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2024年04月15日

満州事変の勃発から太平洋戦争へ 2/2

終戦80年、NO.012


12年3月 国体明徴を受け、文部省が国体護持の精神を著した「国体の本義」を編纂して全国へ配布する S12年7月 盧溝橋事件(日華事変)、盧溝橋で日中両軍の小衝突を発端して全面戦争に突入 S12年11月 軍令第1号によって新たな大本営令が公示され、同月20日には宮中内に大本営が設置された S12年12月 矢内原事件、軍部を批判した東大の矢内原教授が辞職に追い込まれる S13年4月 国家総動員法、戦時に国内経済・国民生活を統制する権限を政府に付与 S13年10月 河合事件、東大の河合栄治郎教授の著作が発禁のうえ休職とされ、罰金刑を受ける S13年11月 近衛文麿内閣が日満支三国の提携による東亜新秩序の建設を表明 S14年1~2月 平賀粛学事件、東大内の自由主義と右翼の抗争解決のため、平賀総長が河合・土方の両教授を休職にした S14年2月 鉄類の第一次特別回収要綱を定めて官公署を中心に回収を開始、民間に向けた特別回収も始まった S14年3月 軍事教練が大学の必須科目になる S14年4月 映画法を公布し、シナリオの事前検閲と制作の許可制を実施とする S14年4月 米穀取引所を廃止し、米国配給統制となる S14年5月 ノモンハン事件、満州とモンゴルの国境ノモンハン付近で日本軍とソ連軍が交戦、日本側が大敗する S14年7月 国民徴用令が施行し、戦時下の軍需産業へ必要に応じて人員を徴用できることになる S14年9月 興亜奉公日を制定(のち大詔奉戴日)、戦地を偲び毎月1日を禁酒禁煙、一汁一菜などの質素倹約日とした S15年1月 津田左右吉事件、古代史研究が右翼に告発されて検挙、早大教授を辞職 S15年2月 反軍演説問題、国会で斎藤隆夫が事変処理を糾弾、陸軍が反発し、のち議会主流派によって議員除名された S15年4月 陸軍志願兵令を公布、志願選抜された少年は航空学校・飛行学校で学ぶと少年飛行兵(上等兵)となる S15年4月 基本国策要綱で『皇国ノ国是ハ八絋ヲ一宇トス(天下をひとつの家とする)』とし、大東亜新秩序の建設をうたう S15年9月 日独防共協定・日独伊防共協定を発展強化して日独伊三国同盟を調印、これが日米関係を悪化させた S15年10月 政府は戦時下で新体制運動を推進、既成政党を統合して国大政翼賛会を組織した S15年11月 紀元二千六百年記念式典、宮城外苑で行われた奉祝式典は実況中継された S15年12月 内閣情報部を内閣情報局に格上げし、情報統制を強化 S16年1月 陸軍大臣東条英機が「戦陣訓」を通達。戦場での軍人の道義的高揚を促し発布した訓諭、心得 S16年7~8月 米国内の日本資産を凍結し、8月1日には石油輸出を全面禁止、ABCD包囲網なる S16年8月 金属類回収令を公布し、死蔵品、不用品、廃品の積極的な整理を勧請した S16年10月 ゾルゲ事件、ソ連共産党のゾルゲが近衛総理のブレーン尾崎秀実に接近して諜報活動を行ったスパイ事件 S16年10月 近衛内閣が総辞職して東条英機が総理となり、首相が陸軍大臣を兼務する軍事政権が成立 S16年11月 差別主義のルーズベルトは日本を特に蔑視、ソ連共産党の企みに乗ってハル・ノート(対日最後通牒)を示す S16年12月 真珠湾攻撃とマレー作戦、米英に宣戦布告する、太平洋戦争へ突入する 終戦80年、NO.012
  

