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文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2016年09月19日

士別市 教信寺の象さん 


士別市 教信寺の木鼻は象さん 北海道で象鼻は余り見かけない 左右の形も違う

第399号 象さん、ゾウさん     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 13:20Comments(0)北海道の歴史

2016年09月09日

北海道の御真影奉安殿


日本民族建築学会 第80回研究会 北海道の御真影奉安殿 釣山史 山田雅也 2016/9/24/土 15:00~17:00法政大学デザイン工学部 参加費500円 (学生無料) 小学校に建つ御真影奉安殿/昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション 頭を上げるとコツンとやられて、御真影や教育勅語に正対したこともない児童たちは80才となり、当時の混乱もあって記録や記憶が曖昧となった。本物の詔書類の鑑定もままならず、りっぱで荘厳な奉安殿も忘れ去られようとしており、また、限界集落が進行するなかで、奉安殿と詔書類の現存調査を行い、当時の様子をレジュメにまとめた。レジュメには30ほどの現存する奉安殿と奉安庫を掲載して、その保存の様態を紹介する。
第―号外 北海道の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年06月17日

北海道開拓と門徒衆


北海道開拓と聖徳太子信仰 北見市のキリスト教団や滝上町の黒住教団による開拓は知られるが、浄土真宗門徒が語られることは少ない。親鸞は聖徳太子を教主とし、その徳や業績を賛美したのが太子講式であり、門徒衆が結束した講は、宗教としてだけではなく、地域共同体を形成し、これを母体に団体が入殖すると太子信仰を持ち込んだ。明治中期頃までの北海道開拓には北陸人が多く、また、漁業従事者の寄留・出稼ぎも多かった。松前藩は、一宗一派の政策をもって浄土真宗は東本願寺としたが、幕府が蝦夷地を直轄すると西本願寺の開教が認められ、佐幕派の東本願寺は維新後にひどく危機感を抱き、新政府に恭順を示して蝦夷地開拓を出願した。沼田町では、富山県の門徒団体が入殖に入り、雨竜本願寺農場を開いたが、同町のほか同じ地方の雨竜町・北竜町・幌加内町に太子信仰がある。十勝では、晩成社のほか富山県人や岐阜県人が入ったが、職人が祀る聖徳太子像を受けて晩成社が堂宇を建立し、これは東本願寺帯広別院の嚆矢となった。芦別市では、石川県と富山県から団体が入り、郷里から聖徳太子像が持ち込まれて太子堂が立つ。さて、聖徳太子は、百済から高度な建築技術を導入し、工芸美術を奨励して大規模寺院を建設したので、むしろ大工や鳶職らの職能神である太子講が馴染み深いが、太子堂や太子碑は、聖徳太子一千三百年御忌に建てられたのもが多い。帯広建設業協会の孝養太子像

第395号   門徒の開拓    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:10Comments(0)北海道の歴史

2016年05月25日

釧路の聖徳太子講


 釧路聖徳太子講の最大の見せ所は、例大祭での鳶職による纏い振りと梯子乗りである。釧路では、明治40年に釧路大工職組が組織され、2年後に釧路聖徳太子講を創立した。大正元年には、浄土真宗本願寺派本行寺が経堂を聖徳太子堂と改称して講中に開放し、尊像は孝養太子像である。建築関連業種の技能研修や親睦の場になっており、活動は非常に活発である。例大祭では宗派を問わず、仏教各宗協和会が参加するという。
第394号   釧路の太子講    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年10月05日

聖徳太子信仰、番外編


旭川市、眞久寺の六角堂 聖徳太子が、この地を訪れた際、護持仏の如意輪観音が、『この地で衆生救済に当たりたい』と夢枕に立ち、創建されたのが紫雲山頂法寺で『六角堂』と云う。六角堂には、太子が沐浴したとする池の跡があり、そこに小野妹子が開祖の宿坊があったので『池坊』と呼ばれ、朝夕に花を供え伝えて生花が広まった。住職が代々、池坊の家元を務める。明治25年開基の旭川市の眞久寺は、池坊の興隆を図るため、大正14年に京都の頂法寺を模した六角堂を建立し、本尊如意輪観音菩薩の分身を受けた。
第388号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年10月02日

聖徳太子信仰3


聖徳太子は、仏法を広めるための寺院建設のため、百済から多くの大工らを招いて高度な技術を導入し、また、日本最古の取水施設を建設したので、建築・土木・建具や家具ほか職人達の職能神となり、道路や治水の守神ともなった。これらがいわゆる「太子講」である。 滝上建設業協会が尊崇する太子宮/滝上神社 上川水力発電所の太子碑
第387号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年09月06日

聖徳太子信仰2


網走市の聖徳太子信仰 網走市の例大祭は、大正10年の聖徳太子御忌千三百年に永専寺で始まり、現在は太子堂が網走神社の隣接地へ移転して仏式と神式の両方による。また、市内には聖徳太子の石碑が2つあり、丸万では道路工事の完成を記念して大正8年に木柱を建立したが経年をへて倒壊、昭和50年に石柱を再建した。実豊も道路開通を記念した石碑であり、施工業者が集落の要望に応えて昭和25年に奉祀し、のちに現在地へ移転した。 築95年という聖徳太子堂 網走神社 孝養太子像/同上 網走市丸万 網走市実豊
第386号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:41Comments(0)北海道の歴史

2015年09月01日

聖徳太子信仰1


聖徳太子信仰、太子講と太子堂 北海道内の歴史的遺産を巡るなか、今回、注目したのが聖徳太子信仰である。戦前は、たいへん盛んであったようだが、大工や左官たちの職能神であるがゆえ、一般人には馴染みが薄く、道内では、いったいどのようにどのくらいが伝承されているのだろうか。 湧別町・光華神社の太子堂 昭和六年に新道開削の安全を祈願した石柱を建立、のちに現在地へ移転し、六角堂を建設して太子孝養像を奉納した。 士別神社の聖徳神社 大正一四年に建立の聖徳神社には、手置帆請神(たおきほおいのかみ)と彦狭知神(ひこさしりのかみ)が合祀される。手置帆請神と彦狭知神の二柱は木工(工業)の祖神とされ、聖徳太子は建築の神である。
第385号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:34Comments(0)北海道の歴史

2015年07月16日

又十藤野家


又十藤野の遺産 近江の四代四郎兵衛の次男・喜兵衛は、天明元年に福山(松前)の親族へ奉公にあがり、寛政十二年に独立して回漕業を興す。屋号を柏屋、家印は又十とした。はじめて文化三年に余市場所を請負い、後に宗谷・斜里、国後、根室、利尻・礼文など、蝦夷地の漁場の大よそ四分の一を経営する一大場所請負人となり、藤野漁場では鮭小舌網、鰊角網を開発するなど、漁業上の大変革をもたらした。最初、福山に本店、箱館を支店としたが、後年、箱館を本店とし、蝦夷地の各所に支店や出張所を置いて、明治に入ってからは白木屋と称して小間物店を開業、道東奥地の商店の先駆けとなった。明治の中期以降、次第にオホーツク沿岸の漁場が不振に陥ると、北洋のカムチャッカへ進出し、道内の各地に牧場を開設するなど事業の多角化を図ったが、家運の回復とならず、大正五年には全事業を休止するに至り、一部農場の小作経営を残して、本拠の近江へ引き上げてしまった。分家の藤野辰次郎が開拓使から引き継いだ藤野別海缶詰所は有名である。道内各地、殊に道東開発に大きく貢献した藤野家の跡を追う。 旧藤野家網走漁業店 望楼など外観は当時を偲ばせる。 旧藤野家迎賓館 明治二八年に建築の建物は、網走神社の社務所として残る。 斜里駅逓跡 運上屋から始まった駅逓は昭和四年まで続いた。 松前の熊野神社に建立の祈願柱(左)。 斜里神社に天保五年に奉納された石灯篭(右)。 旧藤野別海缶詰所 外装は新しいが、躯体部分の多くが当時のもの。 鷹栖の藤野農場跡(住吉神社) 明治四一年に大阪の住吉大社から分霊された御神霊旧藤野社宅。明治四一年に函館に建築の社宅(左右2棟)

第378号  又十藤野家の遺産     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年03月07日

著名な蟹工船

缶詰のお話し、補足


◆小林多喜二の蟹工船のモデル・博愛丸 博愛社(現日本赤十字社)がイギリスで建造し、昭憲皇后(明治天皇妃)が命名した。戦時の病院船として、広く国民に知られ、平時には日本郵船が旅客船として使用した。大正15年には林兼(旧マルハ)へ売却されて蟹工船となり、小林多喜二の蟹工船のモデルとなる。以後、漁業会社を転々、昭和20年6月18日、千島の幌筵島を出港したところを米潜水艦アポゴンによって撃沈された。 ◆移民船として活躍した笠戸丸 笠戸丸は、日露戦争のときに旅順で被弾し、拿捕されたロシア船で、明治41年に最初のブラジル移民を運び、大正14年には最後のハワイ移民を輸送した。のちに日本水産の蟹工船として活躍し、昭和20年8月9日、カムチャッカのウトカ沖でソ連軍に拿捕され爆沈する。北原ミレイの石狩挽歌の一節に“沖を通るは笠戸丸 わたしゃ涙でニシン曇りの空を見る”とある。 ◆敵艦隊見ゆ、日露海戦を勝利に導いた信濃丸 日露戦争で徴用された日本郵船の信濃丸は、バルチック艦隊を発見し、「敵第二艦隊見ゆ」の第一報を打電して勝利に導いた。同船で永井荷風が北米へ渡り、孫文が日本へ亡命し、水木しげるを南方へ送って大岡正平が復員した。この間、太平洋漁業や日魯漁業で蟹工船、魚糧工船として活躍、二つの戦役を生き延びた不沈船は、戦後、青函航路を走ったこともあり、寿命を全うしてスクラップになった。
第371号 蟹工船、いろいろ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年01月12日

