか、文化財としての価値も低いと判断したようだ。 町の玄関口に建ち、地域のモニュメントであったものが消える。 上/解体予定の旧村役場庁舎  右/現資料館の展示物 上/奉安庫かも 下/みごとな双口注口土器 ◆旧池北線・陸別駅 平成18年4月に『ふるさと銀河線(旧池北線)』が廃線となったが、その2年後に観光鉄道の『ふるさと銀河線りくべつ鉄道』として復活した。 明治42年に設置の転車台はSLが廃止されてから長く放置されていたが、平成21年に修復され、また、昭和5年に建設された機関庫は木造の矩形庫で、現役の気動車のほか、排雪モーターカーや保線作業車など、鉄道院、鉄道省、そして国鉄の歴史を残している。関寛斎資料館が併設される。 道内最古の転車台と戦前の木造機関庫 ◆国登録有形文化財・双葉幼稚園園舎 フランク・ロイド・ライトのものを参考に特徴あるドーム屋根に三角形の小窓を配して大正11年に完成した。 数多くの園児を送り出して来た十勝地方で最古の幼稚園も少子化の波には勝てず、本年3月をもって、とうとう閉園してしまった。今後の保存と利活用が注目される。 赤い屋根が地域のシンボルだった旧園舎









































第359回 十勝の歴旅      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:56Comments(0)北海道の歴史

2013年07月21日

道東を探索 2

帯広市内です。


この連休に、またまた、道東を探索 2 登録有形文化財 双葉幼稚園園舎 フランク・ロイド・ライトのものを参考に大正11年に完成した。ドームが特徴の幼稚園も、とうとう平成25年3月をもって閉園、今後の保存と利活用が注目される。 キラッと帯広!景観百選 十勝信用組合本店 昭和8年の建築で旧安田銀行帯広支店であった。ほぼ当時のままである。 旧三井金物店(現六花亭ホール) 大正元年に竣工した3連アーチ型の煉瓦造り。  平成22年春に撮影 キラッと帯広!景観百選 帯広市指定文化財 十勝監獄石油庫 北海道集治監十勝分監の施設で唯一残る明治33年に建築の煉瓦造り。獄内で焼かれたという鬼瓦には「水」の文字が。 旧野口医院住宅 昭和4年に建築された野口医院は、平成20年に解体されたが、住宅は今でも現役である。 防空壕跡 昭和19年に部隊が駐留した際、司令部の庭に築かれたもの。















第358回 またまた道東の旅 2      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:27Comments(1)北海道の歴史

2013年07月16日

道東の歴旅



この連休に、またまた、道東を探索 森のクマさんに気を付けながら廃郷を巡る。標茶町下久著呂の旧奉安殿、クマ避けはビートルズのカム・トゥゲザー。 昭和33年に工事着手した白糠線は、同47年までに二又までが開通、終着は北進駅だった。足寄まで結ぶ計画であったが同58年に廃線となる。曲線が美しい第4茶路川橋梁跡(左)ほか、多数の橋梁、ガーターが残る。 無印の名建築を紹介する。帯広市の野口邸(左)と標茶町磯分内の旧理容室。 鶴居村営殖民軌道のガソリン動車。









































第355回 またまた道東の旅       北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)北海道の歴史

2013年05月26日

陶製の二宮尊徳像


ふたつの二宮金次郎像 備前焼とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継ぎ、釉薬を使わず絵付もしない、土味を活かした赤褐色が特徴。江戸時代後期には、池田藩によって統制され、窯元六姓による製造体制となった。この2つは、ともに六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものある。 昭和12年に寄贈された渚滑小学校(紋別市)の二宮尊徳像、近くには奉安殿も残る。 豊似小学校(広尾町)の二宮尊徳像は、 皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建立されたが、たった1年で戦時供出されてしまい、同18年に再び備前焼の陶製が寄贈されたもの。 ふたつの二宮金次郎像 備前焼とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継ぎ、釉薬を使わず絵付もしない、土味を活かした赤褐色が特徴。江戸時代後期には、池田藩によって統制され、窯元六姓による製造体制となった。この2つは、ともに六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものある。 昭和12年に寄贈された渚滑小学校(紋別市)の二宮尊徳像、近くには奉安殿も残る。 豊似小学校(広尾町)の二宮尊徳像は、 皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建立されたが、たった1年で戦時供出されてしまい、同18年に再び備前焼の陶製が寄贈されたもの。





































第349回   陶製の二宮金次郎            北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 09:36Comments(0)北海道の歴史

2013年05月19日

又十差配人・三上佯七


又十藤野の奉納灯籠 松前町字大磯にある永正九年創祀の熊野神社では、文政十一年(1828年)に奉納された祈願柱に、文政十一戌子歳 願主 三上佯七 同又十舩頭中 とある。 一方、場所請負人の村山伝兵衛が寛政八年に創建した斜里神社には、天保五年 (1834年) に又十藤野の差配人・三上伴七と住吉丸船頭・清六が奉納した石灯篭がある。 願主 三上伴七 住吉丸清六 天保五甲牛正月吉日






































第348回   藤野の奉納灯篭           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:26Comments(0)北海道の歴史

2013年05月12日

蝦夷地の大津波


北海道指定有形文化財 光明寺寛保津波のご碑 『福山秘府』によると寛保元(1741)年7月16日に渡島犬島が突如大噴火し、同19日早朝には、松前弁天島から熊石村までの諸村を大津波が襲った。溺死者1、467名、家屋損壊791戸、破船は1、521隻にも上り、アイヌ人の被害は数知れずとしている。また、『津軽藩日記』では最も被害が犬きかった「ゑら町」で「三百七拾人程外旅人ハ拾人程」の死者があったとされ、この津波は遠く青森、佐渡にまで被害をもたらした。津波の高さは熊石で5 ~ 6 m、乙部で10 ~ 15 m、江差-松前で6 ~ 8 m。上ノ国の標高19.5 mの石崎岬では、これを超える津波が押し寄せたという。同8月18日、光善寺の発願により石造りの卒塔婆を建て施餓鬼供養を行い、翌年光善寺が無縁堂を建立した。







第347回   寛保の大津波           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 15:31Comments(0)北海道の歴史