2024年04月06日

満州事変の勃発から太平洋戦争へ 1/2

終戦80年、NO.011


満州事変の勃発から太平洋戦争へ S5年9月 橋本欣五郎・坂田義朗・根本博・樋口季一郎ら陸軍佐官級将校が国家改造を目指して秘密結社桜会を結成 S5年11月 ロンドン海軍軍縮条約の締結は統帥権の侵犯だとし、右翼青年に浜口雄幸首相が狙撃される。翌年に死亡 S6年3月 三月事件、桜会が右翼の大川周明と結んで宇垣一成陸相を首相とする軍事政権の樹立を企てたが失敗 S6年6月 中村大尉殺害事件、北満を巡見中の中村震太郎大尉らが屯懇軍に強殺され、遺体が焼滅された事件 S6年7月 万宝山事件、移住朝鮮人を中国警察が取り締まり、中国農民が蜂起して発砲、日本側も武装警官が応戦した S6年9月 柳条湖事件(満州事変)、関東軍の石原莞爾中佐らが自ら鉄道を爆破し、それを口実に軍事行動を起こす S6年10月 十月事件、橋本欣五郎中佐ら桜会と右翼の大川周明・井上日召らが独裁政権の樹立を企てて未遂に終わる S7年2~3月 血盟団事件、井上日召らが一人一殺を掲げて国家改造を唱え、前蔵相井上準之助と三井理事長団琢磨を暗殺 S7年3月 清朝最後の皇帝(宣統帝)であった溥儀が執政となって満州国の建国を宣言 S7年5月 五・一五事件、海軍将校らが血盟団の残党や大川周明と結び犬養毅首相を暗殺、各所を襲撃したクーデター S7年6月 警視庁に特別高等警察部を設置し、特高警察網を拡大、全国の都道府県にも特高課を置く S7年9月 日満議定書を調印、日本が満州国を承認する S7年10月 国際連盟が日本へリットン報告書を通告する S8年2~3月 国際連盟が満州国を不承認、全権松岡洋右が大演説の末に総会から退場する、のち国際連盟の脱退を通告 S8年5月 滝川事件、司法官赤化事件に関連して京大の滝川幸辰教授は危険思想だとし、鳩山一郎文相が辞職勧告 S8年7月 神兵隊事件、愛国勤労党・大日本生産党と陸海軍中佐らが首相官邸、警視庁ほかを襲撃しようした未遂事件 S8年12月 軍民離間問題、帝国議会の予算等決議について、軍が突如として『軍民離間の言動を為す』との声明を発する S9年2月 中島久万吉大臣が逆賊である足利尊氏を讃美したとして陸軍中将菊池武夫が問題化、大臣が辞職した S9年3月 満州国が帝政を実施し、執政の溥儀が即位する 終戦80年、NO.011
  

2024年03月07日

満州国の建国

終戦80年、NO.010


満州国の建国 清王朝は、女真族が東北部に後金を建てたことに始まる。後に「満州」を名乗り、1636年に「清」と改めた。これを背景に関東軍は、ラストエンペラー溥儀(宣統帝)を擁立して傀儡国家の建設を企てたのである。こうして昭和6年11月10日、溥儀は特務機関長の土肥原大佐によって天津から脱出、関東軍の保護を受けることになった。昭和7年3月1日に中国の黒竜江省・吉林省・遼寧省からなる「満州国」の建国を宣言する。9月15日には日満議定書を調印し、我国は満州国を承認した。 日満議定書の調印 関東軍の武藤司令官と満州国の鄭国務総理 満洲国帝政記念写真帖 昭和9年刊 執政時代の溥儀と婉容 新満洲国読本 昭和7年刊 終戦80年、NO.010  

2024年03月03日

満洲事変(柳条湖事件)

終戦80年、NO.009


満洲事変(柳条湖事件) 満州事変は、天才と称された関東軍の作戦参謀石原莞爾中佐と後に大将・陸軍大臣となりA級戦犯として死刑にされた高級参謀板垣征四郎大佐が主導した。石原中佐は、著書の「満蒙問題私見」の中で、『満蒙は国防の拠点で、朝鮮統治と中国指導の根拠のためにも関東軍が主導し、謀略をもって好機に乗じて領土となそう』と述べている。昭和6年9月18日午後10時20分ごろ、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。爆破を自作自演した関東軍は中国軍の仕業だとし、翌19日午前1時、本庄繁司令が奉天・長春・営口・安東ほか沿線へのいっせい攻撃を命令、同日の正午迄には攻撃地を殆ど占領してしまった。この事態を同日朝にはラジオ放送が臨時ニュースで速報、新聞も号外を出して大々的に伝えた。
9月21日、これを若槻礼次郎内閣は事変だとし、24日には不拡大方針を発表したが関東軍は無視、林銑十郎司令が率いる朝鮮軍も加わって全満州を占領してしまう。この軍事行動を巡って挙国一致を唱える軍寄りの安達謙蔵内務大臣(副総理格)が若槻首相と対立、若槻閣内は総辞職に追い込まれた。国際連盟は中国の提訴を受け、昭和7年2~3月にかけ、リットン調査団を日本・満州・中国へ派遣した。10月に国際連盟は、日本の侵略であって自衛ではないと公表した。 終戦80年、NO.009 証拠とされた中国兵の軍帽と爆破された枕木 満蒙事変大写真帖、昭和6年刊 国際連盟より 派遣されたリットン調査団 産経新聞https://www.sankei.com/ (上)高級参謀・板垣征四郎大佐 (下)作戦参謀・石原莞爾中佐 陸軍の中心人物・革新の巨星、昭和12年刊 関東軍司令部 満洲事変紀念大写真帖附録 最新満蒙大地図、昭和7年刊 内田康哉外相とリットン卿
世界情勢と躍進日本外交史 昭和16年再版
  