スキーと磯焼け


寒中お見舞い申し上げます。戦後70年、流氷がより、よりよりトッカリも顔を出し、寒さもより厳しき折り、昨年よりも、より良い年でありますよう、心よりご祈念いたします。皇紀二六七五年吉日 ○スキーと磯焼け 本道のスキーの始まりは、明治39年にイギリスの外交官が、札幌の軍人に贈ったとも同41年に札幌農学校のコラー先生が生徒に教えたとも云う。後の明治45年にレルヒ少佐が、第七師団でも指導したが、このときはストックが1本だった。2本ストックのスキーは、大正3年にノルウエーから帰った同大の遠藤吉三郎先生が生徒に指導したことで札幌に広まり、また、明治26年頃?に出稼漁夫がカムチャッカから持ち帰ったストー(先住民のスキー)で遊んだと明治のエッセイスト・河合裸石が語っている。さて、吉三郎先生は、初めて「磯焼け」を定義した日本海藻学の先駆者のひとりで、昨年、京大白浜水族館で、100年前に博士が撮影した大量のガラス乾板が見つかり話題となった。写真集「海藻寫眞帖」ほかの原版はきわめて貴重である。本市2月の北方圏国際シンポジウムでは、希望者に「海藻減少に関する注意(明治36年)」と「海藻磯焼調査報告(明治41年)」の写しを差し上げます。 越前高田の1本ストック・スキー 釣山史(紋別市水産課員、北海道文化財保護協会員)
第370号 北海道のスキーの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年11月26日

戦前の鮮魚流通【再】






§カレイ漁に見る戦前の鮮魚流通 オホーツクの紋別と斜里では、夏にひがな一日釣りをしてオヒョウを捕る。約1.8㍍もの大きいものもいて、この辺りの土地のヒトの一番の食糧である。富山名産のタコ、滋賀のナマズに勝るかもしれない。 蝦夷訓蒙図彙 蝦夷土産道中寿五六 紋別で産出されるカレイ類は広く市場で知られ、特にマガレイは早くから「もんべつガレイ」と呼ばれて珍重されて来た。いったい、いつ頃からどのようにして有名になったのか? その歴史的背景に戦前の鮮魚流通を見る。 ①江戸時代から知られた巨大魚~オヒョウ 昔は畳大もあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六」に紹介されている。アイヌ人にトバや塩乾として食べられていた。。明治一八年に国後から網走に移住したサラビヤなるアイヌ人が、沖合三里の延縄漁でオヒョウを多獲し、この地方が非常に好漁場であることが分かった。 ○明治二五年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オホーツク海のオヒョウ漁が一大ブームとなった。 ○明治四一~四五年にかけては、沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵庫による操業も試みられて動力船の使用も検討された。 ②動力船の進出~たくさん獲れて困ったカレイ 一説に我が国の機船底びき網漁業は、明治四二年の室蘭での試験に始まると云い、実際に道内で経済操業に至ったのは大正中頃の小樽や函館であり、大正九年の小型底びき網機船の登録は、小樽一〇〇、岩内一〇、函館四、室蘭三三、釧路五二、根室三、宗谷一、留萌一二の計二一五隻であったが、うち操業船は百隻程度で、道庁では、にわかに勃興した小型底びき網機船を夏枯れに対応した通年操業とするため、新開の北見漁場へと誘導した。 『漁況及漁場 紋別~枝幸間 今回調査ノ結果ニ依レバ、此区間ハ有数ノ真鰈漁場トス。即チ枝幸正東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬付近海深五十尋(尋=約一、八㍍)内外一帯ハ清浄ナル細砂底ニシテ、当今夏期ニ於テハ真鰈ノ密集地帯ニシテ、巾三浬内外・長三十浬以上ニ亘ル此ノ地帯内ニアリテハ、一網真鰈五六箱及至十四五箱ノ漁獲アリ、其ノ区域ノ広汎ニシテ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ。略 鮮魚トシテ処理シ得バ、二三十隻ノ発動機船ヲ操業セシムルモ敢テ過多ナルヲ覚エザランモ、現在ハ勿論将来交通輸送ノ便完整セラルルモ其大量ノ鮮魚輸送覚束ナク、内地輸送モ亦不可能事ニシテ 後略』/北見沿岸手繰網漁場探検報告/T9年 『無尽の魚族・宝の海 略 三洋丸は二百十七噸、小型の汽船であるが無線電信、電力の装置もあって六月から十月一ぱい北見沿岸一帯の漁場調査の為めトロール試験をなしつ〵ある。 略 紋別沖合にては真鰈一網十箱以上の大収穫で蟹の繁殖著しく油鮫の棲息も夥しい。四、五十艘の発動機船で幾十年漁獲しても無尽であるといって好い。紋別の斯の大漁場に距離の最近を占め沿岸の最中央に位し、鉄道は稚内網走に比較して中央市場に近く鮮魚輸送の利便あり、経済物資も都合よろしく、漁業の根拠地として絶好の所である。漁港完成の一日も速かならん事は海田開発漁業振興の為め緊急である。漁具修繕の鍛冶屋無き事と魚類の保管輸送に使用する製氷工場冷蔵庫の設備の欠乏せるは遺憾である 略 明年は十二、三艘の発動機が来紋活動し、愈々北海漁業勃興の好機に入るであろう 後略』/北海タイムス/T12年9月15日 枝幸紋別間 略 今回調査ノ結果ニ依レバ枝幸北東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬附近海深五六十尋内外一帯ハ細砂底ニシテ夏季ニ於テハ眞鰈ノ密集地帯ニシテ幅二、三浬内外長三十浬以上ニ亘ル廣汎ナル面積ヲ有セリ殊ニ枝幸、紋別ノ中間ニ於ケル雄武沖ヲ中心トシテ密集セリ一時間曳網十箱(トロール箱)内外ノ漁獲アリ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ今夏紋別根據トシテ小樽ヨリ廻航シ來リタル手繰漁船寅丸(十五噸)ノ出漁シ居ルヲ見レバ出漁毎ニ曳網二回ニシテ眞鰈ヲ滿船シ歸港スルノ狀態ナリ 後略』/大正十四年度施行 南オコツク海海底漁場調査報告/昭和2年 ○紋別では、明治三十六年頃から川崎船によるカレイ小手繰漁(小型底びき網船)が行われて、大正年間には二~三隻が操業していたと云われる。 ○北見東部四郡の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正三年春に本州で建造した「紋別丸五㌧一〇馬力のホタテ監視船だったが故障が多く、これを高嶋春松が譲り受けて、紋別~湧別間の輸送を行いながら大正九年にはマガレイ漁を始めたと云う。 ○大正一二年には松田鉄蔵(後の代議士)が機船「第三寅丸一五㌧一五馬力」を廻航させ、また、地元では同年に伴田惣十郎が機船二隻を建造して(紋別丸一九㌧三〇馬力)、翌年から操業を始めた。道庁による漁場調査の際、その接遇に当たったのが伴田組合理事であった。 ○これ以降、夏枯れ対策として小樽・室蘭・留萌から多くの動力船が廻航し、紋別を拠点に常時一五~一六隻以上が、主に雄武から興部沖の浅い所で水深三五~五〇㍍、深いところで六〇~八〇㍍の範囲でマガレイを大漁した。 ○昭和一一年の千島も含めた全漁獲高では、紋別が全道の市町村中第五位にあり、そのうちカレイ漁は三位で、底びき網でのカレイ漁は断トツであった。 ③鮮度保持と流通技術の進歩~流通販売の努力 『其の他漁獲物は大鮃九、六三〇貫、鮊一二九三〇貫、カレイ単価は延縄の一円に対し沖曳は三〇銭の安値なり。』/大正一五年紋別町農林統計 『從來搾粕本位なりしも近來輸送機關の發展に伴ひ冬期は遠く相州小田原及東京の市場に搬出し蒲鉾原料及日用食膳に供せらる〵に至れり』/北海道水産一覧/大正七年 当時は、既に地元仲買人はいたが(大正四年に紋別魚市場が開設)、大きな取引は主に小樽の問屋衆で占められていて、季節的に大漁されるマガレイは、価格が非常に不安定であり、底びき船主が直接、東京へ送ったり、粕に炊いたりしていた。 小樽などの先進地では、大正中期にカレイなどの内地出荷が始まっていたが、生鮮食品を生産段階から途切れることなく低温保持し流通させるコールドチェーンの本格的な試みは、大正九年に森町に大型冷凍冷蔵施設を開業した「葛原商会(のちの葛原冷蔵㈱)」に始まった。 ○紋別では多獲されるマガレイをトロ箱(トロール箱)の代わりにビールの大箱を使って出荷していたが傷みやすく、昭和四年に現在のような魚函に改良して品質維持に努めた。 ○当時は、一尺(三三㌢)以上の大きなマガレイを鮮魚とし、ほかは魚肥や蒲鉾に加工して、ソウハチなどは廃棄していた。 ○紋別では、多獲される鮮魚の保存と輸送が大きな課題であり、網走では、明治の末期頃から冷蔵船の回航も見られたが、生鮮の輸送と販売には限りがあり、大正一〇年に名寄線が、昭和七年には石北線が開通したことで鉄路での輸送は容易となったが、その前提となる製氷・冷蔵庫が無いことは、依然として大きな問題であった。 ○松田と伴田は、機船底びき網漁業に着業間もなく製氷池を造成して昭和六年の調査では紋別に製氷池が六経営体一四箇所、貯氷庫も二一棟あり、また、同年、日本冷凍協会誌で紹介された当時としては最新式の松田冷蔵庫が稼動し、戦前には既に五つの冷凍工場を有する一地方では稀に見る生産基地となった。 『本港の盛衰は漁業の消長如何に依つて決せらるべきは言を俟たざる所なり、然るに當水産会は未だ舊態を脱せずして、魚價の調節機關に何等見るべきものなきを痛感し、玆業の振興を促進すべく紋別港灣の完成と相俟つて冷藏庫を建設し、以て市價維持に均衡鮮魚の輸出をなすの外、漁不漁の均等、調節を計り、北見沿海一帶の海産物を集め本港の發達を期すると同時に、聊かたりとも本道水産界に貢献せんとするものなり。』/日本冷凍協会誌/昭和6年 『鉄道省は来る十月一日を期して全線にわたり旅客列車のスピードアップを実行することになったが、これに伴い、貨物列車の速力をもまた全線的に短縮することになり本省の貨物課と配車課及び運転課との間で研究を重ねていたがこの程漸くその決定を見たので十月一日から貨物の超特急列車を運転実施することになった 略 この鮮魚列車は北海道紋別から下関までを改正時間で連絡輸送すると、実に従来より丸一昼夜早くなるもので、荷主にとっては貨物輸送上の一大革命である、この外各線の貨物列車とも何れも長距離では十六時間以上を最大に短距離の最少のところでも三十分位宛は時間を短縮され、更らに最近甚だしく増加した戸口から戸口まで鉄道の手で運ぶ特別小口扱いが案外の好成績であるに鑑みこの需要の最も多い大宮と青森間に一五九特別小口扱貨物列車を一本新設運転することになった 後略』/中外商業新報/昭和5年 ○「第三寅丸」が紋別で操業を始めた時、既に冷蔵貨車はあったが、台数は限られており、のちに機船組合を結成して協定を結んで大量に施氷し、室蘭までは鉄道を、そこから船を利用して遠くは東京市場へも出荷したが、うまく届けば大儲け、途中で腐ると丸損という有様であった。 ○国内での冷蔵貨車の最初は明治四一年で、大正三年に青函航路での車両輸送が開始し、道内では同一一年で三〇輛の冷蔵貨車があり、同一四年からは青函連絡船による貨車航送が開始されて内地への鮮魚輸送は急増した。昭和四年には、道内に三一四輛の冷蔵貨車があった。また、昭和一〇年に現在の築地市場が開設されたとき、同時に「東京市場駅」が設けられて“鮮魚特急”と呼ばれる速達化が図られた。 ○地元では昭和一二年から漁業者による「焼きガレイ」の加工が始まり、戦時の食糧不足に対応するため、翌年にはこれを目的に「紋別加工組合」を発足して「焼きガレイ」は広く流通した。 ○戦後の昭和二六年には、入会も含めて機船底びき網漁船が六一隻にもなり、先駆的な漁業の近代化と冷凍・冷蔵技術の導入や箱詰めの工夫など、このような漁獲の安定、鮮魚流通に向けた努力は、旭川や札幌のほか東京・小田原などへの積極的な地方出荷となり、後の「もんべつガレイ」の産地ブランド化へと繋がって行った。 紋別の動力漁船、戦前 戦前のビール箱 サッポロビール博物館蔵 開業当時の松田冷蔵庫機械室 昭和3年頃の冷蔵貨車