2013年03月23日

武林写真館 弁慶号



『明治十三年小樽入船町付近汽車試運轉ノ景』 明治十三年十月廿四日第二機関車辨慶號試運轉小樽港町表水天宮隧道ヨリ入船町陸橋ヘ差懸リタル図 ~とても貴重で有名な生写真を入手した。 明治13年10月1日、手宮から軌条の敷設が始まった官設幌内線は、熊礁第四隧道までの工事を終えて、この日から試運転を開始した。 今でも山坂が多い小樽であるが、途上にあった頃は、現在の中心街も写真の通りであり、山を削り、丘を切り崩して谷を埋め、凹凸を均したのである。その時のディベロッパーは榎本武揚が率いた北辰社である。 写真台紙に、地方費印、武林支店 札幌北1西7とあり、のちの開道五十周年式典のときに用いたものか? 武林写真館(盛一) 弘前に生まれ安政5間に箱館へ渡り、のち箱館奉行所の足軽となる。明治元年に函館府に、同2年には開拓使に等外で出仕する。この間、出入する外国船船員に写真技術を学んで職を辞し、先駆者の田本研造の支援を得て、明治4年に写真店を開業した。 明治5年、札幌へ向かい南1西3の開拓使脇本陣内に写真館を出店し、技術を請われて開拓使御用技師となり、翌年には一五等出仕を命ぜられたが辞して非職となる。この頃、札幌本府では緊縮財政のために大不況に陥り、地方へ出稼ぎ撮影を行ったりもした。 明治8年に札幌で写真館を再開し、翌年には新たに南3西1へ店を新築して事業を拡大した。明治17年に高弟・三島常盤の長男を養子に迎えて東京へ転出し、麹町に写真館を開業して、同20年には正式に札幌支店を常盤へ譲渡した。 養子の磐雄は無想庵を号す。芥川龍之介や谷崎潤一郎をも驚かす才能に溢れていたが、無軌道な愛欲と放浪、退廃的な人生だった。南大通西2に生誕の碑がある。










































第339回   北海道にはじめて機関車が走った日           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:22Comments(0)北海道の歴史

2013年02月10日

湧別、機雷爆発事件

5月26日の悪夢

下湧別浜、漂着機雷爆発事件 太平洋戦争に突入に、いよいよ戦局が拡大悪化し出した昭和17年5月、湧別のポント浜に漂着した機雷の処理は、戦意高揚の絶好のデモンストレーションとされ、警察署が主導して見学を地元・近隣の学校や住民へ働きかけたことから、見物者のために機雷をロープで引いて移動させるという愚行は、死者106名、負傷者125名という大惨事を生んだ。 当時にあって新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、当局も調査に入るなど全国的に問題視され、本道最初の戦時災害救助法の適用を受けた一大事件である。 今回、事件の様子を記した貴重な当時の書簡を発見したので、原文、そのままに紹介したい。資料中、行方不明とあるのは、木っ端微塵の血肉となって飛散し、遺体すらも確認できなかったことを示しており、余りの悲惨な状況に殺してやると警察官へ詰め寄る者もあったという。 (略)当地沼の上(紋別市)より三里位離れたる下湧別の海岸に六(ママ、四月の誤り)月二十三日頃に機雷二箇、波上に浮んで居るのを見出し 六(ママ、四)月三十日頃に道庁の命に依り警防団の聨合に置て 海岸地で爆発させましたが 決定したる時刻外に爆発したので見物人警防団員は大部分は頓死しました。其の機雷発見した当地の写真を 御送り致します。(略) 写真説明 ①海上に浮き流れて居る機雷を見出し 波打岸より砂上に引上げる警防団員の姿、(オホーツク海) ②海上より引上げが終えて、爆発させる日迄の保存状態{海岸なので自然爆発の恐れが在りきと認め、果の図で保存しました(オホーツク海) ③保存中の機口を拡大に写したるもの、直径三尺一二寸、長五尺内外、 ④他の一箇を地方人が海水浴に来て発見して、機口を明細に見て居る様、此の一箇は①の機雷より三十米位離れた所に大部分は砂に埋まって居ったので三日位後に発見しました。其して五米位移動したる様、 ①の機雷が爆発される時刻は 正午にするとの決定にて 警察より見物に来て良いと他方にふれました。 其れで村民も珍らしき物とて見物に行き七十米位離れた砂丘の上で見て居りましたが 丁度十一時半頃 取手に依り場所が悪いので 警防団員は所長の命に従って十米位の所の平地で爆発させる積りで二三米移動した時、砂上に馬車跡の固く地がなって居る所に来て急に振動した際に爆発したので団員は三四十人居る中に半分以上既死 後十人位は行方不明、町村民五十人既死二十人位不明傷重者(ママ)四五十人、死者総計人百人余との伝言でした
自分も公休日なので見物に行かうと思ったが、ついに行かず命拾をしましたよ。 今月に入ってからも、オホーツク海岸の雄武でも一箇爆発、昨日は常呂で爆発しました。 今未だ海上に浮流れる様が見付かり大変に警戒中です~・・・・











第336回   戦中の機雷爆発事件           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 13:11Comments(0)北海道の歴史

2013年01月20日

旧家・田付一族


蝦夷地随一の旧家、福島屋田付家 本資料は、16世紀末から蝦夷地へ渡り、漁場を開き、運上屋を経営して公に私に北海道の開発に貢献した"田付一族"への褒状と思われる。 ◆田付新助 初代・田付新助は、愛知の柳川に住し、文禄三年(1594年)に士分を離れて松前へ見分に渡り、同志を募って組合・両浜組を組織して海運業を始めた。慶長七年(1602年)に陸奥の鰺ヶ沢に支店を置き、福山以北の各所に漁場を開いた。慶長十五年(1610年)には松前に支店をを設けて福島屋を名乗った。この年、神恵内を開く。 二代略。三代は、天和元年(1681年)に古宇に、元禄元年(1688年)には美国へ場所を開いて家業を拡大、以後の拠点とした。四代は、元禄九年(1696年) に彦根藩の御用金調達方を命ぜられ、また、宝永元年(1704年)に彦根藩の仲介により松前藩の物産移出方となり、大船数隻を建造、松前殿中に席を賜った。 五代は、美国・古宇場所の経営を拡大して運上屋を増設し、カブト越山道・珊内越山道を開削するなどに努めた。宝暦十一年(1761年)に彦根藩の執政から本拠が一揆打ち壊しに遭い、六代では罹災が続いて所有船五隻と傭船一隻を失い、家運は大きく傾いた。 七代に至り、凶漁が重なって事業継続はいよいよ難しくなり、福島屋を彦根藩、松前藩と両浜組が支援、松前支店の雇人差配を排して一族を派遣し、さらに七代・新助が家督を譲って新右衛門と名乗り、松前支店の支配人となった。こうして八代までに積丹・歌棄・寿都・磯谷・古宇の五場所を請負うまでに回復した。 九代・十代(八代)略。十一代は、井伊大老に取り入って蝦夷地経営を拡大しようとしたが、桜田門外の変が勃発、養子の十一代は身を引いて生家に戻った。 十二代は、あらためて同族から選ばれて家督を継ぎ、元治元年(1864年)に彦根藩に金千両、松前藩へ金千両を献上した。慶応元年(1865年)には幕府へ金五百両を奉じ、翌年、松前支店の新右衛門は幕府より苗字を、松前藩からは帯刀を許された。明治2年(1869年)において場所請負制は廃止され、新右衛門は同3年に開拓権小主典に任じられたが、間もなく辞職した。 十三代、明治5年(1872年)に一族の新右衛門が古宇に、新四郎は福山に分家した。同年、新助は小樽に支店を設けて織物商を開いたが、同14年には廃止した。 別家に寿都で活躍した篤志家の田付新兵衛(新八、新太郎)がいる。



