2024年02月29日

柳条湖事件(満洲事変)の背景

終戦80年、NO.008
柳条湖事件(満洲事変)の背景 〇万宝山事件、万宝山に移住した朝鮮人が無許可で用水路を建設しようとして、中国警察が取り締まった。昭和5年7月、中国農民が日本の侵略だと押し寄せ、用水路を破壊して発砲する者もあり、日本側も武装警官が応戦した。 〇中村大尉殺害事件 昭和6年6月27日、満洲北部を巡見中の中村震太郎大尉らが屯懇軍に強殺され、証拠隠滅のために死体を焼かれた。その事実は、柳条湖事件の9月18日に公表された。 〇満鉄の経営危機、満蒙の邦人20万人が南満州鉄道に依存していたが、中国本土の鉄道網が次第に拡大し、また、廉価炭の移入もあって運賃収入が激減、銀建相場の暴落も痛手になった。中核企業の経営悪化は、満蒙経営の危機であり、権益維持の重大課題でもあった。 中村大尉と元曹長の井杉 終戦80年、NO.008 満蒙事変写真帖 昭和7年1月19日発刊  

2024年02月26日

大戦への第一歩、満州事変

終戦80年、NO.007


大戦への第一歩、終戦80年、NO.007 参謀石原莞爾中佐は天才と呼ばれ、その「世界最終戦争論」の中で、東西文明の最終決戦が日米間で争われると予想、まずは満蒙問題を解決すべきとした。さて、日支交戦の急報に特務機関へ奉天総領事代理の森島守人が駆けつけると、何故か旅順にいるはずの高級参謀板垣征四郎大佐がいて、緊急のために司令に代わって命令したのだと云う。森島は外交での解決を促したが、統帥権に領事館が干渉するのかと花谷中佐は軍刀を抜いて威嚇した。関東軍司令の本庄繁中将、最初に出動した大隊長の島本正一中佐も知らずに事が進んでいた。 
終戦80年、NO.007 石原莞爾中佐 板垣征四郎大佐 事変を画策した関東軍参謀 明治百年史、昭和42年刊
  

2024年02月23日

天皇機関説問題

終戦80年、NO.006


天皇機関説問題 主権は国家に有り、天皇には無く、法人たる国家を代表するのが天皇であって最高の機関であるという考え。貴族院議員(予備役陸軍中将)の菊池武夫が、昭和10年2月の本会議で、通説だった美濃部達吉の天皇機関説を批判すると政友会も加わって激しい政治闘争になった。こうして岡田啓介内閣は、天皇機関説を否定する「国体明徴に関する政府声明」を発した。『大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存すること明かなり』。文部省も国体明徴・教学刷新を掲げて文教行政を進めることになり、戦時思想の形成・統制をいっそう強化した。昭和12年に教授要目を改定し、同年に「国体の本義」を発刊して全国へ配布、昭和16年には「臣民の道」を刊行して国体概念を具体的に示した。 終戦80年、NO.006 問題の著作 大正12年刊 美濃部達吉 アサヒグラフ1948年 6月23日号
  

2024年02月18日

元帥

終戦80年、NO.005


元帥 日本の軍隊においては、「陸軍省日誌明治五年第廿號」によるととろ、明治5年7月19日に参議の西郷隆盛が陸軍元帥を仰せつかった。これが最初と思われるが、後に賊軍となってしまう。大日本帝国陸海軍となってからは、明治31年の「元帥府設置ノ詔勅」に『特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス』とあり、天皇の統轄幕中に元帥府を置いて、大将の上位に位置して軍事最高顧問とする元帥府条例が明治31年1月20日に交付された。このときに叙任されたのが、山縣有朋(陸軍)、彰仁親王(陸軍)、大山巌(陸軍)、西郷従道(海軍)の四名であった。宮中の席次については特に定めが無かったが、明治31年1月27日の伺いに枢密院議長の黒田清隆の席次を『特ニ総理大臣ノ次席ヲ賜フ、特ニ元帥ノ上席ヲ賜フ』とあり、特に栄誉ある職であったことが分かる。元帥は終生現役であり、予備役とはならない。終戦までの陸海軍で延31人(西郷隆盛を除く)がいた。 山本元帥史伝昭和19年8月19日発行 東郷元帥写真帳昭和14年5月10日発行 終戦80年、NO.005  