第369号 鮮魚特急      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年10月18日

缶詰の話し6


②小林多喜二の小説『蟹工船』 ~鬼監督のモデル この頃のカニ工船は、制度上は漁船ではなく、工場でもないという曖昧なもので規制が難しく、船室環境は悪く、確かにリンチはあったし、栄養不足や長時間労働などから死者や傷病者を多出したが、当時の日本社会には人権などという考えは無く、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、このカニ工船が特異・突出したものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者たちが虐待とも云える労働搾取にあっていた。むしろカニ工船は“九一金”という歩合があって、高収入だったのである。小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかと思われがちだが、そのモデルになった『博愛丸』は日露戦時の病院船として広く知られており、たまたま、客船として多喜二が住んでいた小樽へ来航したとき、火災を起こして話題となっていた。そして鬼監督とされたモデルの松崎隆一は、長崎県水産講習所の第一期生で、国内始めて缶詰を作った松田雅典の製造所を経て、堤商会ではカムチャッカでの缶詰事業に関係した。その後、農商務省水産講習所嘱託として練習船を指導し、船上でのカニ缶詰製造ラインを完成させた。大正12年には自ら工船事業に着手して“博愛丸事件”が起きたのは同15年である。このように隆一は工船蟹漁業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる非人道的な事件の多くは、他のカニ工船であったことがモチーフとされ、事実に基づきながらも特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張されて作られた“あくまでプロレタリア作品”である。その後、水産局の役人となっていた昭和4年に要請を受けて北海道紋別へ移転し、道内で2番目とも4番目ともいう最新式のこの地方で初めての冷蔵庫の建設を指揮し、当時の学会誌でも紹介されるほどだった。隆一は海外向け缶詰を生産し、水産物だけではなく地域の農産物加工を手掛けるなど関係した事業は全国40に及び、道内各地の水産界に与えた業績は大きく、公職は50余り、紋別では人望も厚く、特に文化・スポーツ事業における功績は多大であり、戦前の鴻之舞遺構となる武道場を市内へ移築し、それは現在も使用されて文化財級である。晩年は、穏やかで人懐こい人間味豊かな好々爺だったようで、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云える。◆紋別市水産課、北海道産業考古学会員、北海道文化財保護協会 釣山史 昔、甲殻類は北米で卑しい食べ物とされ、エビに比べても、なおカニは食べなかったようで、それを食として広めたのが根室のカニ缶詰だったのです。仕事柄、水産系に知人は多いのですが、その時々の漁労・加工や輸送技術、社会背景も含めて語られる方には、中々お目にかかれない。“蟹工船ブーム”のときには、海外メディアの取材も受けましたが、小説『蟹工船』は、帝国資本主義が極まった時代を如実に著すものです。この10月に紋別市で開催された「第26回北海道演劇祭」では、地元劇団が、鬼監督のモデルとされる松崎隆一を題材に公演しました。今もなお慕われる松崎翁は、人格者であり、晩年は人間味豊かな好々爺だったようで、小説『蟹工船』は、事実に基づきながらも、あくまでプロレタリア作品なのです。 晩年の松崎翁 紋別公園の顕彰碑・望洋之碑
第368号 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年10月13日

