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2021年01月01日

最果ての日本史 続

目次2


目次 第一話 道内では希少な洞窟遺跡 網走市 第二話 旧石器時代の工房 遠軽町 第三話 紋別のゴールドラッシュ・上 紋別市 第四話 紋別のゴールドラッシュ・下 紋別市 第五話 金・銀・オパール 紋別市 第六話 鉱毒事故 紋別市 第七話 焼竹輪とすり身 北海道 第八話 氷田 紋別市 第九話 マグロが鮮魚流通に与えた影響 道内外 第十話 鮮魚介類のブランド考・上 道内外 第十一話 鮮魚介類のブランド考・下 紋別市ほか 第十二話 紋別石と箱館焼 函館市ほか 第十三話 上湯ノ川石灰製造所 函館市ほか 第十四話 勝田温泉効能書 函館市 第十五話 胃袋の宣教師 函館市・北斗市 第十六話 寄鯨のこと 斜里町・紋別市・白糠町ほか 第十七話 万次郎の子孫 木古内町、紋別市ほか 第十八話 ウバユリ粉の餅菓子 函館市 第十九話 北海道で最初のハッカ栽培 石狩ほか第二十話 開進社その後 湧別町・北見市・紋別市 第二十一話 騒がれた紋別築港問題 紋別市 第二十二話 紋別港、戦後間もない頃 紋別市 第二十三話 戦前のトップ女優 岡田嘉子 小樽市ほか 第二十四話 ヒットメーカー美ち奴 姐さん 浜頓別町 第二十五話 伝説のムーラン・ルージュ 札幌市・小樽市 第二十六話 新紙幣の肖像 北海道 第二十七話 札幌オリンピックとたくちゃん 北海道 第二十八話 拓銀のハッピ 北海道 第二十九話 旧留萌佐賀家漁場 留萌市
第三十話  角十佐藤家 佐藤栄右衛門 寿都町 第三十一話 又十の住吉丸 松前町・斜里町・網走市 第三十二話 知床三堂祭 斜里町 第三十三話 眞久寺の六角堂 旭川市 第三十四話 明治時代の危険品庫 富良野市ほか 第三十五話 竹田判官の奉献額 稚内市 第三十六話 文化住宅・草鹿邸 紋別市 第三十七話 生き残った円形校舎 幌加内町ほか 第三十八話 最初の御真影 道内外 第三十九話 御真影と教育勅語の事件簿 月形町・留萌市・足寄町・寿都町 第四十話 昭和の御真影 道内外 第四十一話 犬皮のドンザ 北海道 第四十二話 南極観測隊の訓練 稚内市・網走市・大空町ほか 第四十三話 最初期の林産開発 北海道 背景図、宗谷が灯台保安船のころ 南極学術探検と朝日新聞 昭和31年刊


第442号 北海道の歴史と文化    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2020年11月03日

最果ての日本史

 今まで書き溜めていたものを
  再構成して緩く分かりやすく、1P完結にしました。
  自然、科学、文芸、人物、音楽、産業ほか
  北海道に関わる資料集になっています。
  上中下巻、本編が97話、表紙が3話の計100話あります。
  並みの文献には載っていない情報がいっぱい。



最果ての日本史 第一話 流氷のうた 第二話 毛ガニ拾い 第三話 南極犬・もんべつのクマ 第四話 危険だった遠洋漁業 第五話 啼かなくなった霧笛 第六話 マルキパンと石北線 第七話 渚滑線の開通 第八話 下湧別浜、機雷爆発事件 第九話 高級建材となった貝灰 第十話 湧別地方の煉瓦建築物 第十一話 冷凍食品のはじまり 第十二話 紋別発、鮮魚輸送試験 第十三話 紋別駅のこと 第十四話 北見ハッカの起源 第十五話 北限のリンゴ 第十六話 紋別地方の製軸ブーム 第十七話 金鉱整備令と鴻之舞休山 第十八話 薯版画家・香川軍男 第十九話 ブラキストンが来た 第二十話 『紋別の歌』の作詞者 第二十一話 当地へやって来た潜水艇 第二十二話 昭和十一年の皆既日食 第二十三話 日露戦争と湧別屯田兵 第二十四話 北見峠の開削 第二十五話 貴重な土木遺産ふたつ 第二十六話 道路元標 第二十七話 ◇イ田中商店のこと 第二十八話 紋別の奉安殿 第二十九話 江戸時代の掛軸 第三十話 網走の葛籠と高札 第三十一話 大鮃(オヒョウ)の話し 第三十二話 革命をもたらした鰊角網 第三十三話 もんべつの捕鯨 第一話 スキーとスケート 第二話 昔の冬のはき物 第三話 初代ガリンコ号 第四話 海成段丘と海跡湖 第五話 地名考第六話 ホタテの名称 第七話 ホタテのエキス 第八話 伝統食と郷土料理 第九話 壱万円札考 第十話 美幌に伝わる尺杖の神事 第十一話 備前焼のニ宮金次郎像 第十ニ話 教育勅語のこと 第十三話 母の樺太体験 第十四話 オタスの杜の半澤写真館 第十五話 作家、本庄陸男の時代 第十六話 浦臼の岩村農場 第十七話 岩村長官の旭川開発 第十八話 最後の駅逓所 第十九話 武林写真館の鉄道三葉 第ニ十話 どんぐりころころ 第二十一話 道民のソウル・ダンス 第二十二話 紋別沖揚音頭 第二十三話 第一次知床ブーム 第二十四話 白瀬南極探検隊 第二十五話 最初の青函航路第二十六話 連絡船の車両航送 第二十七話 国内初のコールドチェーン 第二十八話 小説『蟹工船』のモデル 第二十九話 著名な蟹工船 第三十話 新撰組が作ったリンゴ 第三十一話 幕末・明治の捕鯨 第三十二話 幕末の箱館市街図 第三十三話 東西本願寺の殖民 第一話 函館戦争の図 第二話 箱館通宝 第三話 開拓使兌換証券 第四話 現如上人北海道巡錫錦絵 第五話 蝦夷土産道中寿五六 第六話 北海道鰊大漁概況之図 第七話 蝦夷地随一の旧家、田付家 第八話 桑園の開墾 第九話 明治の御巡幸と御乗物 第十話 最初期のホタテ漁 第十一話 ホタテ罐詰と玉冷 第十ニ話 天皇陛下の映画 第十三話 ホタテ民謡と浪花節 第十四話 山崎部隊の感状 第十五話 軍神、加藤隼戦闘隊長 第十六話 開発局の北方領土開発計画 第十七話 近江の大商人、藤野家と罐詰 第十八話 函館氷と鮮魚輸送試験 第十九話 たくさん獲れた底引きカレイ 第ニ十話 時代のサブカルチャー、パッチと双六 第二十一話 石狩油田と軌道敷設問題 第二十二話 生きもの考第二十三話 タンチョウの保護 第二十四話 磯焼けを定義した遠藤博士 第二十五話 名プロデューサー河合裸石 第二十六話 北海道庁の移民政策 第二十七話 タコ部屋労働 第二十八話 札幌市街區劃明細圖 第二十九話 北海道製麻の輸出用麻布 第三十話 開拓使地券 第三十一話 炎上した旧北海道本庁舎