2024年02月15日

統帥権と皇族軍人

終戦80年、NO.004


統帥権と皇族軍人 統帥権 旧大日本帝国憲法第11条には、『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とある。こうして国軍の統帥権は天皇の大権のひとつで内閣には属さず、一般の国務から独立したものと解されたが、その範囲の解釈に行政府と軍部の双方間で疎意があった。 皇族御写真御大典記念金枝玉葉帖、昭和3年刊 皇族軍人 明治19年3月に参謀本部条例を改正し、本部長は皇族が就任することになる。 〇閑院宮載仁親王 日清戦争と日露戦争に従軍。大正元年に大将、同8年元帥、昭和6年から同15年10月までは参謀総長を務めた。陸軍は「総長宮」と呼んで権威を利用、英米寄りの米内光政総理のとき、陸軍大臣の畑俊六を辞任させて内閣総辞職へ追い込んだ。 〇伏見宮博恭王 日露戦争では戦艦三笠に乗船して負傷した。大正11年に海軍大将、昭和7年には元帥となり、海軍軍令部長(のち軍令部総長と改名)に就任して同16年4月まで海軍の最高責任者にあった。 海軍内にあって強く軍縮に反対する強硬派の後ろ盾となり、退任後も人事権を掌握して海軍大臣の決定に影響を与えた。 終戦80年、NO.004  

2024年02月12日

大本営

終戦80年、NO.003


大本営 昭和12年11月17日の軍令第1号によって新たな「大本営令」が公示され、同月20日には宮中内に大本営が設置された。大本営とは、戦時や事変時に開設された天皇直属の最高統帥機関で、参謀総長・海軍軍令部長が陸軍・海軍の幕僚長に任じられた。昭和19年8月に「最高戦争指導会議」と改称されて、参謀総長・軍令部総長・内閣総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣が列席し、他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長らも必要に応じて出席した。重要事項の審議には、天皇が御臨席なされて「御前会議」になる。大本営は昭和20年9月13日にGHQの指令によって廃止された。太平洋戦争への突入を知らせた臨時ニュース、『大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』は良く知られる。 終戦80年、NO.003 大本営衛兵所 絵はがき  

2024年02月10日

内閣情報部(のち内閣情報局)

終戦80年、NO.002
内閣情報部(のち内閣情報局) 昭和11年の2・26事件の際、内務省警保局が記事の掲載禁止を通告したが、これが切っ掛けとなって、言論統制がいっそう強化されて行くことになった。それまで各省の情報担当間で調整を図っていた「情報委員会」は、昭和11年7月1日に内閣総理大臣下の正式な「内閣情報委員会」になる。内閣、外務省、内務省、陸軍省、海軍省、逓信省から常任委員を派遣した。翌年9月25日には拡充されて「内閣情報部」に組織替えとなった。こうして昭和16年12月8日の太平洋戦争の開戦当日、内閣情報局が戦争報道は大本営が発表する以外の記事掲載を一切禁止し、政府の都合の良い戦意高揚を煽るだけの報道が垂れ流された。大本営発表のラジオのBGMは、陸軍が「観兵式行進式」、海軍は「軍艦マーチ」、玉砕などは「海行かば」だった。国民へ向けた国威発揚、戦時啓発のために内閣情報部(のち内閣情報局)が刊行した『写真週報』は、昭和13年2月16日付の創刊号(写真)に始まり、終戦前月の昭和20年7月11日付の374・375合併号まで続いた。 終戦80年、NO.002 大本営海軍部で伏見宮殿下 報道写真海軍作戦記録 昭和19年刊  

2024年02月08日

東宮さま、巴里へ行く

終戦80年、NO.001


皇太子さま、巴里へ行く 今年は、パリ・オリンピック!! 昭和天皇が皇太子時代にヨーロッパを外遊し、エッフェル塔を訪れたときの写真。 ヨーロッパを外遊中に殿下に似た親戚にあたる従者が殿下になりすまし、殿下本人は一般人の振りをし、自由に周遊したとの話も…。 さて、来年の終戦80年へ向けて、これから戦時を語って行きます。 終戦80年、NO.001 皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第10巻  