缶詰の話し5


昭和初頭、カニ工船最盛期の頃 道内缶詰小史 ~工船蟹漁業の勃興 カニの工船化は、サケ・マスの沖取り式に先んじるもので、それは大正に入ってカニ缶詰工場が乱立して北海道と樺太周辺ではカニ資源が枯渇し、生産は大正5~6年頃を最盛期に減少して、大正6年には、日魯漁業がカムチャッカ沖合の母船上で煮熟したカニを運搬船で千島へ運び、缶詰製造を試みたが、このときの成績は芳しくなかった。カニ工船の嚆矢は、大正3年から農商務省水産講習所がカムチャッカ西岸キクチク沖合において、練習船・雲鷹丸(うんようまる)による蟹底刺網の実習を行いながら缶詰を試作したのに始まる。大正8年には松崎隆一(後述)が雲鷹丸に乗船して沿海州沖合で3馬力の電動機、ハンドシーマー、竪型レトルトなどを備えた本格的な加工ラインによる缶詰製造に成功したが、当時は、加工において淡水を用いるものとされたために生産は限られていた。大正9年にロシア領内にカニ漁区が開設され、富山県水産講習所の練習船・呉羽丸は、遠洋漁業奨励金の交付を受けてカムチャッカ西岸沖に出漁し、このとき海水による製造試験を試みてむしろ淡水よりも肉質、色沢とも良好の結果を得て、翌10年の実習操業では8打入1,260函の生産を見た。同年、これに触発された函館の和島貞二(明治39年に独立して樺太漁業に着手する。大正3年には千島でサケ・マス、タラ漁に着業し、同5年に幌蓆島にカニ缶詰工場を設けて北千島水産組合が設立
されると初代組合長となった。)が堤清六の斡旋による融資を受け、汽船喜多丸と帆船喜久丸に製造設備を取り付けて沿海州のセントウラジミル湾から間宮海峡にかけての操業で2,758函の生産を上げたことは、工船蟹漁業が非常に有望なことを示した。こうして着業するカニ工船は、2年後の大正12年には11名17隻(練習船含む)ともなり、翌年には2,000㌧級の母船が現れるなど、わかに勃興した工船蟹漁業は、激しい漁獲競争に陥った。大正12年には工船蟹漁業取締規則が制定されて工船蟹漁業水産組合が発足するなど、いよいよ同14年には価格調整を目的に蟹缶詰共同販売株式会社の設立となり、過当競争による会社の合併、船団の統合・統制を繰り返す中で昭和2~5年をピークに戦時の中断を経て、昭和49年に南カムチャッカにおけるタラバカニの母船式操業が禁止されるまで、本国における主要な遠洋漁業となった。“サケの日魯”に対し“カニの日水”と呼ばれていた。 時事新報 大正14年11月 (略) 有望なる蟹缶詰輸出 茲数年来、英米を初め濠洲方面の市場に於て頓に人気を博するに至った本邦製蟹缶詰が本年中約二十万函(此価格約九百万円)見当の輸出を告げんとしつつあるは貿易改善の声盛んなる今日特に注目すべき現象である今試みに過去数年間に於ける生産並に輸出額を表示すれば左の如し(略) 即ち大体に於て連年増加の歩調を辿りつつある中にも本年に入り急激なる増加の跡を示して居るのは頗る人意を強くするに足る所である。 世界市場の需給状態 今世界に於ける蟹缶詰の需給状態を一瞥するに我国は供給上に於て殆んど独占的立場に在り、他は僅に北米アラスカの沿岸に於ける一ヶ年数千函の少量粗悪なる生産があるに過ぎぬ、故に仮に蟹缶詰が今後益外人間に賞味珍重せらるるに於て、輸出品目として一層重要なる地位を占むるに至るべき期待がある。而して本年度に於ける我生産の概表は左の如く(略)此中工船と称するは勘察加沿海に於て漁獲し船中にて製造するものである(中略)右表(略)の如く邦製の鮭缶詰が専ら英国市場に於て好評を博しつつあるに反し、蟹缶詰は其大部を米国に向けて輸出するものであるが最近英米人は蟹缶詰を以て缶詰中の美味の王として「ウワンダフル」の賛辞を呈して居る。 製造販売方法の改善 前表(略)に示した通り従来十万乃至二十万函見当の生産額中、輸出は約其半数に該当して居るが而も其輸出価格の点に至っては常に乱高下の状態に置かれ生産者側なる漁業会社方面の不安は勿論、問屋並に海外の取引商に於ても決して安心は出来得ぬ有様であったが此状勢は昨十三度間に於て特に甚しく、輸出の総額が最高のレコードを作った一面には市場価格の波瀾も極めて大きく、従って生産業者にして打撃を蒙れる向も決して少くなかった、蓋し其主因は第一製造業者の資力乏しくして、主として輸出業者並に外商の手より資金を仰ぐこと多きため常に其意思に従うを余儀なくせられ、従って価格の変動は其手によって左右せらるる事情あり、第二に個々の生産業者が互に連絡をとらざる為組織的行動不可能にして仲介の内外商人に足許を見られ、不利なる取引を為す場合が多かった。(後略)

第367号 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年09月26日

湧別町シブナイ2遺跡


湧別町シブナイ2遺跡 国道238号線の工事に伴い、この8月20日~9月17日の間、北海道埋蔵文化財センターによる湧別町字信部内にあるシブナイ2遺跡の発掘調査が行われました。 多少の遺物が出土しています。
第366号 シブナイ2遺跡      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年08月24日

缶詰の話し4

2.カニ缶詰 ①カニ缶詰の企業化 第四回(明治廿八年)内国勧業博覧会審査報告 福井縣ノ出品は蟹最多ク、就中大戸輿三兵衛ノ出品ハ寒冷紗ヲ以テ包装充塡シ、其製法宜シキヲ得、色味甚圭良ナリ明治一八年ノ創業ニシテ爾來諸種ノ罐詰ヲ製造シ其製額二萬五千餘罐ニ及ビ布哇(ハワイ諸島のこと)及清国ニ輸出ス カニ

缶詰の黒変とは カニやエビ、ホタテなどの魚介類の缶詰は、内容物に黒変と云う黒い斑点が出来ることがあり、それはカニ肉などの蛋白質中の硫黄分が容器の鉄分と反応して硫化鉄が生成されるためで、カニ缶詰の製造において最大の課題が、この黒変の克服にあった。これを防止するためには硫酸紙(パーチメント紙)でカニ肉を包み、あるいは缶内面をエナメルで塗装して缶と内容物が触れないようにする。 ~陸上カニ缶詰のおこり 本邦でカニ缶詰を最初に作ったのは、明治14年に開拓使別海缶詰所から厚岸牡蠣缶詰所に出張した松村文四郎に始まると云い、このときは試作に終わった。カニ缶詰が経済操業に至ったのは、ズワイガニが特産の福井県であり、乾物商の大戸輿三兵衛は明治17年にズワイ缶詰を試作し、翌18年には酢を添加することで黒変を抑制することに成功して販売を開始した。これを契機に北陸では着業する者が相次いでカニ缶詰生産では一時代を築いたが、また、この間の北海道では、明治20年に小樽高島の海産弘舎において平田孝造が、厚岸では元厚岸牡蠣缶詰所長の長谷川源之助が、タラバ缶詰を試作し、小樽の西川貞二郎は、明治22~23年前後からタラバ缶詰の製造販売を始めて、同30年のイギリスのクロムウエル博覧会に高島西川缶詰製造所製のカニ缶詰が出品されている。のち西川缶詰製造所は使用人の松吉直兵衛に引き継がれ、明治35年からは硫酸紙を用いて黒変防止に努めたりしたが、結局、大成しなかった。 ~IZUMIブランドとUSUIブランド 日本カニ缶詰の最大の功労者は、黒変を克服して量産化を図り、広く国内外へカニ缶詰を普及させて海外販売を軌道に乗せた根室の和泉庄蔵と碓氷勝三郎である。和泉庄蔵は、サケ・マス漁を営みながら小規模な缶詰製造を始めて、明治31~32年頃にはカニ缶詰を試作したらしい。明治37年に北海道庁の官吏が国後を巡視した際、大量に投棄されるタラバガニを見とめて缶詰製造を勧められ、同年は試験的に製造し、翌年には古釜布に新工場を設けて大規模なカニ缶詰製造を始めた。しかし、黒変は解消できずに一定の製品化を見たのは明治40年で、アメリカでの試販では好評を得た。折しも同年に水産講習所が内面塗装缶を開発し、明治41年に試用してみたところ好結果だったので、ドイツからラッカードブリキと硫酸紙を輸入してカニ缶詰を量産し、アメリカへ本格的な輸出を開始した。同じく碓氷勝三郎は、明治27年に別海西別にサケ・マス缶詰工場を開き、のち国後泊でエビの缶詰製造を始めて同33年には硫酸紙によって黒変を抑制することに成功した。これを知見に和泉庄蔵と前後して明治38年には古釜布に本格的なカニ缶詰工場を開設し、以後、各地に事業を拡大してUSUIブランドを築き上げ、同42年からはアメリカへ盛んに輸出した。(現在、根室市の造酒屋・碓氷勝三郎商店として残る) 明治22・23年頃の西川缶詰所の宣伝チラシ 日本初の蟹工船・雲鷹丸 明治42年5月に進水した水産講習所練習船・雲鷹丸450㌧は、300馬力の補助機関を備えた鋼製3本マスト二層重甲板のバーク型帆船で、捕鯨艇を搭載した米国式捕鯨船をモデルとした。

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2014年08月10日

缶詰の話し3


~堤商会の登場 明治39年、堤清六と平塚常次郎は、アムール河畔のブロンゲ岬で運命的に出会った。堤清六は、カムチャッカを有望と見て堤商会(後の日魯漁業㈱)を設立すると明治40年に初出漁した。明治43年には邦人で初めて現地に缶詰工場を建設してハンダ付けの鮭鱒缶詰製造を始めたが、これが契機となってカムチャッカに缶詰工場を開設する邦人が続出した。堤商会は、大正元年に本拠を函館へ移し、大正2年はカムチャッカ工場の製缶と原魚の裁割から箱詰め梱包までをほぼ自動化して日本初のサニタリー缶詰を量産、主に英国を中心に欧州へ輸出したが、おりしも第一次世界大戦が勃発して需要は増大した。そうして堤商会は、北洋操業のさらなる効率化と自動製缶機の余力活用のため、製缶機を函館へ移設して大正4年に日本で初めて空缶生産を専門的に始めると翌年からは一般需要への供給を開始した。また、後に製缶専業として創業した東洋製缶㈱は、小樽と函館に工場を建設したが、堤商会は、これを買収し、北海製缶倉庫㈱(後の北海製缶㈱)を設立して道内製缶を一手に請負うことになった。 中外商業新報 大正7年8月 (三)缶詰業の現状 略 当時即ち昨大正六年の缶詰工場はウシチカムチャッカ及ヤイナに露人デンビー氏三ヶ所、日露漁業会社はウシチカムチャッカ、オパラの二ヶ所、輸出食品会社はヤイナゴセゴチックに二ヶ所、堤商会はオゼルナヤ、ヤイナ、ゴセゴチック、キシカ、オコックに六ヶ所、グルセツキー会社キシカ、オゼルナヤの二ヶ所等重なるものにして外に菅沼、袴、進藤等の工場あり昨年に於ける缶詰の各個生産額を挙ぐれば左の如し デンビー商会 一八九、七三〇箱  日露会社 四一、二四〇  グルセーツキー会社 四五、六三四  輸出食品会社 五一、三七二  菅沼商店 七、九〇三  進藤商店 二、八六一箱  袴商店 二、五七二  堤商会 一六九、六八九  合計 五一一、〇〇一  以上の内堤商会、デンビー商会、輸出食品、グルセツキー、日露漁業等は何れも最新の缶詰機械一工場に二ライン乃至三ラインを据え付け最も完備せる設備を有せり 略 露領でのサケ・マス缶詰製造高 デンビー商会(北洋漁業) 明治43年9,300函 大正2年54,322函 大正4年105,000函 大正7年99,974函 堤商会 明治43年704函 大正2年28,561函 大正4年47,249函 大正7年178,285函
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2014年08月10日