第441号 北海道の歴史と文化    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2019年12月15日

張碓、鉄道路盤竣工の図



幌内鉄道路盤竣工の記念写真 手宮から始まった敷設工事が熊礁第4隧道までを終えて、試運転を開始したのが明治13年10月24日、11月11日には銭函までの仮営業を開始した。本図は明治12年10月、張碓カムイコタンの断崖絶壁に完成した路盤をバックにした記念写真。最前列で腰かけているのが札幌農学校第1期生の小野寺琢磨、その上の外国人がクロフォード博士。このときの人夫たちは全て江戸っ子だったという。
第440号 小樽カムイコタン、鉄道路盤竣工の図          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2018年12月17日

戦前の鮮魚輸送 要旨


〇要 旨 豊州市場の開場よりも、むしろ築地市場廃止のイ ンパクトが強い。さて、関東大震災によって魚市場が日本橋から 築地へ移転した頃、既に最奥のオホーツク紋別か ら相当量の鮮魚が送られていた。いったいどのよう に東京へ運ばれたのか? ●北海道では、明治 36 年に“生鮭輸送保存試験” が行われ、石狩川で捕獲した鮭を札幌に運び、そこ から貨車に積載して東京深川の水産講習所へと送 った。これが本道における鉄道を利用した本格的な 鮮魚輸送試験の最初ではないかと思われ、当時の 交通事情を考えると室蘭まで鉄道を使い、室蘭から は郵船に貨載したと考えるが詳細は分からない。我国の鮮魚輸送試験は明治 25・26 年頃に氷蔵が試みられたが、その時は業界からの支持を得られず、あらためて同 40 年の各府県水産試験場長並びに水産講習所長協議会の決議によって試験が実施され、この時は良好な結果に事 業者達からも評価された。国内鉄道の冷蔵車は明治 41 年に登場し、道内では沖合底引き網 漁業が盛んになった大正11 年に30輛が配備された。大正14年から は、青函連絡船の“直積み航送”が開始されて内地への鮮魚輸送は 急増する。紋別に鉄道(名寄線)が開通したのは大正 10 年であるが、 昭和 3 年に紋別~隅田川間(築地市場の最寄駅)で、最新の冷蔵車 による“鰈と鱒”の鮮魚輸送試験が行われ、また、同 5 年には練製品 向けの原材料として“鮮鮫”を大阪梅田へ送る輸送試験がなされた。 当地には昭和5年当時で現在の漁協大型製氷施設の販売量に匹敵 する天然採氷があり、翌年には最新式の冷蔵施設が完成して、水産 物の地方出荷は益々盛んになって行く。昭和 10 年に“新築地市場”が開設されたとき、同時に『東京市場 駅』が設けられて“鮮魚特急”と呼ばれる貨物列車が走った。この間に 冷蔵車の度重なる開発・改良があり、速達化を図るための車輛連結 器の全国統一もあったが、そもそも鮮魚をコールドチェーンで結ぼう とする試みは北海道で始まったもので、車輛連結器も北海道仕様が 全国基準となった。そうして紋別は大手水産会社の進出などがあり、 戦後には国内水産冷凍食品の発祥地となった。第34回北方圏国際シンポジウム Transport of fresh fish before World WarⅡ 山田雅也 北海道産業考古学会 北海道文化財保護協会 紋別市役所

第437号 戦前の鮮魚輸送          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2018年05月24日