2017年11月13日

二宮尊徳像と国家主義



あちこちに二宮尊徳像が建てられた理由 昭和10年に中央報徳会、大日本報徳社、全国町村長会、帝国教育会ほかの団体が共同し、全国で『二宮尊徳翁八十年祭』を開催した。ときの内相は、地方官会議において大いに報徳精神を喧伝し、これを契機に各地にたくさんの尊徳像が建立されるようになった。明治41年に『戊申詔書』が渙発され、日露戦争後の個人主義や社会主義の台頭を戒め、勤倹力行して疲弊した地方の再生に当たろうとした。この〝地方改良運動〟を支えたのが「二宮尊徳」の〝報徳仕法〟で、本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱える暮らしを助けるものであったが、この報徳精神を内務行政に取入れたのは、のちに「大日本報徳社」の社長となった〝一木喜徳郎〟が内務次官のときで、こうして国家主義の重要なカテゴリーとなって行った。 昭和12年7月に建立したが、同17年10月に応召され、同18年5月に陶製を再建した。当別町の旧弁華別小学校
第431号 二宮金次郎の像      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年07月22日

御真影奉安殿










第417号 御真影と奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月21日

ゼロ戦のスペック三面図








第416号 零式艦上戦闘機のスペック     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年04月22日

教育勅語


§教育勅語の成立過程 ①伝統的な日本的儒学 江戸時代の学問は儒学が中心にあり、その後に続く日本的儒学は藤原惺窩の「朱子学」に始まった。惺窩に推挙されて徳川家康の侍講になった林羅山は、仏教は虚学であり、朱子学を実学とした。代々林家が大学頭となった昌平坂学問所(昌平黌)は最高学府であり、朱子学が正学として諸藩校の模範となった。「教育ニ関スル勅語」の草案作成に中心的な役割を果たした元田永孚は、明治4年に宮中に召され、以後、20年に渡り天皇の近くに仕えて啓沃に当たり、君徳を醸成し、帝王学を教授した。永孚の考える立憲君主制下の教学は、朱子学を基礎とし、皇国思想に仁義忠孝を基本とし、行き過ぎた欧化教育を批判したが、西欧文化の長所の享受を否定するものでは無かった。永孚の考える教学は、勅令によって編纂された「幼学綱要」に見ることが出来る。「幼学綱要」は、孝行、忠節、和順、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、敏智、剛勇、公平、度量、識断、勉識を20の徳目に掲げ、孝経・五経・四書で解し、それを和漢の道徳的事跡を例に説明したもので、国民の守るべき道徳として明治天皇自らも宮中で講義された。 ②教育勅語渙発までの経緯 近代的な中央集権国家の建設を急いだ明治政府は学制を公布し、教科書の出版を急いだ。欧米文化が尊ばれた時代に福沢諭吉の「西洋事情」などの啓蒙書や米国のウィルソン・リーダーなどの輸入教科書が多用され、日本には馴染まない内容も多かった。明治11年に明治天皇は東山北陸東海の各校を御叡覧し、洋風化を競う学風に憂慮され、元田永孚をして教学の方針を示した(聖旨教学大旨)。また、政府も自由民権運動の激化にそれまでの欧化主義を改めようと考えた。こうして翌12年には教育令が公布され、仁義忠孝に基づく儒教的皇国思想へと教育方針が変更され、明治15年には天皇の勅命によって国民が守るべき道徳を説いた「幼学綱要」が編集された。初代文部大臣の森有礼は、万世一系の国体と忠君愛国の精神に基づく教育改革に取り組んだが、途中で死去してしまう。天皇は明治19年10月に東京帝大へ御臨幸した際、大学は人材を育てるところであるから修身を拡充するよう喩旨され(聖喩記)、また、同20年5月に所管内を視察した北垣国道京都府知事は、宮中へ徳育に問題があって国民教育の根本として最も重大であると復命した。この頃、地方長官の間でも行き過ぎた西欧思想教育を見直そうとする機運が高まり、帝国憲法の公布を前に石井省一郎岩手県知事ほか有志たちは、日本的な国民道徳・徳育の方針を文教の立場で確立すべきとの運動を展開した。そうして明治23年2月の地方長官会議において『徳育涵養ノ義ニ付建議』が決議され、山県有朋内閣へ提出されて、御前会議で“教育上の箴言”を編纂せよと天皇が沙汰したことで消極的な榎本武揚文相は更迭され、芳川顕正が就任した。こうして山県、芳川、元田に井上毅法制局長官が加わり、井上案を基本に元田が中心となって草案が煉られた。明治23年10月30日にいよいよ山県総理と芳川文相が宮中へ召されて天皇の御言葉としての『教育ニ関スル勅語』が下賜され、それは政治的宗教的な要素を避けつつ、哲学論ともならないように熟考されたものであった。 【教育勅語の十二の徳目】 孝行、友愛、夫婦ノの和、朋友ノの信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇 ベースボールを扱った「ウィルソン・リーダー」の意訳本、「万国奇談」では、旧約聖書のアダムとイブやノアの洪水などが紹介されている。
第405号  教育勅語の成立過程      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年01月30日