缶詰の話し2


②カムチャッカ漁業の勃興 ~邦人のカムチャッカ進出 カムチャッカ操業は、それ以前からロシア人やアメリカ人らによって試みられてはいたが、明治28年にロシアのコチク社が日本人を使って操業し、この時は失敗に終わった。同社は、明治29年にデンビー(初代デンビーの妻は日本人だった)と提携し、邦人漁夫46名を雇入れて出漁すると日本式塩蔵サケ・マス7千尾を函館に輸入した。これがカムチャッカにおける経済操業の初見であり、翌年には、汽船大洋丸、攝陽丸、愛国丸と漁夫132名が出漁した。このように漁労はもっぱら日本人に頼ったので、明治32年からはロシア人と直接提携する邦人も現れ、同33年には、出漁46隻、漁獲3万6千石にも達して驚いたロシア政府は、邦人を規制して、以後、共同あるいは買魚が名目となった。明治32年にデンビーと共同の「セメノフ商会」が函館に設立され、翌年には、カムチャッカのアワチヤ湾に缶詰工場を建設した。セメノフ商会が焼失したので、同40年にあらためて函館にデンビー商会を興し、同41年にウスカムへ進出すると同42年にはカムチャッカ河上流に缶詰工場を建設し、翌43年に最新式のドイツ製半動式缶詰機を導入してサケ・マス缶詰を量産した。このようにカムチャッカにおいてはライバルとなる堤商会(後の日魯漁業㈱)が現れるまでは、デンビー商会を中心としたグループのほぼ独壇場にあったが、この間で注目したいのは、明治34年に平塚常次郎(後の日魯漁業㈱社長)がヤイナへ出漁し、同36年に建設されたカムチャッカ河畔のシールスキン社工場では、竹村糾太郎(ホタテ缶詰の製造販売を始めて手がけたと思われる人物)ほかの邦人が缶詰製造に従事したと云う。日露戦勝を経て明治40年に日露漁業協約が調印されて日本権益が確立した。北洋漁業は加熱して小群割拠し、このときの露領漁区競落額(落札175漁区のうちカムチャッカは63漁区)は高騰し、加えて協約締結後も邦人への圧迫が見えたので、翌41年に露領沿海州水産組合を設立して対抗した。こうして着業者は次第に集約され、企業合併も相次いで、大正12年には租借229漁区のうち67漁区を日魯漁業㈱が占るようになり、また、一時代を築いたデンビー商会もロシア革命によって衰退し、北洋漁業㈱を経て日魯漁業㈱に吸収された。 あけぼの印のカムチャッカ工場 昭和10年頃の北海製缶小樽工場 大正末年頃の日魯漁業㈱の拠点 新潟港からカムチャッカへ向けて寶壽丸を出港させた。
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2014年08月08日

缶詰の話し1


道内缶詰小史 1.サケ・マス缶詰 ①缶詰事業の始まり ~官営工場・別海缶詰所 現在、釧路のマルハニチロ工場では、日本のサケ・マス缶の7~8割強を生産しているという。さて、国内での缶詰製造は、明治4年に長崎の松田雅典がフランス人のデュリーから製法を学んでイワシ油漬缶詰を試作したのに始まる。明治8年には手動式の製缶機がアメリカから輸入され、これは開拓使石狩缶詰所と同別海缶詰所を転々とした。本格的な缶詰生産の開始は、明治10年10月10日(缶詰の日)の石狩缶詰所における鮭缶詰製造であり、北海道の豊富な水産資源を利用した殖産のためには缶詰事業の振興が必要であり、開拓使は、ほかに厚岸、択捉紗那、苫小牧美々に工場を開いて別海には当時の建物が現存する。石狩缶詰所を試験工場とすれば、別海缶詰所は経済操業を目指したもので、徳川将軍家への献上品として良く知られた「西別鮭」を製品化したのである。後に別海缶詰所は大漁場主の藤野家に引き継がれ、明治34年には、自動缶詰機がアメリカとカナダ、ゴム巻締機械をドイツから導入し、さらなる量産体制が整った。また、わずか2年で休止していた紗那缶詰所も後に再開され、明治20年に栖原家に引き継がれて別海缶詰所の元会計主任を工場長に迎えてからは見るべきものがあった。そうして日清・日露の戦役を経て、海陸軍から安定的に受注を受けるようになると藤野家では標津、根室、国後、択捉、東京日野などに事業を拡大し、こうして未だ国民に馴染みが薄かった缶詰が、兵役を通じて全国へ広がることとなり、また、根室・釧路地方が、缶詰生産の主産地となって行った所以でもある。 呉鎮第二二〇〇号 糧食貯蔵用トシテ購買之戦報告 略 呉鎮守府司令長官子爵中牟田倉之助 海軍大臣子爵樺山資紀殿 呉監第六一一号 調査書 一鮭鱒缶詰 九万斤 右ハ海軍糧食条例第九条ニ依リ貯蔵スヘキモノナルニ付其品質善良ハ勿論永ク保存ニ耐ヘ実用ニ適スルモノヲ以テ最モ主要トス然ルニ北海道根室国野付郡別海村缶詰所藤野辰次郎及ヒ同道千島国択捉島栖原角兵衛製造ノモノハ従来ノ成績ニ徴スルニ右ノ諸要素ヲ具ヘ製造上特殊ノモノト思考ス依テ之ヲ購買スルニ当リ会計法第二十四条第四項ニ拠リ該製造者ニ対シ随意契約ヲ為スハ妥当ナリト認メ候也 明治二十五年七月四日 呉海軍会計監督部長海軍主計大監八洲 亨 旧開拓使缶詰工場屋 スター印の戦前のホタテ缶詰 藤野缶詰所の戦前広告 別海缶詰所を引き継いだのは、幕藩後期から明治にかけて道内漁場の凡そ1/3を差配した藤野家だった。
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2014年07月15日