北海道製麻会社の麻布



北海道製麻会社の麻布 明治20年に創立の『北海道製麻会社』は、同24年から工場の操業を開始した。もっぱら海外に頼る麻製品を国内で生産すべく亜麻を輸入移植して、製繊技術はフランスから導入した。最大の供給先は軍部であり、日清・日露戦争を経て、明治40年に日本製麻会社と合併、帝国製麻会社となる。この札幌工場は、今はなくなった「テイセン ボウル」があったところ。麻布には、“ロイヤル ネイビー”とあり、イギリス軍用に輸出したものか。
第436号 北海道製麻          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:00Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2018年05月04日

道の歴史 講演会

2018年 IPAC主催講演のご案内


 北海道150年、
 北の大地を拓いたさきがけの“みち” 縄文・アイヌ期から近代の“みち”へ





号外         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

2018年03月31日

北の大地を拓いた先駆けの”みち”



北海道150年事業 認定 (講演)北の大地を拓いた先駆けの”みち” ~縄文・アイヌ期から 近代の”みち”へ~ とき 2018年6月15日(金)13:00から ところ 札幌市中央区北2条西7丁目 かでる2・7、大ホール 参加料 無料 主催 IPAC 一般社団法人 建設イノベーション推進機構 問い合せ TEL&FAX 011-731-3750、Mail ipac-info@ipac.or.jp ホームページ URL:http://www.ipac.or.jp/ この講演では、土木技術による社会基盤である“みち”の成り立ちを土木技術史の観点のみならず、考古・歴史などの他の研究分野を含めた時空的広がり・技術横断的な視点から、その背景を多角的に学び、そこから未来志向の動機を醸成することを目的としています。現在の北海道の発展は、明治以降の近代技術による道路・鉄道の整備から始まります。この“みち”づくり構想は、アイヌの人びとや更に先人の縄文期の道を歩んだ松浦武四郎等の蝦夷地調査によります。これら先人が築いた長い“みち”づくりの歴史を辿り、現在と未来の交通路のあり方を考える場とし、各分野の研究成果から明らかになった“みち”の成り立ちを縄文からアイヌ期、近世・近代の各時代を追って、ご専門の先生に解説していただきます。 ○基調講演 佐々木 利和 氏/北海道大学アイヌ・先住民研究センタ-客員教授、文学博士 ・演 題:アイヌの人びとの“みち”のことなど 今では知る人も少なくなりましたが、少し前の国鉄の駅名には、釧路、蘭留、咲来、留辺蘂、札鶴、室蘭、留産などというのがありました(読めますか?)。いずれもある共通なアイヌ語をもつ駅名なのですが、これらを通してアイヌの人びとの“みち”について考えてみたいと思います。 ○講演1 乾 哲也 氏/厚真町教育委員会軽舞遺跡調査整理事務所、学芸員 ・演 題:縄文時代からの北海道内陸ルート“キラキラ土器の道” 北海道胆振管内東部に位置する厚真町には、夕張山地南部からの太平洋に注ぐ二級河川厚真川が町内を南北に流下している。平成14年度より始まった厚真川上流域での厚幌ダム建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査では、出土した縄文土器に含まれている鉱物から富良野盆地ないしは十勝川上流域から運び込まれた土器が多数出土しており、以降、中世アイヌ文化期に至るまで厚真川-鵡川-空知川などの利用した約6,000年間にも続いた内陸ルートが判明しました。 ○講演2 中岡 利泰 氏/えりも町郷土資料館、館長 ・演 題:蝦夷地 北方警備の道 猿留山道 江戸時代18世紀末、蝦夷地周辺、千島列島にはロシア等の外国船が頻出、アイヌとの交易、上陸、襲撃略奪が生じ、江戸幕府は警備拡充の必要に迫られました。寛政十一(1799)年、幕府は蝦夷地を直轄、警備に不可欠な道として海岸線の難所に山道、猿留山道(えりも町)、様似山道(様似町)を開削したのです。伊能忠敬が測量、松浦武四郎が探査、紀行文・絵図から猿留山道の姿をご紹介します。蝦夷地における最初の山道開削は、近藤重蔵が指揮したルベシベツ山道(1798年:広尾町)。 ○講演3 黒岩 裕 氏/札幌市有形文化財、北海道遺産認定物件、旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)管理者 ・演 題:本願寺街道と簾舞通行屋~歴史と変遷 札幌市と道南を結び山間部を縦断する国道230号線、その原形 は明治4年に完成した「本願寺街道」です。5年には宿泊休憩所として開拓使が簾舞に「通行屋」を開設。しかし6年に「札幌本道」の完成により利用が激減し、忘れ去られる状態に・・・。“歴史は繰り返す”凡そ90年後に札幌と中山峠間の「定山渓国道」改良工事が奇しくも簾舞を基点に、のちに通行屋も文化財となる。道路と古建築の歴史をスライドにして紹介します。 ○講演4 山田 雅也 氏/北海道産業考古学会、北海道文化財保護協会 ・演 題:北海岸と中央道路に見る 最奥の駅逓所 駅逓所は、幕藩時代に会所、運上屋などと呼ばれて宿泊と人馬継立を行っていた。明治5年に『駅逓場』と称して開拓使の官下とされ、駅逓取扱人を配置し、多くは郵便局を兼ねて逓送も行った。最奥の“北海岸(オホーツク海)”では、旧来からの駅逓所が沿岸を結んでいたが、内陸を横断する“中央道路”が開削されると旭川から網走までの間に12の駅逓所が配置された。実際の移民旅行の様子を交え、道東奥地の駅逓所を解説する。 ○講演5 佐藤 卓司 氏/小樽市総合博物館主査、学芸員 ・演 題:開拓の進展を願った“鉄のみち”~北海道官設鉄道 明治時代に入ると北海道開拓使を設置し外国の近代技術を取り入れ開拓を進めます。事業の一つである鉄道建設はアメリカ人による技術指導で石炭輸送を目的に敷設されます。鉄道網は将来、石炭輸送だけではなく人や生活物資の輸送手段として交通の要になることを想定していました。その後、私設鉄道は産炭地や中央部への路線拡大を進めます。一方、道庁鉄道部は田辺朔郎を部長とし上川線、十勝線、釧路線などの路線敷設により開拓を促進します。本講演では北の大地を拓いた鉄路の“みち”について解説します。 開拓使時代の室蘭新道及銭函小樽間新道 ノ開墾実況 北海道道路誌 大正14年刊  瀧ノ上市街  官設駅逓所 渚滑瀧上の分村 大正7年刊
第435 北海道150年 道の歴史         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2018年01月08日