御真影の廃止、奉還


御真影の奉還  終戦の前日に『全国的休戦等アラバ』、御真影を焼却すると軍事機密指令が発せられていたことは興味深い。さて、昭和21年元日(1946年)のいわゆる天皇陛下の「人間宣言」を控え、前年の12月20日(1945年)には、『従来下賜ノモノ全部取纏メノ上成ルベク年内二各地方庁二奉遷スルコト』と通牒され、御真影を奉還し、拝礼しないことになった。しかして、それは御真影を否定するものではなく、陛下の御姿が軍装だからで、『今上陛下御真影ハ将来新制定ノ御服装ニ改メラルベク』ものであった。そうして昭和21年4月5日(1946年)の「御写真取扱要綱」よって、新たな御写真の取扱いが示された。実際、昭和27年7月17日(1952年)に新たな御写真が秋田の女学校へ下付され、元の奉安所に納められたことに注目したい。 左上 御真影奉還ニ関スル件 参照 御真影に殉じた教師たち 平成元年発行 左下 御写真取扱要綱 昭和21年4月 アジア歴史資料センター蔵 右上 昭和の両陛下の御真影 筆者蔵 右下 朝日新聞 昭和27年7月18日号

第402号
     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年09月09日

北海道の御真影奉安殿


日本民族建築学会 第80回研究会 北海道の御真影奉安殿 釣山史 山田雅也 2016/9/24/土 15:00~17:00法政大学デザイン工学部 参加費500円 (学生無料) 小学校に建つ御真影奉安殿/昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション 頭を上げるとコツンとやられて、御真影や教育勅語に正対したこともない児童たちは80才となり、当時の混乱もあって記録や記憶が曖昧となった。本物の詔書類の鑑定もままならず、りっぱで荘厳な奉安殿も忘れ去られようとしており、また、限界集落が進行するなかで、奉安殿と詔書類の現存調査を行い、当時の様子をレジュメにまとめた。レジュメには30ほどの現存する奉安殿と奉安庫を掲載して、その保存の様態を紹介する。
第―号外 北海道の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年07月07日

道内の教育勅語を巡る事件簿

津別町本岐の教育勅語
 その当時、学校長の最重要の職務は、御真影や詔勅類の奉護であり、各校は災害に備えたが、頭を痛めたのが盗難・紛失である。そうして全国各地に奉護のために殉職したり、責任を負って自死する例が見られ、ここでは道内での事件を紹介する。

○留萌小学校長無理心中事件/大正元年9月の大喪儀から間もない頃、留萌小学校で教育勅語が道庁へ送りつけられ、収納箱が縁の下に投げ込まれるという事件が発生した。授業中の教師が拘束されるなどがあり、犯人が特定されないまま全教師が転出して学校は混乱した。新たに赴任した阿曽沼校長は、この事件と卒業式での不手際に責任を感じ、服毒自殺を図った。
○盤渓小学校長遭難事件/盤之沢特別教授場が昇格独立して新校舎が完成した。明日の開校式を前に持ち上がりで新校長となった結城三郎は、正装して2里離れた役場で教育勅語を拝戴した。その帰路の途中、猛吹雪となり、円山の商店主に投宿を勧められたが、明日は大切な開校式だからと断り、深雪を進むと新校舎を目前に進退窮まってしまった。翌朝、登校の生徒が雪に埋もれた校長を発見、羽織で大切な教育勅語を包み抱いて凍死していた。遺体は呆然とする父兄らに見守られてソリに載せられ、生徒たちに曳かれて無言の帰宅となった。大正11年12月23日のことであった。
○愛冠小学校、教育勅語紛失事件/昭和4年5月、足寄村の愛冠小学校で教育勅語が紛失した。学校に官憲が入る騒動となり、関係者が警察の取り調べを受け、検事が現場検証を行い、当時の新聞で大々的に報じられた。これは校長に叱責された教師たちが、腹いせに共謀したものとされ、結局、教育勅語は発見されず、あらためて翌5年10月に再下賜を受けて事態は収束した。
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第396号   教育勅語を巡る事件    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年02月03日