第335回   開拓使褒状           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 14:49Comments(0)北海道の歴史

2012年08月09日

港と船の写真展1

紋別私の博物館コレクション、港と船の写真展
「写真(絵)でつづる紋別港の歴史と北海道にゆかりの船たち」

 この8月4日から8日の間、「航海練習船・日本丸」の紋別寄港に併せて市立博物館において歴史写真展を開催しました。

第一部:北海道と樺太にゆかりの有名な船たち



























































































































































































































































































































































































































































































































































紋別・私の博物館コレクション、港と船の写真展 「写真(絵)でつづる紋別港の歴史と北海道にゆかりの船たち」 この8月4日から8日の間、「航海練習船・日本丸」の紋別寄港に併せて市立博物館において歴史写真展を開催しました。 第一部:北海道と樺太にゆかりの有名な船たち 御召船長者丸 米国艦隊旗艦・ポーハタン号 露国軍艦・ディアナ号とプチャーチン 乗員であった普請役格・運用方の鈴藤勇次郎敏孝が描いた「咸臨丸難航図」 復元された開陽丸 函館決戦図 官軍・朝陽丸の爆沈 函館港における御召艦明治丸と随伴艦 T.W.ブラキストン所有船の画 比羅夫丸 田村丸 開航記念絵葉書 病院船時代の博愛丸 伝説的な漁業船、堤商会の寶壽丸 氷海に浮かぶ特務(砕氷)艦大泊 北洋漁業監視船の金鵄丸と俊鶻丸 稚泊連絡船・亜庭丸 氷海を行く亜庭丸 稚泊連絡船・宗谷丸 先住民の集落と敷香市街を結んだ「おたす丸」 灯台補給船時代の宗谷 南極から帰還した開南丸と白瀬矗 青函連絡船・翔鳳丸 青函連絡船・津軽丸 青函連絡船・大雪丸 青函連絡船・松前丸 青函連絡船・羊蹄丸 青函連絡船・戦前・戦後と活躍した徳寿丸 青函連絡船・貨物船・空知丸 青函連絡船・摩周丸 悲劇の青函連絡船・洞爺丸 転覆して、お腹を見せる洞爺丸



第305回  もんべつの港と船の写真展          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 05:00Comments(0)北海道の歴史

2012年07月09日

北海道の川崎船2

道内でも、既に江戸後期の鱈釣漁に川崎船が使われていたと云う。 図1 遠洋漁業調査報告/大正8年 図2 遠洋漁業調査報告/大正8年 ◆補追 ・図1漁船の建造地は小樽高島、道庁令水産業補助規則により150円の交付を受けた大型の改良川崎船。鱈延縄、鰈手繰網、鰊刺網及び烏賊釣漁に使用され、このとき同型船は8隻あった。縦帆に改良の必要があるとしている。 図3 改訂 北海道拓殖の進歩/明治45年 図4 網走支庁管内概況/昭和9年 ・図2漁船の建造地は根室で、根室、国後、択捉において鱈延縄を行った。大中小あるも全て同型で、このとき93隻があった。 ・ 道庁は、明治37年から各支庁へ水産巡回教師を派遣し、短期水産講習会を開催した。図3漁船は茅部郡水産組合の改良川崎船による鰈打瀬網の実地講習である。 ・図4は、昭和初期の湧別浜でホタテ桁網漁を行う川崎船。