屯田兵の備品箱 レア



日清戦争 屯田兵・臨時第七師団備品箱 明治29年5月、札幌に第七師団が設置され、初代師団長は、永山武四郎少将だった。明治31年12月には全道で徴兵令が施行され、第七師団の鷹栖村への移駐が決定する。そうして明治34年11月の一部完成に伴い、歩兵第26、27、29連隊が先行移転、翌35年10月には司令部が移転した。さて、明治28年3月に日清戦争へ出兵のため、屯田兵による臨時第七師団が編成された。極めて限られた時代の遺物であり、たいへん貴重である。
第434 屯田兵・臨時第七師団備品箱         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年12月16日

郵便ラッパを入手



郵便ラッパと逓送 幕藩時代は会所、運上屋、通行屋などと云い、宿泊と人馬継立を担い、明治5年に「駅逓場」と称して開拓使管下とし、駅逓取扱人を置いた。駅逓の多くは郵便局を兼ね、逓送路線では逓送業務も行った。これは“郵便ラッパ”と云って郵便逓送集配人が獣避けや連絡用に使用したもので、北海道庁の刻印があることから駅逓取扱人の所有だったかと思われる。また、逓送人は、強盗などに備えて“郵便物保護銃”を携帯していた。 大正時代の逓送 『その頃の逓送は、現金などを、駄鞍につけて運ぶ者と、普通小包を馬車で運ぶ者と二種類あって、何れも二人一組でした。用心のためにピストルが渡され、六連発の弾丸を込めて腰に、皮のバンドで下げていました。 中略 汽車の時間表のように、出発到着の時間が定められており、時間に遅れて到着すると、延着理由書を書かされました。夏は延着することはなかったが、冬は吹雪で度々遅れたことがあります。逓送馬は殆ど土産子で、居眠りして落馬し、あぶみから足が外れず、仲間に助けられたこともありました。後略。』 一ノ橋、田所駅逓々送夫、千葉正胤談/西興部村史
第433 郵便ラッパと逓送         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
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2017年11月16日

アイヌ民族文化祭 in 旭川 



第30回 アイヌ民族文化祭に参加して この十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、アイヌ民族の自然観、精神世界の理解を深めてもらい、また、アイヌ民族が先住民であるとの認識を高めて、それで多文化共生社会の実現となることを望む。』との挨拶に始まった。アイヌ古式舞踏では、「旭川チカップニアイヌ民族文化保存会」の多くの若手らが、動植物を表したチカプウポポ(鶴の舞)や激しさの余りに心臓破りの踊りと云われるフッタレチュイ(トドマツの踊り)などを披露した。「阿寒アイヌ民族文化保存会」は、今回は小中学生を中心に構成され、チロンヌップリムセ(キツネの踊り)が可愛らしく、クリムセ(弓の舞)は、とっても勇ましいものだった。〝旭川〟と〝阿寒〟の違った鶴の舞が観覧でき、お得気分に浸りながらアイヌ文化が確実に若者たちへ引き継がれて行くことを確信したのだった。続いて国立アイヌ民族博物館設立準備室の内田祐一氏(元帯広百年記念館副館長)による講演「アイヌ文化のなかの自然観」では、自然=カムイ、アイヌモシリとカムイモシリについてのアイヌ民族の自然観が、キタキツネやシマフクロウを題材に語られ、同じカラスでも〝ハシボソガラス〟は賢くエライ神であり、〝ハシブトガラス〟は、ろくでもないものという話に興味を引かれた。そうして二人組みの男性ボーカル・HEAT VOICEと阿寒コタンの若者たちによるトーカリップ(マリモ)体操が会場を盛り上げ、最後にポロ リムセ(輪踊り)が、感動的にフィナーレを飾った。こうして楽しくとても有意義な一日を過ごしたのであった。 フィナーレ みんなで大きな輪をつくって踊りましょう
第432号 アイヌ民族文化祭 in 旭川         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 19:00Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年09月03日