青函連絡船前史

津軽海峡を彩った船たち 釣山 史 ①青函航路での航送開始は、大正3年(1914年)である。本年は、青函航送100周年であり、日本海難史上最大の惨事である洞爺丸事故から60年目に当たる。本稿では、航送開始までの青函航路の歴史を語る。 ②松前藩の江戸後期の御用船は、全てが近江商人などに委託され、幕末における「長者丸」は、場所請負人・藤野家の所有船であった。白神岬と龍飛岬にのろし台が設けられ、福山~三厩間の発着を知らせた。そうして青函での定期航路の始まりは、文久元年(1861年)で、江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復し、箱館奉行は、慶応元年以降の幕吏移動を3~8月は箱館~佐井、9月~12月が箱館~青森とした。 ~記録によれば天保年間の手船に長者丸(九百十三石)のほか、吉祥丸(六百三十一石)、叶丸(九百三十一石)、天神丸(?)があった。 ~青函の定期航路は、文久元年(1861年)8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。萬延元年箱館全圖 米国艦隊旗艦・ポーハタン号 ③左図で目を引くのは、「御台場」と「御役所」である。「弁天砲台」は、はじめ松前藩が岬に土塁を築き、のちに幕府が海を埋め立てて堅牢な砲台場となり(文久3年(1863年))、明治29年には港湾改良が行われて函館ドックとなった。「御役所」とは、箱館奉行所のことであり、箱館戦争の終結後も開拓使出張所や函館支庁・函館県庁として利用した。そして図の埋立地には、高田屋嘉平が建造した造船場とその隣りにはブラキストンの邸宅地が見られる。廻船業の高田屋と貿易商のブラキストンは、造船の重要性を唱えていた。 ~幕府は、ロシアの進出に対応し、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を直轄した。享和2年(1802年)には、蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)を置き、翌年に奉行所を建設した。 ~安政元年(1854年)に日米和親条約が締結され、再び、箱館周辺は上地されて箱館奉行が再置し、翌年に箱館は開港した。「亀田御役所土塁(五稜郭)」が完成したのは、元治元年(1864年)である。 ④初めて箱館に来航した外国船は、寛政5年(1793年)のロシア使節・ラクスマンだった。日米和親条約の締結によって安政元年(1854年)4月15日に開港予定の箱館港を検分しようと米国艦が来函し、ペリーは遅れて21日に入港した。同年8月30日には、プチャーチンが入港して箱館奉行に交渉を求めた。こうして外国船の往来が盛んになり、箱館奉行は、慶応元年(1865年)にアメリカ領事のパークスから寄贈された火灯を信教丸に取り付けて灯明船とし、そして開拓使は明治4年に灯明船戒礁丸を弁天岬の地先に配置した。 ⑤ブラキストンは、慶応元年(1865年)に外航と内航の事業を開始し、箱館戦争では軍事物資を輸送して旧幕の敗残兵を押送した。明治6年に始めた大間~函館間の定期航路であったが、開拓使の妨害に遭い、わずか8ヶ月間で中止してしまった。 ~英国軍大尉のブラキストンが、初めて箱館にやって来たのは文久元年(1861年)で3ヶ月ほど滞在した。商社員として文久3年(1863年)に再来すると翌年には日本最初の蒸気機関製材所を建設し、慶応元年(1865年)には、内地と蝦夷地、蝦夷地の沿岸での船舶輸送を開始した。 ~また、幕末からあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計を行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒で、そして世界に名を知らしめたのがブラキストン・ラインの発見であった。面白いところでは、明治13年にスポンサーとなって帆船競争を行った。 ~明治6年に開拓使は、自らによる青函航路の増強を図ったが、ブラキストンと競合することとなり、また、黒田長官の薩英戦争の遺恨もあって露骨な営業妨害が行われたと云う。 ⑥咸臨丸は、箱館戦争では旧幕軍の軍艦として、維新後には開拓使の付属船となって青森~函館間の輸送に当ったが、幕府から引き継がれた他の船に薩摩藩から献上された洋式軍艦・昌平丸がある。安政4年(1857年)には、箱館奉行から要請を受けた続豊治がスクーネル型・箱館丸を完成させた。奉行所は、君沢形のスクーネル型船2隻の回付を受け、箱館丸と同型の亀田丸や和洋折衷の豊治丸を建造し、また、箱館に入港した米国ブリック型船・健順丸を購入するなど、海運の整備に当たった。 ~咸臨丸は、オランダのホップ・スミット造船所で建造された木造船で全長49㍍、幅7㍍、排水量は625㌧、100馬力、大砲が12門あり、原名をヤパン号と云った。安政4年(1857年)8月に長崎へ回航して海軍伝習所の練習艦となり、万延元年(1860年)の遣米使には、勝海舟や福澤諭吉、ジョン万次郎らがいた。 ~明治4年(1871年)9月20日、入殖のための仙台藩片倉家一行を乗せて台風のために破砕、木古内町のサラキ岬沖に沈没した。 咸臨丸難航図 ⑦開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有した。明治6年には、スクーナー型の木造船・弘明丸(206トン、40馬力、積石約500石、旅客数100名)が函館~青森、函館~大湊の定期航海を始めて、後に森・室蘭へ航路が延長された。 ~弘明丸とは、明治3年(1870年)に横浜の鈴木保兵衛らが横浜~東京間に就航したもの。 ~玄武丸と矯龍丸は、開拓使がケプロンを通じてニューヨークのペイロン造船所で建造したもの。玄武丸は、黒田長官大砲事件のときの官船で、また、千島樺太交換条約や台湾問題などの重要外交に関係した。 ⑧豪華なサロンを備えた鉄船・明治丸(国重要文化財)は、英国のネピア造船所において建造され、明治8年横浜に回航した。明治9年の奥羽・北海道御巡幸の帰路、函館を発した明治丸は無事、7月20日に横浜へ安着し、これを記念したのが「海の記念日(海の日)」である。 ~明治元年に新政府は洋式の灯台建設を開始して、高性能の灯台船が必要となった。明治8年11月に小笠原諸島の領有権問題が発生した際、英国軍のカーリュー号より、2日早く着いて調査を開始した。 ⑨明治41年に国鉄で最初の連絡船「比羅夫丸」と「田村丸」が就航した。国内最初の蒸気タービン船は、速力が速く、船内設備も充実し、また、それまでの日本郵船に比べて、サービスも良く運賃も安かったので乗船客が集中した。いっぽう、激増する貨物については、日本郵船とのサービス合戦となり、双方相成り立たたない状況に逓信省が斡旋に入って、日本郵船の定期航路は明治43年に廃止された。 比羅夫丸 病院船に艤装した弘済丸 ~比羅夫丸の就航は、明治41年3月7日で、田村丸が遅れて4月4日だった。船体の飾り線を比羅夫丸が白、田村丸は赤にして区別した。大正13年まで使用される。 ・総トン数  約1,480㌧ / ・全長  約89㍍ ・馬力  3,367PS(パーソンス式全反動タービン) / ・速力  約18.4ノット ・旅客定員  436人 / ・貨載量  239㌧ ・造船所  イギリスのスコットランド、ウィリアム・デニー社 ⑩日本郵船の定期航路が廃止された後、なお貨客は増加して、また、第一次世界大戦における海運・造船の活況から新造船価格がは暴騰し、鉄道院は日本郵船ほかの傭船に頼った。明治32年(1889年)に進水した「弘済丸」は、平時は輸送船として、有事には艤装して病院船となった。 ~姉妹船には、小林多喜二の「蟹工船」のモデルになった博愛丸がある。 ⑪明治43年12月から供用が開始された木造製のT字型桟橋は、342㍍沖合へ突出し、旅客が直接桟橋で乗下船が出来るようになり、また、小荷物も桟橋で降ろしてトローリーで運搬した。大正3年には、連絡船の待合所を函館駅から分離し、翌年から駅と桟橋間を列車が運行した。続いて大正14年に連絡船専用の鉄筋コンクリート製繋船岸壁が完成し、前年からは、竣工した一部の岸壁に連絡船が直接、横付けできるようになって駅と新岸壁を列車が結んだ。 ⑫⑬北海道の開発が進み、鉄道網が拡大すると、機関車と貨客車の道内への搬入が大きな課題となった。いちいち解体、荷造り、組み立てをしていては非効率である。そこで大正3年に艀船「車運丸」の運用を開始し、併せて可動橋が建設され、これが青函での車両航送の始まりであった。大正13年には、翔鳳丸、津軽丸、松前丸、飛鸞(ひらん)丸が就航し、翌年には、工事中だった第一、第二岸壁が完成して、同年8月1日、待望の貨車積み航送を開始した。 ~車両航送の発祥は、鉄道院から下関~小森江間の航送を請け負った宮本組が明治44年3月1日から試験航送を行い同年10月1日に正式営業を開始したのに始まる。 ~函館ドックで竣工した車運丸は、全長120フィート、幅26フィート、325㌧があり、軌条3本、機関車1両、客車が3両、7㌧貨車のときは7両まで積載できた。手捲きウインチによる可動橋を使った。 ~第一次世界大戦の影響による船舶不足と鉄道輸送の高まりに対応するため、いよいよ直積み航送が開始されることになり、その一号船は、浦賀ドックで建造された翔鳳丸3,461㌧で、貨車25両、旅客895人を輸送することができた。青函での直積み航送試験は、大正14年5月21日に始まった。 ~最初の航送船、翔鳳丸、津軽丸、松前丸、飛鸞丸は、昭和20年7月14日の空襲で全てが撃沈された。 大正時代の桟橋 貨車積み曳航される車運丸 3条貨車積みの津軽丸








第360回 連絡船のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2014年04月19日

抜海の小岩山

抜海岩陰遺跡(稚内市指定)
『抜海』とは《子を背負う・もの》の意。海岸から約2,500mにある抜海岩は高さ約30mの小山で、岩陰の海食小洞窟はオホーツク文化を中心とした続縄文文化、擦文文化にかけての遺跡。


第352回 抜海の遺跡      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  
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2014年03月25日

コールドチェーンは森町から


◆国内コールドチェーンの試みは森町から ~日本冷凍食品事業発祥之地の碑 本格的な我国コールドチェーンの試みは、山口県生まれで米国帰りの葛原猪平が、大正9年に北海道森町で大型冷凍冷蔵庫を開業させた「葛原商会(のちの葛原冷蔵㈱)」に始まる。コールドチェーンとは、生鮮食料品などを生産段階から途切れることなく低温保持し、輸送をして消費段階まで流通させる体系を云い、葛原は、冷凍により鮮魚供給の季節変動を平準化させて生産者と消費者双方の利益としようとしたが、この時代、一企業が全国各地に製氷・冷凍施設を整備し、低温流通で結ぶことなど無謀であり、過大な設備投資がさらなる投資を呼び、鮮魚確保は北洋から朝鮮、台湾など外地にまで及んで保有する冷蔵船だけでも7隻があった。関東大震災に際して森町から運ばれた冷凍魚が配給され注目されたことはあったが、当時は冷凍魚に対する国民の理解は全くと云ってなく、赤字続きで粉飾に粉飾を重ねて行き詰まってしまった。各地に残された冷蔵庫や冷蔵船などは、その後の日本を代表する水産会社へと引き継がれ、うち森冷蔵庫はニチレイフーズ工場として現在も存続し、当時の冷凍機が記念保存されている。さて、葛原商会はもともと貿易商で自らアメリカのフィリック社製冷凍機を商った。森冷蔵庫は技師ハワード・ゼンクスが設計監督し、大正8年10月に竣工、翌年8月から稼働を始めた。動力は大正13年に電化されるまでは、赤石製作所製の「木炭ガスエンジン」が使用され、零下20度前後になるまでには約20時間以上を要し、定温保持には1日70表の木炭を昼夜交代でくべる必要があった。詳しい仕様を以下に示す。 ・総建坪数 木造5棟270坪 ・凍結室 三室容積117,000立法尺(日産能力110トン)、保持温度-15度 ・冷蔵室 三室容積100,000立法尺(収容能力260トン)、保持温度-15度 ・断熱材 コルク ・冷凍機 アンモニア圧縮機94t アメリカ、フィリック社製 ・製氷能力  5t/日 ・発動機 サクションガスエンジン(木炭ガスエンジン)193馬力、赤石製作所製 葛原冷蔵森冷蔵庫 大正絵はがき 当時の冷凍機 森町指定文化財