第303回 北海道、川崎船の普及   

Posted by 釣山 史 at 20:35Comments(0)北海道の歴史

2012年06月26日

北海道の川崎船1

 この6月23日から24日にかけ、北海道史研究協議会の研究大会で小発表をしました。






















































































































































































 第302回 北海道、川崎船の伝播 

明治の漁業、川崎船調査とブラキストンの設計図 こんにちは紋別市の釣山です。今回は明治時代、内地からの漁業移民が次第に増加して、川崎型の漁船が道内でも見られるようになった頃のお話しで、ホタテ曳きやカレイ曳きを調べた折に触れた資料の紹介です。ついでの寄せ集め情報で、内容には偏りもあり、検証も不十分ですので、ご容赦ください。のちに最後の和船と呼ばれた、蟹工船に使用された焼玉エンジン搭載の川崎船は有名です。この川崎型の漁船には越前、越後、庄内、津軽等々、いろいろありますが、2枚棚構造の川崎船は浸水に強く堅牢で船足も早く、何より風向に逆走ができて、また、帆力はホタテ曳きやカレイ曳きのときに大きな力となったので、北海の荒海には欠かせないものとなりました。明治22年の水産調査では、すでに相当数の川崎船が北海道へやって来ていたことが分かります。この頃の北海道の漁業ですが、前時代からサケ・マス、ニシンの蝦夷の三漁と呼ばれていたものも、自由民の往来が盛んになった明治の中期以降にもなりますとだんだんと多様化して行きます。北海道へ移住した漁民の出身は、青森、秋田、新潟の順に多く、ニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立ちます。しかし、北陸漁民が北海道の漁業へ与えたものは大きく、小樽高島を例に見ますと移住者は新潟県人を主に富山、石川などからも来道し、1~2度の試験操業を経たのちに定住したもので、沿岸漁業だけではなく沖合漁業の経験もありました。この頃の各地の漁場の状況を見ますと、明治20年代には、北海道で最も特徴的な漁業であるホタテ桁網漁がにわかに勃興し、石川県等北陸人らによるホタテ船団が道内各地に進出して乾貝柱を精製する特殊な技能集団を形成しました。現在のオホーツク海のホタテ漁業の興隆は、このときに始まります。後志地方では越後の川崎船によるスケソウ延縄漁が導入され、釧路では越後漁民による沖手繰が盛んになりました。浦河地方は、だんだんと沿岸漁業が薄くなるにつれ、次第に沖合漁業が盛んとなり、旧来の持符船から川崎船に変更して熟練した越前・佐渡・庄内からの漁夫を雇い入れるようになりました。浜中では、従来、越後の川崎船を使ったマス延縄漁を行っていましたが、漁場が次第に遠くなったので、大正初年頃までに同地水産組合の模範改良漁船を模した船を使用するようになりました。
 この頃は北海道庁が、盛んに全国各地の漁船の調査を行い、改良試験船の建造を繰り返して、漁労上の特質を検証しました。明治36年には水産補助を整備して、将来地方の模範となるべき新規の漁船へ建造費の二分の一を交付することとしました。浜中の模範改良漁船とはこのことと思われます。こうして明治末年頃には年に十数隻の補助船が新造されるようになり、道内各地で北海道型とも云える「改良・川崎船」が見られるようになりました。さて、ここの北水協会報告に掲載された改良・川崎船にはセンターボード(落とし板)が搭載されています。また、帆もスクーネル型を意識しており、西洋型を取り入れようとしたもので、ブラキストンの設計船にもセンターボードが付いていて、ひょっとしてこれを参考にしたのかも知れません。貿易商であるブラキストンは、造船の重要性を唱えて、明治13年にはブラキストンがスポンサーとなった帆船競争を開催していました。そして、この図面は、道庁の役人が江戸時代から大工として函館で活躍していた辻松之丞に、各地漁船の得失を聞き取りした際、入手したものと考えられます。 明治の漁業、川崎船調査とブラキストンの設計図 紋別市  釣山史 蟹工船に使われた発動機川崎船/漁業発達史蟹缶詰編/昭和19年 紋別前浜のホタテ曳き船/大正絵はがき 私の興味のある分野は、暮らしの中での歴史、生活史と産業史です。紋別にあり、現在は水産業に関わっているので漁業・加工史が中心で、○ホタテ曳きとカレイ曳きの歴史  ○戦前の東京築地への鮮魚出荷  ○ニシン角網の濫觴 …等々を調べています。 さて、今回は明治時代、内地からの漁業入殖が盛んになり、川崎型の漁船が北海道内でも見られるようになった頃のお話しで、ホタテ曳きやカレイ曳きを調べた折に触れた資料の紹介です。川崎船の図面は、なかなか見られないもので、今後の参考となるでしょう。 ◆ホタテ桁網漁 北海道で最も特徴的な漁業は、ホタテ桁網漁である。鳥取県では貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云うらしい。今のように精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、また、若狭湾では、古くから「カレイ曳き」が行われていて、イタヤガイ漁も盛んであった。そして現在のオホーツク海での「ホタテ漁」の基礎を作ったのは、この石川県等北陸人であり、明治に入って川崎船による桁引船を巧みに操り、同20年代後半には小樽を拠点に北海道の各地に進出して乾貝柱を精製する特殊な技能集団を形成した。小樽高島の船団が大正6年に日高方面に出稼ぎしたとき、美々川・千歳川を経由して石狩川を下り、帰路をわずか5日間で走破したことなどは、その操船技術の高さを示している。 ◆漁業の多様化、川崎船の伝播 前時代から蝦夷の三漁と呼ばれたサケ・マス、ニシン漁も明治中期には多様化して行く。スケソウ延縄漁の発祥は、明治16年頃に川崎船を用いた新潟の佐渡とされ、北海道では、同35年に岩内の増田庄吉が、技術の習得のために佐渡へ渡り、翌年には着業して、以後、後志地方で盛んに行われるようになった。また、天塩地方では庄内から来た漁民が盛んにタラを漁獲したと云う。釧路においては、明治19年の川崎船による岡手繰をはじめに越後漁民による沖手繰が盛んになり、余市では、明治42年頃に富山人がカレイ刺網を始めて徐々に着業者も増え、大正2・3年頃には小型川崎船を用いるようになっていた。浜中では、従来、小型の越後川崎船をもってマス延縄漁を行っていたが、次第に漁場が遠くなったので、大正初年頃までに同地水産組合の模範改良漁船を模して使用するようになった。また、浦河地方は、沿岸での漁獲が少しずつ薄くなったのに対応し、年々、タラ漁など沖合漁業が盛んになり、旧来の持符船から川崎船にあらためて、熟練した越前・佐渡・庄内からの漁夫を雇い入れた。 鱈漁概表抜粋(明治22年調査)/北海道漁業志稿 ◆漁船調査とブラキストンの設計図 ア)漁船の得失調査 北水協会は明治24年に漁業者の技術向上を目的とした競技会を開催し、種目には川崎船の帆走と艪漕ぎの競技があった。さて、明治24年の北水協会報告第六十七号には「漁船構造法調査」が報告されている。このときは技手を函館へ派遣し、辻造船所(高田屋が没落後の造船は、もっぱら辻松之丞の手によった。続豊治と松之丞が協力し、安政4年にスクーネル型・箱館丸を竣工させた)において聞き取りを行い、各地からの出稼ぎ船を実見し、得失を見分した結果、“其構造は地方に依り多少異同ありて利害も亦た随て同ならず 略 各地漁船中稍他に勝りたるは越前川崎船”としている。また、面白いことに、ここで彼のブラキストン設計の漁船を紹介している。このブラキストンは貿易商であり、造船の重要性を唱えて、明治13年にはブラキストンがスポンサーとなった帆船競争を開催していた。これらのほかこの頃の漁船調査では、川崎船の本場日本海の越前、越後のほか、宮城、千葉、鳥取等の改良船のこと、とりわけ山口県の遠洋漁船について度々触れている。 明治22年調査の川崎船 北海道水産豫察調査報告/明治25年 ブラキストン設計の漁船図 北水協会報告第六十七号/明治24年 イ)改良船の走行・漁労試験 道庁は、漁業の近代化を図るため、漁船に西洋型を取り入れるべく、明治20年に横須賀造船所で「スクーネル型(2本以上のマストに縦帆を張った船)」の試験船を建造、翌年にはあらたに「付属ドーリー(車輪付)船」2隻を造り、これを伴い鱈漁場の探査を行った。さらに同22年に浦河の漁民へ補助金を交付し、改良漁船を建造させた。明治25年には函館において改良・川崎船2隻を建造、翌年、函館から根室、そして千島へと航海漁労試験を実施し、同27年にはさらに改良を加えて、小樽沖で走行試験を行ったが、速力と安定性は従前に比べて目を見張るものがあった。ことに明治28年の根室目梨沖でのタラの漁労試験では、“改良を要すると認むる要点未だ発見せず”としている。 ◆最後に 北海道へ移住した漁民の出身は、青森、秋田、新潟の順に多く、ニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立つ。しかし、割合は小さくても、北陸人が北海道の漁業へ与えたものは大きく、実際、明治中期までは、北陸人の比率が高かった。小樽高島を例に見ると移住者は新潟県人を主に富山、石川などから来道し、1~2度の試験操業を経たのちに定住したもので、沿岸漁業だけではなく沖合漁業の経験もあった。川崎型の漁船には越前、越後、庄内、津軽等の種々があり、2枚棚構造の川崎船は浸水に強く堅牢で、何より唯一、風向に逆走して船足も早かったので、北海の荒海には欠かせないものとなり、また、帆力はホタテ曳きやカレイ曳きにおいて大きな力となった。明治36年には水産業補助の規定を改定して、将来地方の模範となるべき新規の漁船へ建造費の二分の一を交付した。こうして明治末年頃には年に十数隻の補助船が新造されるようになり、道内各地で北海道型とも云える「改良・川崎船」が見られることになった。最後の和船と呼ばれる、蟹工船に使用された焼玉エンジンの川崎船は有名である。 北海道水産雑誌第十一号/明治27年 ‐参考文献‐ 北水協会報告号外、同第六十七号/明治24年  北水協会報告第七拾参号/明治25年  北海道水産豫察調査報告/明治25年  北海道水産雑誌第弐号、同第四号、同第七号/明治26年  開拓指鍼北海道通覧/明治26年  北海道水産雑誌第十一号/明治27年  北海道水産雑誌第弐拾参号/明治28年  殖民広報第十三号/明治36年  殖民広報第六十六号/明治45年 殖民広報第八十二号/大正4年  北海道移民史/昭和9年  北海道漁業志稿/昭和10年  漁業発達史蟹缶詰編/昭和19年  北海道漁業史/昭和32年  釧路市史/昭和32年  余市漁業発達史/昭和41年  蝦夷地の中の日本/昭和54年  函館市史/昭和55年  新高島町史/昭和61年  試験研究は今No.168/平成5年  ほか  鳥取県の改良・川崎船 北水協会報告第七拾参号/明治25年
          