手本は二宮金次郎


文部省唱歌「二宮金次郎」 柴刈り繩なひ草鞋(わらぢ)をつくり、親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 九谷焼、青銅製 二宮金次郎(尊徳)のこと この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語を書いて、このときのイラストに始まったと云われます。金次郎の孫の「二宮尊親」は、福島県下の困窮民の活路を新天地の北海道に求めようと明治29年に北海道各地を視察・探検し、開墾地を十勝の牛首別原野(現豊頃町)に選定しました。翌年には自ら15戸を率いて入殖し、10年後には、移住戸数160戸958人、開墾地844町歩の一大農場を形成しました。

第423号 二宮金次郎(尊徳)のこと     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年08月13日

月形町の神社にあった最古級の奉安殿


 月形小学校の火災で類焼し、遷座した樺戸神社へ移設されていた奉安殿は、その神社の再遷座で失われたのである。
開校百周年記念誌より 小学校へ積極的に御真影が下賜され始めたばかりの明治28年5月(1895年)、北海道樺戸郡の月形小学校(月形町)が出火し、御真影と教育勅語を焼失したことは大きな驚きであった。北海道内で初めてのことかもしれない。 同校は、同30年(1897年)に再建された際に煉瓦造の独立棟を建設、同年、松前郡吉岡小学校(福島町)も煉瓦造を建設した。こうして、あちこちで煉瓦造の奉安殿が建築されるようになり、独立棟の建築は、むしろ本州よりも北海道が積極的であった。 道内で最古かと思われる月形小学校の奉安殿は、戦後も樺戸神社に移設されて残されていたが、昭和45年の須部都川築堤工事に伴い移転となり、やむなく取り壊されたことは、惜しむべきである。残念。
第422号 北海道で最古の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:50Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年08月05日

北海道の捕鯨業の嚆矢


明治33年の留萌捕鯨場の景 北海道の捕鯨業の嚆矢、伊藤一隆が関係した大日本帝国水産会社のこと。石川県士族の斉藤知一が、明治17年に胆振国の室蘭・有珠の両郡、翌18年は後志国岩内郡で捕鯨を試みたが、鯨を恵比寿神と信奉する地元漁民の妨害に合い、同20年に天塩国羽幌へ転じた。明治21年には、国策によって設立された大日本帝国水産会社(のち帝国水産会社)が、根室・千島沿海でラッコ・オットセイ猟、捕鯨を試み、のち石狩国での許可を得て、また、羽幌での斉藤の事業を引き継いだ。こうして北海道内でも本格的な捕鯨が見られることになった。
第421号 北海道の捕鯨業の嚆矢     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2017年07月26日

寄鯨伝説と近年の漂着例


紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。知床ウトロの伝説に云う。昔、岩島に住むオロッコ人が、通りかかるアイヌ人に上から投石してホトホト困っていた。岩島高くにいるオロッコ人は手強く、そこでアイヌ方は一計を案じ、夜中に海草でクジラの形を作り、魚を置いた。朝になって群がる鳥を見たオロッコ人たちは、岸に鯨が寄ったと思い、喜び勇んで岩島から下り、駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻め、こうしてオロッコ人は全滅してしまった。同様の話しが枝幸、浦幌ほかにあり、“寄り鯨”に関係する伝説は、全道のあちこちに散見される。鯨は貴重な資源であった。当地にも、紋別空港を横切ってオホーツク海に注ぐ小河川にフンベ(鯨)オマ(居る)ナイ(川)という寄り鯨の川がある(図2)。近年、クジラの漂着が増加していると感じるが、生息数増の兆しなのか?
第420号 寄鯨伝説と近年の漂着例     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月26日

集落名に見る母村

~北海道号線の由来

集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度で、これにより土地の正確な位置や面積が簡単に分かるようになった。アメリカやカナダでは、開拓時代の18世紀後半から19世紀前半にかけて各州ごとに東西南北に基準線を設け、実際の土地測量に基づいた碁盤目状の土地割を行い、それを細分して入殖者に与えるタウンシップ制を取った。さて、北海道の開拓使時代の屯田兵や移民募集への直接保護政策は北海道庁の設置を見てからは誘導保護へと転換され、明治19年には殖民地選定事業が始まり、明治22年からは区画測設によって殖民地区画図を調製した。こうして北米のタウンシップ制に倣い、殖民地ごとに基線を定めてそれに並行する2線、3線…、基線に直行する号線、2号、3号…を設けて、入殖者1戸に基本5町が与えられた。旧開地や網走、紋別など早くから漁業開発が進んだ沿岸地域を除いて、新開地の本格的な開拓が始まったのは、明治30年に北海道国有未開地処分法が定められ、大地籍地の処分が積極的に行われるようになってからで、本州の各地から団体移住者が入殖するようになる。全くの原野を切り開いた内陸地においては、村を立てるにあたって殖民地の区画測設がなされ、まずは官公所や学校地、神社地などが区割りされ、例えば神官なども公募された。新たな集落では、常呂町土佐や訓子府町秋田、釧路市鳥取などのように出身地名が引き継がれ、佐呂間町栃木は、あの足尾鉱毒事件の被害者たちが入殖した土地である。そうして芦別市や沼田町などは、富山県の門徒衆が多く入ったので聖徳太子講が持ち込まれ、越中獅子舞が残っており、また、岩見沢市栗沢町には、郷里の越中礪波郡から分祀された礪波神社がある。また、紋別市の漁民の間では、庄内由来の龍王講が信奉されて120年を越えると云う。 佐呂間町栃木団体の記念碑
第419号 北海道の開拓号線     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:17Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年07月24日