第351回 日本冷凍食品事業発祥之地の碑      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年03月21日

北海道文化遺産活用活性化計画



北海道文化遺産活用活性化計画/道文化財保護協会 文化庁が押し進める『文化遺産を活かした地域活性化事業』とは、地域の文化遺産情報を発信し、そして地域の文化遺産を総合的に紹介する人材育成を行おうとするもので、地域の文化遺産を普及啓発するための事業である。具体的には、①建築物の調査・評価、②保存に向けた検討(修復等) ③人材養成講座・試験などを行う。北海道文化財保護協会、北海道建築士会、NPOれきけんは共同して実行委員会を組織し、文化庁へ「北海道文化遺産活用活性化計画事業」の補助申請を終えた。紋別市には、国登録有形文化財の”旧上藻別駅逓所”があり、すぐにでも登録可能な草鹿家住宅や建築物として価値が高い旧宇津々小学校奉安殿、地域のモニュメントとしての旧渚滑機関庫などがある。そして遠紋管内一円にはレンガ建築や文化住宅など貴重なものが多い。今後、私も何かしか関係して行くことになり、昨秋もこの近辺をヘリテージマネージ関係者と巡見したところで、また、建築士と協力して戦後間もない頃の大型建築を調査したりもした。建築士会紋別支部・遠軽支部の積極的な参加を期待したい。 紋別・遠軽地方の名建築 ペチカがふたつもある文化住宅 草鹿家住宅/紋別市 漆喰装飾が美しい 宇津々小学校奉安殿/紋別市 お城のような旧チーズ工場/湧別町 ウガツが上がるレンガ造り/遠軽町












第350回 文化的な名建築を残そう      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2014年03月07日

北大くろしお号 概略






















































もんべつにもやって来た!! 北大・潜水艇くろしお号 くろしお2号 青函トンネル記念館/福島町 北海民友新聞社 紋別沖の海底調査 くろしお号で海底をゆく 全国各地で行った試験調査 人工礁調査、水中聴音試験、網糸視程試験、底曳網成り調査、集魚灯試験、プランクトン研究、潮流計試験、照度計試験、海底炭田調査、青函トンネルボーリング調査、特にホタテ漁場調査、知床漁場探査、沈船・戦艦陸奥の撮影ほか …etc. 研究成果1 ホタテの地撒き増殖 越冬稚貝の放流においては一年貝はほとんどが密集し、ホタテは集団生活を営む習性があることは分かっていたが、昭和37~38年に潜水艇「くろしお号」に乗り、はじめて外海の海底を肉眼で観察して現実にはかなり違うことが確認できた。「ホタテの群生とその適した環境とはどのようなものか?」を追求する中で、人為的にホタテの群落を作ることができれば、資源増大が可能なのではないか、どうすれば群落を作れるか?を考えた。そしてホタテが密集しているところでは、意外にヒトデが少なく、ホタテ群落の外側をヒトデがぐるりと取りまく格好で、ホタテとヒトデの住みわけが見られることからホタテの種苗を蒔いて資源増とするには自然界の弱肉強食の中では少しくらいの量ではだめで、ホタテの群落・大集団づくりのために種苗の大量放流を提唱し、漁場に優占種のグループをつくることを考えた。「サロマ湖の風一連帯と共生」から要約/元網走水産試験場長 田中正午氏談 研究成果2 アンビリカルケーブル技術の確立 昭和26年にケーブルでぶら下げる潜水探測機「くろしお1号」が完成、最大深度206mを記録した。昭和35年には、くろしお1号を横向きに改造拡張して自航式の潜水艇「くろしお2号」となったが、“へその緒”と呼ばれるケーブル式は引き継がれ、現在の無人探査機の基礎的技術であるアンビリカルケーブル(へその緒)を確立した。 ケーブル式はバッテリーの搭載が不要で機体が軽量化でき、大容量の通電は多様な観測機器の使用を可能にし、そして安定的に通信することができる。ケーブル式は日本人の発明による。 研究成果3  マリンスノーの研究 「くろしお1号」に乗船した北海道大学の鈴木昇氏が、昭和28年に「海中の懸濁浮遊物マリンスノーに関する研究」として北大水産科学研究彙報に発表した。こうして名づけられた“マリンスノー”は、中谷宇吉郎教授によって広く喧伝された。





























第349回 潜水艇くろしお号      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2013年11月04日

鷹栖の藤野農場跡





















鷹栖の藤野農場跡 明治41年に大阪の住吉大社から分霊されたオサラッペの住吉神社。御神霊の鏡はニッケル製という。近江商人の又十・藤野家は、後幕藩期から明治にかけて北海道の漁場の大よそ3分の一を経営し、千島やカムチャッカにも進出した。明治中期以降、次第に漁業が不振となると、網走、紋別、白糠、鷹栖に農場を開くなど多角化を図ったが、家運は回復せず、ついに大正5年には一部農場の小作経営を残して、本拠の近江へ引き上げてしまった。
第346回 藤野番屋の農場跡      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年10月01日

北海幹線用水路


赤平市の入口 刈入れが近いので水が少ないです・・・ 大正13年に農民の悲願であった空知川潅漑溝の工事が始まった。昭和4年に赤平市を起点に砂川市、奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、南幌町までの約80kmを結んだ日本一長い北海幹線用水路が完成した。
第341回 日本一の用水路      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年08月25日

ホタテの水揚げ115年分































第365回 ホタテ漁業と加工補追      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年08月22日