Posted by 釣山 史 at 21:18Comments(0)北海道の歴史

2012年04月04日

小氷期のアイヌ時代

第27回北方圏国際シンポジウム、厳寒だったアイヌ時代 平成24年2月20日、地球温暖化に最も敏感に反応すると云う流氷が訪れる紋別市の文化会館において、北海道開拓記念館の添田雄二学芸員が小氷期のアイヌ時代について講演した。 千歳川流域や厚岸湾岸での周氷河現象、サロマ湖等での珪藻遺骸による海面進退の跡、貝殻の元素分析が示した今よりも短かった夏、擦文からアイヌ時代にかけての寒冷作物ヒエへの転換、古文書に残る気象現象等の記録を紹介した。 これら最新の自然科学と考古学とをマッチングすることで、特に17世紀が寒冷であったことを表し、この生活環境の悪化がアイヌ人と松前藩との抗争の一端となったことを示唆した。 北海道文化財保護協会地域通信員 釣山 史








第299回 厳寒だったアイヌ時代          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:22Comments(0)北海道の歴史

2011年08月24日

道東北の歴史遺産③

戦時編③

 掩体壕とトーチカ 太平洋戦争では、道東北の各地の草原に飛行場が建設され、終戦間際の海岸線には多くのトーチカが築かれた。網走市内には8つが現存する。 旧海軍美幌航空隊第二飛行基地(大空町)  旧陸軍航空隊計根別第一飛行場(別海町) ~掩体壕とは飛行機の格納壕のこと 浜藻琴 網走港帽子岩



























第266回 北海道の陸海軍基地          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 09:00Comments(0)北海道の歴史

2011年08月22日

道東北の歴史遺産②

戦時編②


 奉安殿(名寄市)と二宮尊徳像(鹿追町) 奉安殿は、戦前に天皇・皇后両陛下の「御真影(写真)」や「教育勅語」を保管した。東風連の奉安殿は、戦後に神社の内陣へ転用され、保存状態は良く、外観も美しい。 戦前には勤勉実直、質素倹約の模範として、各地に銅像が建立された。この尊徳像は、いわゆる金属製に代わる陶製の「代用品」が現存する珍しいもの。 北鹿追小学校の尊徳像 東風連小学校の旧奉安殿(東風連神社)



























第265回 朕、憶に          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 09:00Comments(0)北海道の歴史

2011年08月20日

道東北の歴史遺産①

戦時編①


 大岬旧海軍望楼と旧大湊海軍通信隊稚内派遣隊幕別送信所(稚内市) 幕別送信所 大岬旧海軍望楼 望楼は、稚内市有形文化財で市内最古の歴史的建造物、明治35年にバルチック艦隊の監視用に建設された。そして大本営と直結する重要施設であった送信所跡には、昭和6年に建設の無線施設と隊舎などが残る。



























第264回 本土、最北の防人          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 09:00Comments(0)北海道の歴史

2011年07月26日

史跡・大船遺跡

 この7月10日に、当協会は南茅部を訪ねました。
北海道文化財保護協会の巡見2 縄文遺跡の里/函館市南茅部 これはレプリカ 国史跡・大船遺跡と南茅部の遺跡群 墓地の造成に伴う平成8年の発掘調査で保存状態の良い大規模な集落跡が確認されて、「大船遺跡」は全国から注目されることになり、平成13年には国史跡となった。大船遺跡は、縄文中期(約5,500~4,000年前)を中心としたもので、また、近くの著保内野遺跡で発見されて、平成19年に国宝となった中空土偶(茅空・かっくう)は有名である。 大船C遺跡では、縄文時代の農耕を示唆する炭化したヒエやソバ、特殊な技術集団を思わせるアスファルト工房の跡などの発見があり、また、垣の島AとB遺跡においては、極めて資料価値の高い、世界最古の漆塗りの装身具や同じく漆塗りの注口土器、足形付土板なども出土したが、残念なことに、これらは平成14年12月の火災で破損、焼失してしまった。 さて、国宝・中空土偶が出土したのは昭和50年で、地元の小板アエさんがイモ掘りの最中に発見した。その時、不気味に思ったアエさんは、お寺に預けようかとも考えたが、中学生の娘さんが埴輪ではないかと町教委に届出たことで、高額な金額を示して買い求めようとする者、研究者や文化庁のお役人が入れ替わり立ち替わり訪れるなど大きな話題となり、昭和54年には国指定重要文化財となった。 「かっくう」は約3500年前のものと推定され、髪飾りは破損し手両は意図的に破壊され失われているが、高さ43センチ、幅20センチのほぼ全身が出土し、美しい文様がくっきりと刻まれ、漆塗りであった痕跡が見て取れる北の匠、縄文のビーナスである。 平成14年7月に整備途中で罹災前の当地を訪れたことがあるが、今回は、函館市教委さんの御好意で、国宝となった「かっくう」を特別に拝見させて頂いた。感謝♡


























