マルキ号製パンの跡 2


マルキ号製パン 水谷農場の跡を追った 西足寄の農場は、秘湯・芽登温泉のさらに奥地の高原にあった。現・足寄町旭ヶ丘。 遠隔地のうえに起伏が大きい低温地帯で、当然、失敗に終わった。 水谷政次郎が生涯を終えた小清水町の泉地区、今でも一族が暮らす。 きれいに区画された雄大な小麦畑に水谷橋はある。
第418号 マルキ号製パン、水谷農場     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2017年07月22日

御真影奉安殿










第417号 御真影と奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月20日

青函連絡船概史


青函連絡船概史 青函の定期航路は、文久元年8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復した。維新後は、旧幕軍の軍艦咸臨丸が、開拓使付属船となって青函航路の輸送に当り、他に幕府から引き継がれた船に薩摩藩から献上された洋式軍艦昌平丸がある。開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有し、明治6年には、スクーナー型の木造船弘明丸が、函館~青森、函館~大湊の定期航路を始めて、後に森・室蘭へと延長された。ほかの著名船には、玄武丸(黒田丸)や矯龍丸(ケプロン丸)などがある。○青函連絡船の始まり/国鉄による青函連絡船は、明治41年3月7日の比羅夫丸の就航に始まり、日本郵船で7時間はかかったものが4時間台になった。○車両航送が始まる/北海道の開発が進むと青函航路の増強が望まれ、大正3年に艀船「車運丸」による航走が始まって、同14年8月1日から貨車を直積み出来るようになった。○空襲で全滅/昭和20年7月14日に「翔鳳丸」「飛鸞丸」ほかが、翌日にも「第一青函丸」が、8月10日は代替船「亜庭丸」が米軍機に撃沈され、全13隻が炎上または沈没して全滅した。○洞爺丸台風/戦後復興の象徴として“海峡の女王”とも呼ばれ、昭和天皇の御召船にもなった「洞爺丸」であったが、昭和29年9月26日の台風15号で漂流・転覆、国内最大級の海難事故となった。○青函連絡船の終焉/貨物は昭和46年に旅客が同48年をピークに減少し、同63年に青函トンネルが供用を開始すると3月13日の運行を最後に青函連絡船は廃止された。最終便は、函館側が羊蹄丸、青森が八甲田丸だった。 比羅夫丸 田村丸 開航記念絵葉書 この時に工マークが定められた。 稚泊・青函の両航路を走った亜庭丸 転覆した洞爺丸
第415号 青函連絡船の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2017年07月17日

海の日は明治丸の歴史

函館港に停泊中の景


〝明治丸〟は政府が英国に発注し、明治8年に横浜へ回航した灯台船。豪華なサロンを備える鋼船で、灯台業務だけではなく、御召船や外交などの重要用務にも使われた。明治9年の奥羽・北海道御巡幸の帰路、函館を発した明治丸は無事、7月20日に横浜へ安着し、これを記念したのが「海の記念日(海の日)」である。
第413号 海の日は明治丸の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2017年07月17日

マルキ号製パンの跡・補追

マルキ号製パン、水谷政次郎のこと。



第412号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月16日

マルキ号製パンの跡 1


東洋一のマルキ号パン、パン王・水谷政次郎が作り上げた遠軽町丸瀬布のマルキ通りと水谷町。パン王・水谷政次郎の発願による遠軽町丸瀬布の弘政寺と四国八十八カ所。水谷橋。海軍と関係が深かったマルキ号製パンの小麦農場があった紋別市沼の上の水谷集落。近くは水陸飛行場予定地だった、らしい・・・。
第411号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月04日