犬皮のお話し


犬皮のお話し 「冬のはきもの」の続き。戦中の物資不足に対応して様々なものが統制・転用されることになったとき、そのひとつに犬皮があった。津軽三味線は犬皮というが、豚皮には及ばずとも十分強度があるといい、犬皮は統制品となって、野犬や狂犬狩りから出る皮はクロムでなめして靴となった。そもそも、朝鮮や北満では皮革、特に犬皮が一大産業であり、日本でも昔は犬皮がよく防寒具とされ、戦時に畜犬は献納されて飛行服など兵士用の被服となった。ところで白瀬矗中尉の南極探検隊には、二名の樺太アイヌ人がいて、探検では、樺太犬の毛皮のコートと寝袋、アザラシ皮のブーツが非常に重宝したといい、樺太・北海道では、樺太犬の毛皮で出来たドンザが浜の親方衆などに着用され、昭和三十年代までは普通に見られていたのである。 犬皮のドンザ 紋別市立博物館犬皮のコートを着た出発前の白瀬一行

第391号  築80年のRC造りの橋     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2015年10月13日

標茶町の奉安殿


標茶町上御卒別の神社にある奉安殿 下見板の剥落、欠落はあるものの、内部はしっかりしている。弟子屈町に残るものとほぼ同じデザインの旧奉安殿。
第389号  奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2015年08月06日

旭川の奉安殿2



旭川市江丹別神社の内陣となっている奉安殿
第381号  江丹別の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月15日

風連日新の奉安殿

名寄市風連町にはふたつが現存している。
昨年閉校した名寄市立風連日進小中学校(旧日進国民学校)の旧奉安殿は、向かいにある教行山信証寺のお堂となっている。名寄地方らしく趣のあるレンガ造りだ。



第357回 風連の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月12日

新得町の奉安殿


 嗚呼、旭日マーク。これはまさしく奉安殿ではないか!!  すっぽり内陣に収まった旧上佐幌小学校の奉安殿。 上佐幌八幡神社内陣/新得町

第356回 新得町の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月09日

東川町の奉安殿


東川第三小学校の旧奉安殿は、重厚な石造りにシャチホコがりっぱ! 金比羅神社本殿/東川町

第355回 東川町の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年10月13日

鷹栖町の奉安棚

またまた、巡ってます。

鷹栖町郷土資料館収蔵庫に残る奉安棚



















第342回 奉安殿 朕惟フニ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  続きを読む

2013年09月22日

深川市の奉安殿



多度志村湯内の奉安殿 この連休に資料館7カ所のほか、十数カ所を巡見、その帰りすがらに奉安殿を発見した。神社の内陣に転用されることは多いが、このように社殿に包括して連結されるものは珍しい。 半菊花紋の旭日様という紋章に鉄扉、通風孔があり、奉安殿と判断した。偶然に発見、気づいたもので、とってもうれしい。



















第337回 旧多度志村湯内小学校の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年07月13日

美瑛と旭川の奉安殿



美瑛と旭川の奉安殿 奉安殿情報の確認のため、美瑛町に行って来ました。そして何と、ゆきずりでもうひとつ発見してしまいました。旧奉安殿と思われる美瑛町の下宇莫別神社内陣、美進小学校のものか?同じく奉安殿か?旭川市上旭日正の金刀比羅神社内陣、第2旭川小学校のもの?


































第354回 奉安殿ふたつ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年07月06日

御真影の本物かも!?

御真影の本物か?



 菊華紋の立派な黒漆塗り、重厚な額装に専用カバンが付いています。
 本物かも!!
 当時は、本校に下賜された御真影を許可を得て複写し、分校で奉載したりもしました。






































第353回 御真影の本物!?      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年06月20日

戦時遺産を残そう!!