第258回 道南の縄文遺跡の里          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:55Comments(0)北海道の歴史

2011年07月16日

又十・藤野番屋

◆又十藤野家/(またじゅう)/柏屋/白木屋、(喜兵衛、伊兵衛、本家=四郎兵衛) 近江の4代四郎兵衛の次男・喜兵衛は、天明元年(1781年)に福山(松前)の親族へ奉公にあがり、寛政12年(1800年)に独立して回漕業を興す。屋号を柏屋、家印は又十とした。 はじめて文化3年(1806年)に余市場所を請負い、後に宗谷・斜里、国後、根室、利尻・礼文など、蝦夷地の漁場の大よそ1/4を経営する一大場所請負人となり、藤野漁場は鮭小舌網、鰊角網を開発するなど、漁業上の大変革をもたらした。最初、福山に本店、箱館を支店としたが、後年、箱館を本店とし、蝦夷地の各所に支店や出張所を置き、明治に入ってからは白木屋と称して小間物店を開業、奥地の商店の先駆けとなった。 明治の中期以降、次第にオホーツク沿岸の漁場が不振に陥ると、北洋のカムチャッカへ進出し、道内の各地に牧場を開設するなど事業の多角化を図ったが、家運の回復とはならず、ついに大正5年には全事業を休止するに至り、一部農場の小作経営を残して、本拠の近江へ引き上げてしまった。 分家の藤野辰次郎が開拓使から引き継いだ別海缶詰所(藤野缶罐所)などは有名である。 藤野家紋別番屋跡 旧藤野家網走漁業店 大きく改築されているが、望楼など外観は当時を偲ばせる 斜里駅逓跡 旧藤野家迎賓館 明治28年に建築の建物は、現在は網走神社の社務所 旧藤野社宅 明治41年に函館元町に建築の旧社宅2棟、一角が社用地 旧別海藤野缶詰所と昭和10年頃のホタテ缶詰 外装は新しいが、躯体部分の多くは当時のもの































第257回 北海道随一の藤野漁場          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:23Comments(0)北海道の歴史

2011年07月13日

鷲ノ木遺跡

鷲ノ木環状列石 北海道文化財保護協会の巡見1 高速道路の工事に合わせて平成13年に始まった発掘調査で発見された「鷲ノ木遺跡」は、海岸から約1kmほど内陸に入った桂川河畔の小高い丘に位置し、竪穴土壙墓や竪穴住居が確認され、翌年には、その北側に巨大なストーン・サークル(環状列石)が発見された。 平成18年には国指定史跡となった鷲ノ木遺跡の環状列石は、大よそ4千年前の縄文後期のもので、駒ケ岳の厚い降灰によって耕作もされずに保護され、保存状態は良好である。それは20~60㌢の石が3重のやや楕円形に並べられ、長軸が約37㍍、短軸は約34㍍ある。石の先端は、火山灰に埋まり切らずに顔を出していた。 環状列石の周りに竪穴式住居などはないが、直近に大小10個の土壙墓があることから、葬送や祭祀を行う特別なところだったと推測される。 旧幕府の榎本軍が上陸したことで知られる森町の鷲の木。7月8日に当協会は、この地を訪問しました。森町教委さんの特別の御計らいで、防護シートを一部めくって、見学することが出来ました。感謝!! 遺跡が取り壊される恐れもあったが、道路工事は地下をくぐるものとなった。


























































第256回 森町の古代遺跡          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:27Comments(0)北海道の歴史

2011年06月27日

鴻之舞の硫酸瓶

鴻之舞金山の硫酸瓶

 小野田セメント(太平洋セメント)で有名な山口県山陽小野田市は、また、明治の早くに化学工場が建設されて、硫酸、曹達などが製造された。大正には清酒会社が、焼酎用の容器の生産を始めたことから、硫酸瓶や焼酎瓶の生産が盛んとなり、特に皿山の硫酸瓶は高い国内シェアを誇ったが、それも昭和30年代には衰退して行く。
 この鴻之金山の硫酸瓶も、皿山産と思われる(知見に乏しいので)。





































































第253回 石見の硫酸瓶         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:59Comments(0)北海道の歴史

2011年06月26日

ホタテ加工(再)

◆ホタテ貝の加工史概略(再) 古くからのホタテ(イタヤガイ)漁撈を歌った鳥取県の“貝殻節”は有名で、白乾(乾貝柱)の発祥も鳥取県だと云う。明治初期の北海道において、着業が間もない頃のホタテ漁は、食器や装飾品として、むしろ貝殻の利用を目的に漁獲されていたもので、のちに専業的にホタテ漁が盛んとなったのは、今のような乾貝柱の精製が広がったことによる。北海道で別名「白乾」と云われる今のような貝柱のみを精製したホタテの乾貝柱は、明治12年頃には試作されて、同21~22年頃から本格的に製造されたが、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って、「白乾」の製造法を熱心に指導して回ったことから、乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品となり、その後の漁獲規制や地まきによる増養殖事業の定着もあって、オホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となった。加工・流通が未発達な時代は、ほとんどが中国向けの「乾貝柱」であったが、明治29年に小樽で本格的なホタテ缶詰の製造が始まったと云われ(ただし、明治23年の北海立志図録の広告に室蘭港・竹村糾太郎、帆立鑵詰類、帆立うに漬などが見られる)、紋別でも大正11年から試作が行われたりもしたが(一説に明治37年)、中国では缶詰が嫌われたことから、北米などへの輸出が盛んとなったのは、昭和に入ってからであり、その中心地は根室、つづいて北見地方であった。そして冷凍ホタテも昭和3年の根室の試験に始り、のちに根室と紋別に加工場が建設されて、同じく主に北米へと輸出された。昭和40年代には、噴火湾での養殖事業が軌道に乗り、サロマ湖での増養殖が脚光を浴びるようになる。こうしてホタテ生産の急増とともに同代後半にはボイル加工が盛んとなって、同50年代にはオホーツク海での地まき養殖が定着し、玉冷加工が急増した。そして昭和53年の噴火湾での貝毒による生鮮出荷の停止を最初に、平成に入るとオホーツク海でも頻発するようになり、ウロを取り除いた「玉冷」は、ますます重要なものとなった。 蒔絵ホタテ貝皿・明治初期/室蘭市民俗資料館 開拓使別海缶詰所の流れを汲む藤野缶詰所 スター印のホタテ缶詰/昭和10年頃  筆者蔵
















