知床三堂例大祭


知床三堂祭 6月25日に斜里町の知床三堂祭に参加した。法隆寺の大野管長、京都仏教会の有馬理事長ほか、お歴々を拝顔し、有りがたい読経と説法にあずかった。地元を愛する佐野博さんと故・立松和平さんとの友情に始まった三堂祭、日本の伝統文化に基いた地域づくり、地方発信の典型例である。豪雨、超低温のなか、四百名は超える参加があった。7/17に日経系TVで放映される。 北海道文化遺産活用活性化実行委員会聖徳太子講調査班(北海道文化財保護協会)
第410号 北海道文化財保護協会の太子講調査追補     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 1/3 『鴻之舞』は、アイヌ語の(ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処)に将来の発展を祈念し、(鳥王コウノトリが舞うが如し)と、発見者らによって名付けられた。本年は、大正六年に住友鴻之舞鉱業所が開所して百周年にあたり、紋別市ではさまざまなイベントが予定されている。さて、ここでは鉱業所の開所までの前史について述べる。○鴻之舞の出願競争 さて、大正六年に買山し、後に住友財閥の大躍進を呼んだ東洋一の大金山は、同三年に上藻別六線沢で鉱床が発見され、翌年、元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正五年には元山大露頭が発見され、飯田嘉吉を組合長として操業を開始したのであるが、そこにはまるで小説まがいの鉱区出願競争があった。沖野永蔵と羽柴義鎌は、大正五年三月十三日に試掘許可を得た。これまで秘密裏に運んでいたのだが、沖野が不在中、万事に派手好きな羽柴が一席やってしまった。しかし、招待者は、気もそぞろに緊迫し、祝宴半ばに解散となった。先年には、八十士砂金騒動と呼ばれる騒乱を起こした面々である。さて、飯田組は、翌早朝、最寄りの社名淵駅(遠軽)まで馬車を馳せ、その日は野付牛(北見)に泊まり、翌朝に札幌へ向った。一方、古屋組も早々に札幌へ走ったが、途中、野付牛の駅頭で双方がばったり、互いに相手方の素早さに驚きながら、そ知らぬ顔で汽車に乗った。結局、金にものを言わせた飯田組が主だった鉱業代書人を買収して、相手方の動きを封じ、先手を打って沖野組鉱区の包囲出願に成功したと云う。 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル 北海道鐄業誌/大正13年 現在の上藻別六線沢 元山大露頭跡
第409号 住友鴻之舞鉱業所100周年 1     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 2/3 ○紋別のゴールドラッシュ 枝幸に始まった東洋のクロンダイクは、紋別の八十士や鴻之舞、沼の上と相次ぐ金鉱の発見へ繋がった。八十士砂金鉱/枝幸砂金を採り尽くして四散した山師のひとりが、手で掬えるだけの砂金に出くわしたのは、明治三八年の師走で、尾行までした出願採鉱の争いでは、紋別組と山形組(山形勇三郎)が鋭く対立、これに湧別組が加わった。この騒動では逮捕者を出し、鉱山監督署が介入して共同経営に落ち着いて、大正八年には住友へ売山された。鴻之舞金山/一般に伝わる発見の端緒は、知識があった今堀喜三郎が上藻別を有望とみて沖野に探鉱を委ね、大正三年の六線沢の金鉱発見となったが、このときは低品位で事業化しなかった。同四年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金があると聞き、羽柴と探鉱を続け、翌五年には地理に明るい鳴沢弥吉の協力を求めて、ついに「元山大露頭」を発見した。さて、そもそも沖野へ話したのは、いったい誰か? 丸瀬布町史によると、明治二七年頃に上川近文コタンから渡ってきたアイヌ人の布施イタキレが、ある鉱山師に上藻別の沢で米粒大の砂金が採れると話したところ、共同しようと云われて案内したが、自分を除いた共同経営となり、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。はてさて、操業までの出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か…。沼の上金山/新たな金鉱発見に沸くなか、燐寸用材を伐採する黒川ほか六名が、有望な転石を発見したのが大正五年三月である。翌年には今掘と飯田を加えて試掘の許可を得たが、鴻之舞を知る今掘らは見劣りを感じ、後の大漁を逃がす結果となった。大正十一年には栖原角兵衛の所有に移って高品位な鉱床の発見となり、のちに三菱鉱業が買収して、金鉱整備令後も硅酸鉱として休山せずに操業した。
第408号 住友鴻之舞鉱業所100周年 2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 3/3 ○鴻之舞の売山 相争う不利益と各自の資金不足から、ここに沖野・羽柴・今掘(以上沖野組)、飯田・池澤亨・岩倉梅吉(以上飯田組)に発見の功労者として鳴沢と橘光桜を加えた八人衆の匿名組合が発足した。しかし、余りの大規模さと鉱山長となった吉田久太郎の資金の使いっぷりに事業費に窮した組合は、日立鉱山と幌別鉱山へ露頭下の高品位な鉱石を三万円で売り、急場をしのいだ。こうして日本一の大金山の発見は、たちまち中央の知るところとなり、結局、九十万円をポンと出した住友に売山され、これら発見からの裏表は山師たちの伝説となり、一攫千金を得た八人衆も悲喜交々の後日譚を残すことになった。 百周年記念事業/紋別市 最初の精練所 昭和10年頃 売山契約書 特別展 鉱山開山100周年 開山100周年記念式典 開山100周年記念祝賀会 札幌交響楽団念コンサート 鉱山開山100周年・講演会
第407号 住友鴻之舞鉱業所100周年 3     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年06月23日

マルキ号パンと海軍飛行場


マルキ号パンと海軍飛行場  我が紋別市には東洋一と云われたものが二つあった。ひとつは、かの住友鴻之舞金山であり、そしてマルキ号パンの農場である。マルキ号パン(水谷パン)は、創業者の香川県人・水谷政次郎が、あのアンパンで有名な木村屋と出会ったことによる。後に日本で初めてイースト菌の製造販売に成功し、大坂を拠点に、これまた日本で初めての本格的なチェーンストアを形成して、東洋のパン王と呼ばれた。大正六年にはドイツ人捕虜二名を借り受けて、製パン技術を伝習したという逸話がある。そして政次郎が目指したのが小麦の自給であり、北海道の各地に○キ水谷農場を開設して機械を使った大規模で近代的な営農を行った。また、海軍に依頼されてセレベス島に農場を開く計画もあった。かっての千歳空港には、○キ水谷農場があったもので、海軍の接収に合い、その移転補償費をもって昭和十六年に紋別町沼の上の民有未墾地二百四十町歩を買い上げて八戸を入れた。しかし、土地が悪く、同十八年には自作農へと開放し、こうして水谷集落の名が残った。さて、戦中の紋別町民が献納した愛国紋別号の写真には水陸飛行場予定地とある。そこは戦後に民政飛行場となり、長くYSが飛んでいた。代替地の水谷集落に隣接し、これら何がしかの関係があったのではないか。また、長女の婿の清重が隣町の湧別屯田の出であり、紋別高等小学校に通ったともいう。マルキ号パンは、丸瀬布や小清水のマチづくりに貢献し、石北線の敷設運動にも大きな力を与えたもので、しかして道内の歴史上で取り上げられることは少なく、いずれの機会に詳しく紹介したい。
第406号  海軍とマルキ号パン      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:07Comments(0)北海道の歴史紋別の歴史