ホタテ漁業と加工




























































































































































§ホタテのあれこれ~もんべつから ペリー買物の図・亜墨利加一条写 ◆ホタテの名前~海扇、帆立、秋田貝、車渠(イタヤガイ)北海道を代表とする北海道らしい魚介類としては、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブなどがあり、北海道の特産品であるホタテも、すでに幕末には乾貝柱として登場し、箱館奉行所の栗本鋤雲も、『蝦夷の三絶』のひとつとしてホタテの乾貝柱をあげており、明治に入って盛んに中国へ輸出されるようになって現在に至っている。松浦武四郎が残したアイヌ人の民話に『たくさんのホタテが、フタを帆に立てやって来た』というお話があり、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」でも、『口を開いて、殻の一方は船、他方が帆のように風に乗って走ることから帆立貝』とも、その形から「海扇貝」とも云われ、また、秋田の佐竹藩の家紋に似ているので「秋田貝」とも呼ばれる。 蒔絵ホタテ貝皿/室蘭市民俗資料館 1854年に、ペリーが箱館へ来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それはJohn.C.Jayによって、『Patinopecten yessoensis蝦夷の櫛皿』と名付けられたが、現在は、Mizuhopecten yessoensisと云い、一般名称はJapanese scallopである。皿貝とも云われるホタテは、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器や装飾品として使われ、明治初期の着業が間もない頃は、むしろ貝殻の利用を目的に漁獲されていたもので、戦時中の湧別漁協では、軍の命令により食器の代用品として大量のホタテ貝殻を発送した。 昭和11年の天覧活動写真/紋別 ◆紋別のホタテ漁業 明治に入り、ホタテ漁は後志と噴火湾を中心に盛んとなったが、乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点として道内の各地へ出稼ぎするようになり、そこで新たに有望となったのがオホーツク海の猿払や紋別で、また、遅れて根室では潜水漁が始まった。さて、一説に紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云い、これはナマコ漁での、混獲によるものと思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、この初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、別の記録では『明治26年、青森県人・握味久之助が高島から「八尺」を持てってきて漁を始めた』ともある。こうしてホタテ漁は北見地方を代表する一大漁業となって、大正の中頃には、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪の「紋別八尺」が全道的に知られるようになり、また、当地での昭和10年の水揚げ15,691 ㌧は、長い間、日本記録であったが、当初から乱獲などで、好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は、同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが管内のホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別において現在の基礎となる実証的な試験が繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは「4年毎の輪採制」として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定して来た。 ◆オホーツク名産の乾貝柱 昔のホタテガイ(イタヤガイ)の漁労を歌った鳥取県気高郡の“民謡・貝殻節“は有名で、「白乾」と云われる今のような貝柱のみを精製したホタテの乾貝柱は、文政年間に同郡の山田与五郎が開発したと云う。一説に北海道では、明治12年頃には試作されたというが、その技術が青森を経由して道内に導入され、同21~22年頃から本格的に製造されたが、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。 大正末期頃のホタテ乾燥の景/紋別 自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って「白乾」の製造法を熱心に指導したことから、乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品となり、その後の漁獲規制や地まきによる増養殖事業の定着もあって、オホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となった。昭和3年に道庁が発行した「北海道の商品」を見ると、白乾百斤の相場は、紋別が130~84円、宗谷は125円~80円、根室が105円~82円であり、その頃から当地の乾貝柱がより上等品であったことが分かる。昭和7年に沿岸漁民の商業資本からの脱仕込みと乾貝柱の価格向上を図るため、紋別を中心に網走管内漁協連が発足して乾貝柱の共販を始めたが、このときは失敗に終わってしまい、あらためて同9年に紋別・沙留・雄武によるホタテ貝柱出荷組合が組織されて好成績を収め、こうして各地に共販組合が発足した。 敗戦後、主要な中国市場は失われたが、香港を通じて再開され、昭和29年には漁連系統による大洋漁業への一括販売となり、現在は、漁連の直販となったが、従前同様にマルハニチロ(旧大洋漁業)との結びつきは強い。 ホタテ煮汁エキス/紋別漁協 ◆ホタテ煮汁の濃縮エキス 北海道庁は、昭和9年~11年にかけて、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための試験を実施し、薬品会社数社の協力を得ながら濃縮技術の開発を試みた。昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、真空蒸留濃縮法の実証試験を行い、間もなくホタテによるグリコーゲンの製剤化が、実用化されたようである。当地においても昭和11年に創業の昭和産業が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売しており、これらの多くは栄養剤とされ、一部は調味料としも用いられた。また、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のおみやげとして、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。このホタテ煮汁エキスは、現在も重要な天然添加物として大手商社を通じ流通している。 ◆貝殻石灰 「貝灰(かいばい)」は、石灰(いしばい)の漆喰に比べてゆっくり固まり、亀裂が生じにくく、白度も高いので、仕上げに使うと良いとされる。北海道では、開拓初期の明治12年、同13年に「コレラ」が大流行して、小樽の佐藤賢次郎は消毒用の「貝灰」の製造を始めたが、次第に建築、土木での石灰(せっかい)需要も高まったので煉瓦製直立窯での本格的な事業を開始した。以後、新たな参入者も現れて消費は札幌、旭川、樺太までに及んだが、大正に入って小樽周辺でのホタテ漁が不振となり、原料の貝殻が高騰すると北見方面からも仕入れざるを得なくなった。 戦前の貝灰工場/紋別町史 こうして小樽の近藤馬太郎は、大正2年に湧別へ移転して貝灰製造を始め、以後、盛業を見たが、戦後、ホタテの漁獲が激減して昭和36年には廃業してしまった。この地方ではほかに昭和4年の「紋別町勢一班」に貝灰工場2とあり、同5年の「北海道商工名録」には紋別に米田一郎が見られる。また、猿払には、大正時代に創業した瀬川貝灰製造所と金井貝灰工場があり、浜佐呂間では、漁業者が共同で貝灰事業を行っていた。戦後の記録では、昭和27年の「紋別町勢要覧」に貝灰52㌧、524,400円の記録が見られるが、小規模なものを含めると紋別には数軒の工場があったらしく、しかし、当地でもホタテ漁の不振から数年おきに禁漁となると、需要環境の変化などもあって、昭和40年代までには、全てが廃業してしまった。 ◆ホタテウロ粕 昔は煮つけなどで平気で食べられ、出稼ぎ漁業者の土産品ともなっていたホタテのウロも、漁獲量の増加とともに加工残さとして大量に発生するようになり、多くのカドミウムを含むことが分かったことで、浜一番の厄介者となってしまったが、紋別市内には、その処理工場があって飼肥料の原材料となっている。昭和11年の「紋別漁業協同組合概況」を見ると「海扇ウロ粕」の記載があり、昭和10年には1,196俵、7,128円と相当の出荷があった。肥沃で肥料知らずであった新開地の北見地方も、大正時代には地力の減退が現れ、昭和になって金肥の使用が広がったのである。当時、気候風土に合い、精製品の運搬も容易く、高価であったハッカの栽培が盛んとなり、世界市場の7割強を産出するに及んで、地元で産出されるホタテの「ウロ粕」を、特効があるとしてハッカに多用していた。 昭和10年頃のホタテ缶詰 開拓使工場の流れをくむ藤野缶詰所 ◆玉冷(冷凍貝柱)とその他の加工 加工・流通が未発達な時代は、ほとんどが中国向けの「乾貝柱」であったが、明治29年に小樽で本格的な缶詰製造が始まり(ただし、明治23年の北海立志図録の広告に室蘭港の帆立鑵詰類が見られる)、当地でも大正11年頃から盛んに生産され出したが(一説に明治37年)、中国では缶詰が嫌われたことから、北米などへの輸出が大きくなったのは、昭和に入ってからであり、その中心地は根室、つづいて北見地方であった。そして冷凍品も昭和3年の根室の試験に始り、のちに根室と紋別に加工場が建設されて、同じく主に北米へと輸出された。昭和40年代には、噴火湾での養殖事業が軌道に乗り、サロマ湖での増養殖が脚光を浴びるようになる。こうしたホタテの増産とともに同代後半にはボイル加工が盛んとなり、同50年代にはオホーツク海での地まき増殖が定着して玉冷加工が急増した。そして昭和53年の噴火湾での貝毒による生鮮出荷の停止を最初に、平成に入るとオホーツク海でも頻発するようになり、ウロを取り除いた「玉冷」は、ますます重要なものとなる。このようにホタテ事業は、むしろその加工に特徴があると云え、玉冷は、漁協工場だけで、全流通の1割強はあると思われ、他の市内一般工場も含めると相当量に上り、また、海外では紋別漁協のニセブランド品が出回るほどである。当地のホタテ年表 西暦 年号 記事 1880明治13年この頃、ナマコ漁で、たくさんホタテを混獲したという 1892明治25年本格的なホタテ漁が始まる 1894明治27年密漁防止のため、ホタテ船の標旗を明確化する 1896明治29年早くもホタテ資源が枯渇し、紋別郡では3区分の輪採とする 1922大正11年この頃からホタテ缶詰が本格的に生産されるようになる 大正中期の頃、小樽高島の「鉄製・紋別八尺」が、道内に普及する 大正期、ホタテ船に改良・川崎船が現れる 1927昭和2年紋別漁業組合長に古屋正気が就任し、脱仕込みの組合員整理を断行 1928昭和3年ホタテの標識放流による貝移動調査(~4年) 1930 昭和5年紋別郡水産会、製品検査を主たる事業として設立 1932昭和7年 紋別を中心に管内漁協連が発足し、乾貝柱の共販を始めるも、このときは失敗に終わる 1934昭和9年紋別漁業組合が中心となり、沙留・雄武とホタテ貝柱出荷組合を発足し、好成績となる サロマ湖でホタテ種苗試験始まる 1935昭和10年ホタテ15,691t水揚げ、戦後長く日本記録となる 水試が北海道漁業缶詰㈱紋別工場でホタテ煮汁の濃縮試験を行い、精製技術が確立 1936昭和11年サロマ湖産ホタテ稚貝の移植地蒔き開始 1937昭和12年ホタテの漁場適地調査 1943昭和18年ホタテの年令組成調査 1951昭和26年ホタテの潜水と桁網による生態調査 1954昭和29年ホタテ乾貝柱が漁連を通じた大洋漁業(マルハ)への一括販売となる 1955昭和30年ホタテ漁が「手捲き式」から「動力式」とし、操業160隻から46隻に整理 移植事業の成績調査 1963昭和38年北大の潜水艇くろしお号が、当地でホタテ潜水調査を行う 1965昭和40年ホタテ漁が全組合員にる共同経営方式となる 1968昭和43年ホタテ乾貝柱が大洋漁業(マルハ)への一括販売から、漁連系統の直販となる 1974昭和49年 ホタテ稚貝放流が本格的に取り組まれる(この年1億2千万粒放流) ホタテ漁禁漁(~50年) 1976昭和51年ホタテ漁、4年輪採制として再開 1878昭和53年 渚滑沖でホタテラーバ採捕(618万粒)、中間育成、越冬飼育(75万粒)に成功 1980昭和55年 紋別漁業協同組合にホタテ養殖部会を設置 2003平成15年全道的にホタテ豊漁、価格が大暴落する




第364回 ホタテの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年08月10日

足寄の奉安庫





朕惟フニ我カ皇祖皇宗… もはや知るも者なく、開きもせず、残念ながら確認できませんが、その造りから奉安庫と推定される足寄町郷土資料館の金庫。




















第362回 奉安庫?      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年08月08日

歴史的建築物が倒壊



旧上藻興部駅逓所が倒壊!! 歳月流るるが如し、形あるものはいつか壊れる。年に一度は、現存確認に行っていた西興部村の「旧上藻興部駅逓所」が、倒壊していました。今冬の暴風雪にやられたのでしょう。残念!! 写真は在りし日の駅逓所















































第361回 旧上藻興部駅逓所      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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