第252回 ホタテ貝の加工         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 22:20Comments(0)北海道の歴史

2011年05月26日

奥行臼が国定史跡へ

祝旧奥行臼駅逓所が国指定史跡へ!! 先だって、別海町の野付通行屋跡の巡見に参加した。それは北海道文化財保護協会の仲間らと旧奥行臼駅逓所の調査報告書の作成を、お手伝いした経緯からで、この度、国指定史跡に答申されたことは、非常に喜ばしく、学芸員さんから以下のコメントを頂いた。『別海町にある旧奥行臼駅逓所が国の史跡に指定されることが決まりました。奥行臼駅逓所は明治43年に山崎藤次郎を駅逓取扱人として開設され、昭和5年に廃止されるまで、交通の要衝として別海村の内陸部開拓に重要な役割を果たしました。今回、史跡として指定された面積は凡そ6㌶で、道指定有形文化財である駅逓所本体、馬小屋2棟、倉庫1棟は勿論のこと、浜中や現在の別海市街への旧道跡や昔ながらの景観を保っている後背地を含んでいます。駅逓所の痛みは激しく、大規模な修繕が急務となっています。この史跡指定により駅逓所の恒久的な保存への道が開け、町民一同とても喜んでいます。今後は、史跡の整備に向けた計画を策定して行くことになります。貴協会におかれましては、史跡整備に当たってのご助言やご意見を頂ければ幸いです。』◆旧奥行臼駅逓所 旧奥行臼駅逓所は、明治43年(1910)から昭和5年(1930)までの間、人馬の継ぎ立てと宿泊、物資の逓送等の便宜を図った施設であり、北海道東部の根室と別海の中間、根室湾から約9㎞内陸の別海町奥行に所在する。駅逓所とは、近代の北海道において、交通不便の地に駅舎や人馬等を備え、宿泊・輸送等の便宜を図った施設である。駅逓所開設に際しては、地元で牧畜業を営む山崎藤次郎が駅逓取扱人となり、その自宅が駅舎として使用された。駅舎は、明治末から大正初期の増築を経て、大正9年(1920)には客室として2階建ての寄棟が増築され、物資運搬等の拠点として機能した。その後、殖民軌道根室線の開通や、内陸部への入植が進んだことから昭和5年に廃止された。当時を偲ばせるものとして、駅舎1棟、馬屋2棟、倉庫1棟が現存する。このうち駅舎は、木造寄棟造(一部切妻造)二階建て建物であり、駅逓最盛期の大正時代の趣きを残す。周囲には旧道や駅逓所時代以来の牧草地が広がり、往時の歴史的景観を今に良く伝えているほか、古文書,調度品等も多数残されている。このように、旧奥行臼駅逓所は、我が国近代の北海道開拓の歴史を知る上で貴重である。平成23年5月20日 文化庁HPから




















































第246回 別海の駅逓所       北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 23:10Comments(0)北海道の歴史

2011年05月03日

斜里の駅逓

最奥の駅逓・補追斜里駅逓所

 斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓が、斜里駅逓所である。
 この駅逓所は、北見國のオホーツク沿線の北海岸道路を経て根室國を結んだもので、市街から越川、標津へと至る根室街道に位置する。番屋跡は、市街東部のさらに海岸線に近い。
 駅逓所は、昭和4年に鉄道が開通して廃止された。













第240回 斜里番屋の駅逓    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:34Comments(0)北海道の歴史

2011年04月22日

野付半島の探索

~すばらしい!! 野付通行屋・番屋跡遺跡めぐり 

第238回 別海の遺跡旅        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

第282回へ再編集移転しました。   

Posted by 釣山 史 at 20:30Comments(0)北海道の歴史

2011年04月08日

魅惑の縄文 十勝編②

~幕別町ふるさと館

〒089-0571
 北海道中川郡幕別町字依田384番地の3 ℡(0155)56-3117
 開館:午前9時~午後5時
 休館:月・火、年末年始(12月30日~1月5日)
 料金:小・中学生100円、高校生以上200円


 宇宙人にも似た”斜光器(しゃこうき)土偶“は、よく知られているが、縄文早期の初期型は板状であったもので、これを”板状(ばんじょう)土偶“といい、東日本において、特に青森県や北海道南部で発達した。なかでも「青森県三内丸山遺跡」から出土した大型板状土偶は、重要文化財として有名だ。
 そして北海道では、蘭越のナイベツ川付近で発見された”男性形土偶“や鷲ノ木遺跡で出土の板状土偶が知られており、最近では、平成20年に余市町栄町7遺跡から”女性形土偶“が発見された。
 しかし、板状土偶の中心は道南地方であり、八雲町熊石鮎川洞窟遺跡、七飯町大中山遺跡、木古内町札苅遺跡、福島町館崎遺跡などがあげられ、そういう意味から、道東十勝の幕別町札内N遺跡で発見された板状土偶は、非常に珍しく貴重なもので、”船形土製品”といっしょに見れる。




























第235回 幕別の縄文        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/






  

Posted by 釣山 史 at 21:31Comments(0)北海道の歴史

2011年03月28日

福島県の興復社に学べ

◆相次ぐ飢きんの窮乏から復活した十勝の「興復社」

 二宮尊徳の教えを実践し成功させた豊頃町の二宮地区の農民は、この大震災で被災した福島県の岩城、相馬からの団体移住者の後裔である。

 「二宮尊徳」の弟子であった相馬中村藩の「富田高慶」は、天明・天保の飢きんで疲弊した藩領を立ち直させるために、尊徳の「報徳仕法(御仕法)」の導入を提言、勤労・分度・推譲を基本理念に、経済の復興と安定を図った。
 報徳仕法とは、各自に見合った支出の範囲・限度を定め、その余剰を将来に向け、他人のために拠出すること。誠実な心を持って勤勉、質素倹約し、凶作・災害に備えたのである。
 この御仕法の実践は、
 ・勤勉者を表彰するなどして労働意欲を向上させる。
 ・お金や農具を与えるなど困窮者を救済する。
 ・堤防や用水路の新修築を行う。
 というものであったが、明治4年の廃藩置県で廃止され、それは富田高慶が社長となった「興復社」による磐前県内(のちの福島県)の開墾事業として引き継がれたが、維新の改編期の混乱もあり、開墾料の返納金(報徳金)の未納によって資金難となり、同20年には事業の一切を中止せざる得なかった。
 二代目の社長となった尊徳の孫の「二宮尊親」は、県下の困窮民の活路を、新天地の北海道に求めて自作農を行おうと、明治29年に北海道各地を視察・探検し、開墾地を十勝の牛首別原野(現豊頃町)に選定した。翌年には自ら15戸を率いて入殖し、10年後には、移住戸数160戸958人、開墾地844町歩の一大農場を形成した。十勝の先住者の依田勉三や関寛斎とも交流があった。