2017年05月11日

御真影奉安殿


煉瓦建築物の一様態 さて御真影奉安殿と教育勅語の研究は、仲間からはマニアックと云われるが、昨年の民俗建築学会での講演は、まずまずの好評価で研究成果として認められ、近々に論文集が刷り上る。これは建築の視点で奉安殿の歴史を語るもので、煉瓦に関する話しも出て来る。積極的に御真影が下付されるようになって間もない明治28年に月形小学校が御真影と教育勅語を焼失させた。関係の驚きは大きかったようで、多分、北海道内で初めての事だったのだろう。そうして明治30年に月形小学校の奉安殿は煉瓦造となり、それから吉岡小学校(福島町))など、あちこちで煉瓦造の奉安殿が建築されるようになる。こうして独立棟の建築は、むしろ本州よりも北海道が積極的で、早い時代の奉安殿には煉瓦造が多かったようだコンクリート造が全国一般となるのは、関東大震災後の大正末期以降である。大正12年建築の中湧別神社にある奉安殿
第405号  北海道の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 20:32Comments(0)北海道の歴史古民家・古建築

2017年04月16日

三平汁と石狩鍋




〇身近な伝統食 先だって某観光ホテルに宿泊したときに「三平汁」と称してサケ汁を客に提供していた。味噌仕立てか、そうでないかは別にして、サケは「石狩鍋」であり、『本来の三平汁は、漬けたニシン(冷温に保てなかった昔は、生が傷んで酸味があり、また、保存用に付け込んだ)を使いますヨ』と、そっと教えてあげた。 さて、サケの伝統食と云うと塩サケだが、薄塩の「新巻」と「塩引」とは違う。「塩引」を何度も手返して漬け直し、熟成させたのが「山漬」だ。近年の健康志向で塩辛いものは敬遠されがちだが、聞くところによると網走の業者では、「山漬」の生産が追いつかない時もあるらしい。別海町西別の「山漬」は、徳川将軍家へ献上され、戦前は、カムチャッカの「あけぼの印(ニチロ)」の塩サケが有名だった。 明治30年頃の開拓の手引書に『春ニシンと、若ブキを一緒に煮て食べると美味しい。』とあり、湧別の入殖者が、越冬の食料に困り、川でチカを獲って食べたところ、『臭くて見てくれは悪いが、とても美味だった。』と伝えている。また、厳冬期に湖沼で釣れるオオマイ(大きなコマイのこと)の鍋は、たいへん美味しく、身近で当り前なところに伝統食は引き継がれている。昔は、この辺りの浜の労働者が、ホタテ貝柱(乾貝柱)を煮熟したときの残り汁をオニギリにつけて食べたりもした。 戦前の塩サケの製造 鮭鱒聚苑/s17年
第404号  三平汁と塩サケ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:28Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年02月16日

留萌のニシン漁場


北海道文化財保護協会講演会 2017/2/8 留萌のニシン漁労 国史跡・旧留萌佐賀家漁場 積丹の斉藤や紋別の金平など、明治・大正期に鰊場で活躍した青森県人が多い。留萌の佐賀家も下北の人で、青森ヒバを扱う商人であった。大佐賀家は、一八四四(弘化一)年に礼受に漁場を置き、群来が見られなくなる一九五七(昭和三二)年まで、百年を越えて一所を経営したもので、番屋、網蔵、船蔵、干場、稲荷社など、漁場の景観を良く残して国史跡となり、また、当時の漁労・加工具をままに伝えて、国重要有形民俗文化財は、三四七五点にも及ぶ。和食文化が世界無形遺産となり、現在、北前航路のうち、函館・松前から敦賀までを日本遺産に指定しようとする構想があり、北海道の鰊文化が、あらためて見直され、弁財船の出発点であるオロロンラインが注目されることを期待する。

第403号  留萌のニシン漁場      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2016年11月20日

顕正寺の古い掛軸、紋別太子講

二百年以上前の掛軸

紋別では、明治四十一年に大工たちが浄土宗顕正寺に太子堂を建立して太子講祭が始まった。昭和二十七年に寄進を受けた皇太子の掛軸には、「天明元歳(一七八一年)奉開眼聖徳太子」と記されている。静岡県袋井市の真言宗篠ヶ谷山岩松寺から伝わったもので、岩松寺では、大工の棟梁に対して、免許皆伝の秘伝書を与え、太子講の絵讃(掛軸)を発行した。遠江・三河だけではなく、家康に従って下った江戸大工とも関係が深かったと云い、寄進者は、このいずれかの系譜の者であろう。 遠州から伝来の聖徳太子絵讃 紋別市の顕正寺 太子堂にて

第401号 紋別の太子講2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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