 この15・16日に北海道史研究協議会の研究大会に参加しました。私は情報交流会で道東北の戦時遺産の保存状況についてお話しました。元某市教委の方が、現職時代に奉安殿を文化財にしておけば良かったと。話題に花が咲き、こうして右傾の仲間を増やしているのだ。






























道東北で戦時遺産の見直しが進む ~文化財指定ほか保存の状況 ◆旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所  (通称・稚内赤レンガ通信所) 昭和6年に送信所として建設されたレンガ造りの隊舎と倉庫が残る。当時は、アンンテナがそそり立っていたと云い、太平洋戦争では、一個中隊が配備され、大本営と最前線を中継した重要施設であった。稚内市歴史的建造物。 昨秋、釧路と十勝の戦時遺産を探索した。道東北では、一昨年の冬、稚内市の旧海軍幕別送信所の一部が積雪のために倒壊し、広尾町では野塚トーチカが海岸段丘を落下して話題となった。 この送信所は市の歴史的建造物であり、地元では通称・赤レンガ通信所と呼ばれて親しまれ、稚内市歴史・まち研究会と北海道建築士会宗谷支部が被害状況を調査し、現在、修築中である。しかし、この種のものの多くは、ごく一部の歴史愛好家が趣味的活動として来たのが実態であり、専門家や行政による保存事業は稀であった。最近、別海町に残る奉安殿が町の有形文化財となったが、学芸員によると思想的アレルギーもあり、指定にはたいへん苦労したという。大樹町では、歴史的に価値があるとしてトーチカが整備保存され、広尾町は、トーチカを記念物に指定した。観光的ではあっても文化財として残された意義は大きい。また、帯広市などは、平和推進事業の一環として防空壕跡に標柱を設置した。広尾町の豊似小学校にある二宮尊徳像は、戦時の金属供出のための陶製で、当時を物語る貴重な遺物であるが、著名な窯元で焼かれた備前焼は、本来の焼物としての価値も高い。 ◆旧柏野尋常小学校奉安殿 この5月に町有形文化財に指定された。役場庁舎の玄関を模して昭和12年に建設されたという。 ◆広尾町のトーチカ群 広尾町には12基のトーチカが現存する。同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、遊歩道を整備した。 ◆大樹町浜大樹のトーチカ群 大樹町では、15基が確認され、誘導看板や解説板が設置されている。 ◆豊似小学校の二宮尊徳像  青銅製が戦時供出されて陶製になった。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の木村興楽園である。同じものが紋別市の渚滑小学校にもある。 ◆旧日本軍トーチカ跡 網走市市制施行50年記念事業で設置された史跡標柱。網走歴史の会の調査では、市内に8カ所が確認できるという。 ~そのほか貴重な現存物 ◆美幌駐屯地 昭和15年に建設された旧海軍施設が27棟残り、火薬庫跡や米軍ハウスなどもある。本部隊舎は船先を模したもので玄関ドアは当時のまま。資料館「北辰館」には、戦闘機のタイヤや代用陶製の手榴弾などめずらしいものもある。 ◆旧計根別第一飛行場掩体壕跡 第二次大戦中、敵から飛行機を守るために建設された壕。根釧台地には美幌航空隊ほか標津、中標津、根室に飛行場があった。 ◆本岐国民学校(津別町)に残る詔勅類 これほど多種の詔勅類が、まとまって残されている例は、極めてめずらしい。 名称 公布等月日 備考 教育ニ関スル勅語 明治23年10月30日 天皇のお言葉を借りて政府の教育方針を示したもの 東京帝国大学ニ御臨幸ノ際賜ル御沙汰 明治37年 7月11日 日露戦時に於ける教育励精のお言葉 戊申詔書 明治41年10月13日 国民規範をうたう第二の教育勅語というべきもの 教育ニ關スル御沙汰 大正 4年12月10日 御大礼に際し、教育者へ彝訓の対揚を求めたもの 文部省訓令第8号 大正 4年12月11日 ④または⑤に添えられた 国民精神作興ニ関スル詔書 大正12年11月10日 大震災後の社会的・思想的な混乱を戒めたもの 教育ニ関スル御沙汰 昭和 3年12月10日 御大礼に際し、教学の振興を述べられたもの 教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語 昭和 6年10月30日 東京高等師範学校六十周年記念式典でのお言葉 文部省訓令第21号 昭和 6年10月31日 ⑨に添えられた 小学校教師ニ賜ワリタル勅語 昭和 9年 4月 3日 全国小学校教員精神作興大会でのお言葉 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語 昭和14年 5月22日 戦時体制へ向けての学徒の心構えをうたったもの 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(読み解説)  昭和14年 5月22日 ⑫に添えられた












第350回  北海道史研究協議会研究大会             北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/