豊頃町二宮地区にある二宮尊親の墓碑と胸像






















供出から戦後に再建された豊頃小学校の二宮金次郎像




















第232回 復興に向け、ガンバレ東北        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
   

Posted by 釣山 史 at 06:09Comments(0)北海道の歴史

2011年03月09日

川崎船とホタテ船



































































































































 興味深い「貝殻引き」 鳥取県民謡 貝殻節 何の因果で 貝殻こぎなろうたカワイヤノー カワイヤノー 色は黒なる 身はやせるヤサホーエイヤー ホーエヤエーエ ヨイヤサノサッサ ヤンサノエーエ 浜村沖から 貝殻が招く カワイヤノー カワイヤノー 嬶(かか)よ飯炊け 出にゃならぬ ヤサホーエイヤーホーエヤエーエ ヨイヤサノサッサヤンサノエーエ 鳥取県では、貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云う らしい。 昔の帆立貝(イタヤガイ)の漁労を歌った、鳥取県は浜村温泉の“民謡・貝殻節“は、余りにも有名である。あと、古くからのイタヤガイ漁で知られるのが石川県であり、今のような精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、近代的なトロール漁業の先進地でもあり、石川県では古くから「カレイ引き」が行われていて、また、現在のオホーツク海での「ホタテ桁網漁業」の基礎を作ったのは、石川県人だとも云う。 さて、明治に入って、貝引き船を巧みに操った石川県人は、北海道各地に出稼し、特殊な技能集団を形成していたもので、非常に興味深いものがあるが、しかし、ニシン漁労のような、この分野での研究は、余りなされてはいない。 ホタテ漁の漁業集団としての考察 和人から見た蝦夷地の開発は、まずは海産物を中心としたアイヌ人との交換交易によるものだったが、当初は対等であったものが、次第に和人の収奪的、アイヌ人の従属的なものとなり、大商人による場所請負制度が確立すると、昆布漁やサケマス漁などへの労力として使役され、非常に過酷なものとなってしまった。そして、いわゆる「俵もの」と呼ばれた重要な輸出品の多くが蝦夷地より、北前船によって送られたものだった。 江戸時代の後期には、「ニシン漁」が盛んになり、「江差の春は江戸にもない」と歌われて、明治・大正のニシン御殿にも見られるような華やかな文化が花咲いたが、これら内地からの地縁・血縁による出稼ぎ集団は、母村からの文化と風習を道内に呼び込んだ。 いっぽう、ホタテ漁を代表とするオホーツク海の「桁網漁業」は、明治に入って石川県人などの北陸衆たち技能集団によって開発されたが、この分野における研究は余りなされていない。 ◆ホタテ漁業の発祥は? 鳥取県では、貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云うらしい。 昔の帆立貝(イタヤガイ)の漁労を歌った、鳥取県は浜村温泉の“民謡・貝殻節“は、余りにも有名で、毎年8月には「貝殻節祭り」が行われている。 今のように精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、また、若狭湾では、古くから「カレイ引き」が行われていて、イタヤガイ漁も盛んだった。 そして現在のオホーツク海での「ホタテ漁」の基礎を作ったのは、この石川県人等であり、明治に入って川崎船による桁引船を巧みに操った石川県人は、北海道各地に出稼し、特殊な技能集団を形成していたのだった。 出稼ぎするときには、船一艘に男が5人、女は4人くらいが乗り、作業用のニシン釜ほか道具や身の回り品を船に積んで、乾貝柱の煮炊き用の燃料は現地で調達した。 ◆小樽船団の千歳川下りと川崎船 当初の帆立漁の中心は後志であったが、乱獲から明治20年代後半には、早くも小樽を基点として全道に回航するようになった。大正6年のお話として、祝津15艘、高島7艘の船団が日高まで出漁し、「紋別八尺」を使って大漁したと云い、終漁後は、勇払川をさかのぼり、千歳川・石狩川を下って小樽へ帰ったという逸話が残っている。このように余りに小樽衆が巧みに操船するので、猿払などでは、資源の枯渇を心配して入漁を拒否するようになってしまった。船は、小さいので、こぎ手2人に船頭が1人、普通は、こぎ手が4人と船頭1人の5人組だった。 この走行性に優れた「川崎船」を巧みに操った漁業集団を「川崎衆」と云い、それは河口に住み『川の先』で漁を行うからとも云う。その発祥には諸説があり、有力なのは新潟県、あるいは福井県などが考えられる。 道内において明治20年代に広まった「川崎船」は、当時の道庁の記録によると『越前、越後、庄内、津軽の種々があるが大同小異、その中で若干、勝っているのが越前の川崎船である』としており、道庁では同22年に、それら各地の得失を勘案した「改良・川崎船」3隻を建造した。 小樽や釧路などに新潟県人が多いせいか、北海道では、川崎船はオラガ新潟と良く言われるが、明治末期から大正期には、補助を受けた「改良・川崎船」が、たくさん新造されるようになって、全国各地の得失を取り入れた北海道型が多く見られるようになった。 ◆最後に 北海道へ移住した漁民の出身地は、青森、秋田、新潟の順に多い。明治に入ってニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、先にも述べたが、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立つ。しかし、割合は大きくなくても、北陸人が北海道の漁業へ与えたものは大きく、実際、明治中期までは、北陸人の比率が高かった。 また、お気づきのとおり、ホタテ漁業者を共通するひとつの集団と考えるとき、①曳き船の得意な集団、②川崎船団としての集団のふたつの括りが見えて来る。このうち「川崎衆」は、ホタテ漁、小手繰漁、そして蟹工船事業に関係する重要なファクターであっても、その川崎船の発祥自体が未だナゾとされ、これらの関係性の解明が待たれる。 躍進北見 人物と事業/昭和15年から 昭和初年頃の湧別浜? 明治22年の調査 北海道水産予察調査報告/明治25年 明治時代の漁民の入殖者と小樽高島船団の出稼ぎ 小樽ホタテ船団(川崎船)の活躍範囲(明治37年~昭和16年) 新高島町史/昭和61年 北海道移民史/昭和9年
第230回 最初期のホタテ漁        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 08:04Comments(0)北海道の歴史